出雲国「風土記」の神々と神社

出雲国風土記の旅

出雲国の村々

(島根県公式サイトより)

2022年秋、かねてより念願だった二回目の出雲旅行に出かけてきた。

1回目は誰でも知ってるメジャーな神社や史跡をまわってきたが、今回は「出雲国風土記」に登場する神々をテーマにした。


「出雲国風土記」は現存する5カ国の風土記の一つで、他とちがって中央から赴任してきた国司ではなく、出雲土着の国造さんその人が編纂に当たったのが特徴だ。


そんな経緯もあってか、それは出雲の民間の古伝というより、主に出雲国造家に伝わる伝承が集められたものだと見る、地元の研究者もいる。

命主社のカミムスビ

命主社(いのちぬしのやしろ)

まずは出雲大社のすぐ近く、境外摂社でカミムスビを祀る「命主社(いのちぬしのやしろ)」。


出雲国風土記では、冒頭に出雲独自の「国引き」の神「ヤツカミズオミツノ命」が登場するが、ヤマトの「国生み」の神、イザナミも顔を出している。

おそらくそこら辺が、出雲国風土記がヤマトとも関係が深い「出雲国造家の伝承」だといわれる由縁なんだろう。


さてカミムスビも記紀に登場する神だが、出雲国風土記によれば、その信仰圏は出雲国北部の島根半島を中心に、平野部の「出雲郡」と「神門郡」にまで広がるものだったようだ。


そこに「天の下造りし大神」と称えられる大穴持命(オオクニヌシ)がやってきて、カミムスビの娘たちに求婚したというんだから、カミムスビは大穴持命の前の世代の神になるんだろう。


もちろん、この「求婚」という行為は、フツーに考えれば政略結婚による「併呑」を美しく言い換えたものだろう。

カミムスビの孫に「佐太大神」がいるが、その頃にはカミムスビの信仰圏は、島根半島の東部「秋鹿郡」と「嶋根郡」にまで縮小していたようだ。

安来神社のスサノオ

安来神社

スサノオを祀る安来市の「安来神社」。

風土記のスサノオは、「飯石郡」「大原郡」そして安来のある「意宇郡」に本人の伝承が残ることから、その信仰圏は出雲国南部の山間部だと考えられているようだ。


そしてスサノオも娘が平野部の「神門郡」にいて、やはりオオナモチに求婚されている点からして、元々は出雲北部にカミムスビ、南部にスサノオの信仰圏があったところに、後からオオナモチを奉じる集団が勢力を増して、出雲全土を併呑していった・・というような歴史があった可能性がある。

神原神社のオオナモチ

神原神社

それじゃ、オオナモチを奉じて出雲平野の統一に乗り出した新興勢力はどこから来たかといえば、三角縁神獣鏡の出土した古墳で有名な、「神原神社」のある「大原郡(雲南市)」あたりだろうと、ぼくは思う。


風土記によると「神原の郷」は、オオナモチが「御神宝」を積み上げたという場所で、郡内には銅鐸の大量発見で知られる「加茂岩倉遺跡」があり、その北西3キロには358本もの銅剣が埋納されていた「荒神谷遺跡」もある。


『日本の神々 神社と聖地 7 山陰』では、このオオナモチ集団を「プレ出雲氏」と仮称していて、のちに出雲全域に影響を及ぼし、四隅突出型墳丘墓の文化を築きあげた人たちだろうと推定している。

粟嶋神社スクナヒコナ

粟嶋(あわしま)神社

オオナモチの相棒、スクナヒコナを祀る米子市彦名町の「粟嶋(あわしま)神社」。


出雲国風土記のスクナヒコナは、山間部の「飯石郡」をオオナモチと巡行したとき稲の種が落ちた、という農耕起源の説話にしか登場しないが、お隣の「伯耆国風土記」逸文に、日本書紀とよく似た記事がでてくる。


いわく、粟が実りすぎて穂から落ちたので粟柄(粟の茎)につかまったところ、弾かれて常世までスッ飛んでいったというもので、どちらがオリジナルかは不明だが、出雲国の神話ではないところから見ると、中央から赴任してきた伯耆国の国司が中央から持ちこんだものかも知れない。

能義神社のアメノホヒ

能義(のき)神社

安来市で出雲国造家の祖神「アメノホヒ」を祀る、「能義(のき)神社」。


出雲国風土記の「意宇郡」には「野城の大神」の記事があって、大穴持大神、佐太大神、熊野大神との4柱が共存共栄で祀られていた時代の存在を想像させるが、なぜか野城大神だけは祭祀が途絶えたか、今どこに鎮座するのか分からなくなっているそうだ。


一説によれば、こちらの能義神社の祭神・アメノホヒを野城大神の別名だともいうが、ぼくが気になるのは、風土記を編纂したのは第25代出雲国造の広嶋さんのはずなのに、祖神であるアメノホヒを「天の夫比」と書いていること。

「夫比」を「ホヒ」と読むんなら問題ないが、間違ってる場合には"含み"を感じる。


そもそも、出雲国造の奉斎する神は熊野大社の「クシミケヌ」だ。

アメノホヒは祀る対象というよりは、オオクニヌシを祀るという古の約束に従って、国造が一心同体となる神だときく。

それを間違って書くなんて、チト考えにくい。


アメノホヒの本名が「天の夫比」だからそう書いたのか、あるいはヤマトに与えられた神名だから、わざとテキトーに書いたのか、・・・謎は深まるばかりだ。

阿須伎神社のアジスキタカヒコネ

阿須伎(あすき)神社

アジスキタカヒコネを祀る、出雲市大社町の「阿須伎(あすき)神社」。


風土記には「出雲郡」に11の官社、29の国社のアスキ社が記録されているが、当の出雲郡にアジスキタカヒコネのエピソードは全くでてこない。

これは不思議だ。


というか、オオナモチの御子だという割りには、幼児期に泣いてばかりいた件と、現在は「(大和の)葛城の賀茂の社」に鎮座している件を除けば、風土記にはアジスキタカヒコネ「本人」にまつわるエピソードがまるでない。


そういえば、日本書紀にもアジスキタカヒコネと大己貴命の親子関係を示す記述はないわけで、アジスキタカヒコネを出雲の神だとするのは、あくまでも出雲側の主張であるように、ぼくには思える。

美談神社のフツヌシ

和加布都努志(わかふつぬし)」の祠

風土記で何度も名前がでてくるオオナモチの御子神が、もう一人。

なんと、ヤマトの使者として国譲りで活躍した「経津主命(フツヌシ)」が、出雲市の「美談(みたみ)神社」で祀られていた。


本殿の脇には、出雲国風土記での神名である「和加布都努志(わかふつぬし)」の祠もあったが、こういう場合、氷川神社のアラハバキのように、元々の主祭神が脇で祀られてるケースが結構あるようだ。


さて日本書紀のフツヌシと、風土記のフツヌシは同じ神か、別の神か。


ぼくが調べた限りでは、それらを別の神だとする説は見あたらなかった。

というのも、あの「出雲国造神賀詞」にも「布都怒志」は登場し、そこでも地上の荒ぶる神の平定とオオナモチの国譲り、という同じ事業に活躍しているからだろう。


しかしそんなフツヌシを、出雲国風土記ではオオナモチの御子神だという。

ならばアジスキタカヒコネがオオナモチの子だという件も、それと同じぐらい矛盾した変テコな話である可能性はあると思う。

美保神社のミホススミ

美保神社・舞殿

おまけで、2019年秋に参詣した松江市の「美保神社」。


祭神のコトシロヌシは、記紀では大国主神/大己貴神の御子神として登場し、国譲りに賛成を表明したのち、美保関の海中に消えていったことから出雲の神だといわれるが、肝心の出雲国風土記にその名は全くでてこない。


それどころか風土記では、美保の神は、オオナモチが高志(越)のヌナカワヒメとの間に授かった「御穂須々美(ミホススミ)の命」だと書いていて、だから、この地は美保というのだ、という地名起源まで付いてくる。


つまりは国ゆずりに際し、オオクニヌシの意志を告げるために呼ばれてきた「託宣の神」がコトシロヌシだということで、もちろんそこに親子の関係など存在しない。

美保神社の元々の祭神は、ミホススミの一座だっただろうと『日本の神々 神社と聖地 7 山陰』には書いてある。

※なぜ、アジスキやコトシロが出雲の神にされたのか、ぼくなりの考えはこちらです。

【関連記事】「出雲国造神賀詞」と大物主神