2022年夏に参詣した、滋賀県米原市の式内社で「山津照神社」。鳥居から拝殿までがフカフカの草っ原(芝生?)というのは、初めての経験だった。
現在の祭神は「国常立尊」とされるが、『日本の神々・神社と聖地 5 山城近江』では「息長氏祖神説」が論じられている。
「息長氏」は琵琶湖の東部に勢力を張った古代豪族で、東山道・北陸道への交通の要衝をおさえ、伊吹山山麓での製鉄も支配したのだという。
(山津照神社古墳)
山津照神社の境内にある「山津照神社古墳」は、全長63mの前方後円墳。
年代的には200年ほどずれてしまうが、地元では昔から「岡山」と呼んで「息長宿禰王」のお墓だと伝えられてきたそうだ。
その息長宿禰王の娘が「気長足姫尊」で、第14代仲哀天皇の皇后にして、第15代応神天皇の母となった女性だ。諡は、言わずと知れた「神功皇后」。
明治政府は1909年の『尋常小学日本歴史』では、事実上の天皇として、巻末の「歴代天皇一覧」に神功皇后を加えていたんだそうだ。
(『皇后考』原武史/2015年)
(山津照神社古墳)
(JR米原駅)
ただ、息長宿禰王と息長田別王は(いずれも皇族だが)ルーツが異なるわけで、応神天皇の孫で、稚野毛二派皇子の子に当たる「意富富杼(おおほど)王」から、息長氏は始まると考えられているようだ。
繰り返しになるが、このオオホド王の三世孫(ひ孫)が継体天皇なので、皇室と息長氏の距離はかなり近い。
こうした立ち位置から歴史学者の平野邦雄さんは、息長氏を〈皇親的氏族〉として捉えることを、提唱されていたそうだ。
(琵琶湖)
平野さんが、息長氏と同様に〈皇親的氏族〉だといわれるのが「和珥氏(和邇氏)」。
古事記によれば、和珥氏は同族の多い豪族で、春日臣、小野臣、柿本臣、近淡海国造など16氏族が挙げられている。その分布は丹波から近江、山城、大和の東北部と、かなりの広範囲にわたる。
(3分で作った和珥氏の分布図)
息長宿禰王の先祖に第9代開化天皇がいるが、この天皇が和珥氏の妃にうませたのが「彦坐王」。
このヒコイマス王は記紀において特別な扱いを受けていて、即位もしてないのに何と孫までの系譜が載せられている。そんな優遇を受けたのはヒコイマスの他には、日本武尊しかいない。そしてその一点からヤマトタケル天皇説が議論されているんだから、ヒコイマスも「天皇」だった可能性はゼロではないだろう。
ただし、それは皇室の一員という意味ではなく、近江から山城、大和にまで勢力を拡げていた、”近江王朝”の「もう一人の天皇」という意味だ。
【関連記事】彦坐王(ヒコイマス)の近江王国「伊勢遺跡」
そんなヒコイマスには4人の妃がいて、一人目は「山代」の女、二人目は「春日(奈良市)」の女、三人目は「近江」の息長水依比売命、そして四人目が母の妹(和珥氏)だった。
妃たちの分布は丸っと和珥氏の勢力範囲に重なるわけで、歴史学者の水谷千秋さんは「おそらく本来の和邇氏が持ち伝えてきたのは日子坐王を祖とする後裔系譜」で、古事記が載せる第5代孝昭天皇の皇子を祖とする系譜は、もっと後世に創られたものだろうと書かれている。
(『日本の古代豪族100』水谷千秋/2022年)
なお、ワニ氏の名前の由来については、昭和の頃は天理市和邇町が出身地だからと考えられていたそうだが、最近は地名ではなく、若狭湾の漁撈や琵琶湖の水運を担った「ワニ部」なる部民を統括していたから———が主流になっているようだ。
論者の中にはワニ氏を「太陽信仰をもつ朝鮮系鍛冶集団」だと主張される先生もいらっしゃるが、和珥氏が最終的な本拠地とした奈良の「和邇遺跡群」は渡来系集団との関係が極めて希薄な地域で、考古学者の坂靖さんはワニの集団は「伝統的な生産基盤を温存しながら台頭した勢力」だと総括されているそうだ。
要は、生粋の日本人ってことだろう。
(武振熊が戦った「両面宿儺」の像 写真AC)
近江の息長氏出身の神功皇后が、ご近所さんの和珥氏と深いつながりがあったことが分かるのが、「忍熊王」との一戦だろう。
仲哀天皇は、神功皇后より前に結婚した皇女「大中姫命」との間に「麛坂皇子」と「忍熊王」の二人の皇子を授かっていた。仲哀天皇が崩御すると、すでに成人して畿内の留守を預かっていた二人の皇子は、神功皇后が自分の子(応神)を次の天皇に立てると恐れて、反乱軍を起こした。
このとき、大臣の武内宿禰とともに数万の皇軍を率いたのが「和珥氏の祖である武振熊(たけふるくま)」。
決戦は山城の宇治で行われ、敗れた忍熊王は近江に敗走し、瀬田の渡りに飛び込んで死んだ。息長氏や和珥氏の勢力圏に逃げ込んだところで、忍熊王に味方する人はいないだろうに。
(菟道稚郎子を祀る「宇治神社」2024冬参詣)
和珥氏というと、応神〜敏達の7天皇に9人のお妃を入れた外戚一族として知られるが、その第一号が応神妃の「宮主宅(みやぬしやか)媛」。
日本書紀によれば、応神天皇はその2年に(のちの)仁徳天皇の母である皇女「仲姫命」を皇后に立てた、とあるが、これは結果からさかのぼった表現で、実際に後宮の中心だったのは「宮主宅媛」の方だったと思われる。
応神天皇には20人の子女がいたが、皇太子に立てられたのは宮主宅媛が産んだ「菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)」だった。
(宇治神社・拝殿)
応神天皇はこの菟道稚郎子を溺愛していて、まず15年に百済人の「阿直岐(あちき)」を経典の師匠につけ、さらに上級をと百済から「王仁(わに)」を招聘して、家庭教師にしている。
菟道稚郎子は応神28年には、高麗王が寄越した上表文が気に入らないといって、使者の面前で破り捨てているが、これは皇太子として天皇の大権の一部を預かっていたことを表す逸話だろう。
(菟道稚郎子を祀る「宇治上神社」2024冬参詣)
菟道稚郎子には全兄妹の「八田皇女(やたのひめみこ)」という妹がいて、この「和珥腹」の女性に執着したのが仁徳天皇だ。
菟道稚郎子が皇位を仁徳天皇に託して自害すると、仁徳天皇は何とかして八田皇女を後宮に入れようと画策する。しかしこの企みは、後宮における自分の地位低下を怖れた皇后「葛城磐之媛」に断固拒否されて、頓挫。
しかし仁徳天皇は諦めず、その30年に磐之媛の留守を突いて、ついには八田皇女を後宮に入れることに成功。それを知った磐之媛は皇居に戻ることなく、35年に薨去した。
(宇治上神社)
仁徳天皇は38年に、八田皇女を皇后に立てた。二人の間に子はなかったとされるが、ぼくは個人的に、第19代允恭天皇は磐之媛ではなく、八田皇女が産んだ子じゃないかと思っている。
【関連記事】允恭天皇の謎と「二つの王家」/允恭天皇は誰の子か
結局、応神天皇があれほど望んだ「和珥腹」の天皇は、その息子の仁徳天皇が実現させた———とぼくはそんな想像をしている。ただしそれは、兄妹婚という人類共通のタブーを破ることになったわけだが・・・。
(出典『ヤマト政権の一大勢力 佐紀古墳群』今尾文昭/2014年)
いわゆるヤマト王権にとって4世紀最大の出来事は、それまで桜井市・天理市で営まれていた「墓域」を、15km北西の奈良市「佐紀古墳群」に移したことだろう。
ただこの件は、大和柳本で最後に造営された「渋谷向山古墳」(300m)と、佐紀古墳群で最初の「佐紀陵山古墳」(207m)の築造時期がほぼ重なることから、奈良盆地の南北に二つの勢力が拮抗していた時代———とする見方がケッコーある。
例えば歴史学者の水谷千秋さんは、こう書かれている。
大きさでは渋谷向山がやや上回るけれども、ほとんど拮抗しているのである。この時期(4世紀中ごろ)、「短期間ではあったが、奈良盆地のなかに政治拠点が同時期に2ヵ所以上存在した」ことになる。
(中略)
少なくとも、一時期、オオヤマト古墳群の大王と佐紀古墳の王とがかなり拮抗した状況で並立していたこと、そして当初は二番手であった佐紀古墳群から、のちに大王(五社神古墳の被葬者)を輩出したことも認めていいだろう。
二つの勢力が一時期競うようになったが、やがて新興の佐紀の勢力が古いオオヤマトの勢力を追い抜き、大王の座を獲得したという史実が浮かび上がってくる。
(『古代豪族と大王の謎』水谷千秋/2019年)
4世紀なかばの「二朝並立説」は、巨大古墳の墓域が移動しているという考古学のFACTだけからみれば、十分ありえる説だと思う。
ただぼくらには「長浜浩明さんの計算」という羅針盤があるので、そのFACTを日本書紀の記述と照らし合わせることが可能だ。
(出典『ヤマト政権の一大勢力 佐紀古墳群』今尾文昭/2014年)
大和柳本古墳群の中心地は、言わずと知れた「纒向遺跡」だ。4世紀前半にはその規模は300haにまで拡大され、王の居館(つまり皇居)は2500㎡だったという。
この纒向遺跡の発掘を担当された考古学者、石野博信さんによると、纒向遺跡が運用されたのは西暦180〜350年の期間だったそうだ。纒向遺跡は、突然現れて、突然消えた、人工的な政治都市だったという。
(『邪馬台国の候補地・纒向遺跡』石野博信/2008年)
ところで纒向遺跡が「消えた」AD350年頃というと、長浜浩明さんの計算だと在位320−350年頃という、第13代成務天皇が崩御した時期になる。
ぼくは、成務天皇は近江の「高穴穂宮」と「纒向日代宮」の二箇所を拠点していた天皇だと思っているんだが、成務天皇の後を継いだ第14代仲哀天皇はさらに日本海に近づいて、福井県の敦賀に「笥飯宮」を造営。
さらにその2年6月から9年2月までを穴門「豊浦宮」と筑紫「橿日宮」で過ごしたというんだから、纒向はほぼ放置状態。そして近江出身の神功皇后には、そもそも纒向で執政する理由がない・・・。
息長氏、和珥氏といった近江の豪族をバックにする神功皇后にとっては、大伴・物部・中臣・大三輪なんて、神武東征以来の股肱の臣がゾロゾロいる纒向は、うるさいだけの場所だったのかも知れない。
すると専門家にも、佐紀古墳群を近江勢力との関わりから説明している方がいるので、ご紹介。
同様に、四世紀半ばになって、突然大型前方後円墳が出現する地がある。 大和盆地北部の佐紀盾列古墳群である。
この古墳群の出現は琵琶湖西部(湖西地域)を出自の地とする和邇(わに)勢力が倭王権との仕奉関係の成立を機に、その拠点として春日の地へと進出し、新たに春日勢力とでもいう集団を形成したことと関係すると思われる。
(小野里了一「葛城氏はどこまでわかってきたのか」『古代豪族』2015年)
引用した小野里さんの説にぼくが共感できるのは、「佐紀」には確かに纒向の2500㎡に迫る1900㎡の居館跡はあるものの、居館のある「菅原東遺跡」の規模自体は、纒向の300haには遠く及ばない点(諸説あるが100分の一ぐらい?)。
どうやら佐紀は「春日勢力」の本拠地というわけじゃなくて、その生産拠点は近江や山城など各地にあって、ただ「王の居館」だけが整えられていた場所———であるようだ。
その在りようは、開化天皇の5世孫という薄めの血統の神功皇后が、次期天皇(応神)を権力の根源とし、近江や山城の豪族たちの実力を背景に、纒向の古豪とは距離を置いて執政するのに適したもの———であるように、ぼくには思えるのだった。
(出典 『ヤマト王権の古代学』坂靖/2020年)
というわけで、ぼくは4世紀のヤマトが、二朝並立状態だったとは思っていない。成務天皇の「纒向日代宮」から神功皇后の佐紀「菅原東遺跡」にヤマトの政庁が移動するのに伴って、天皇陵の墓域も移動しただけだと思っている。
ところで上の「図67」には、佐紀古墳群の天皇陵候補が載せられているが、そこに仲哀天皇や神功皇后のお墓も含まれているんだろうか。
※コナベ、市庭、ウワナベ、ヒシャゲは5世紀の築造
それを考える前に、大和柳本古墳群と比べた佐紀古墳群の特徴を書いておくと、まず200m級を中核に、小型の前方後円墳や円墳、方墳が「同時並行的に」つくられた点があるそうだ。
考古学者の広瀬和雄さんは、佐紀古墳群のあり方を「一大政治勢力」が「共同墓域を営む」ことによって、「その勢威を内外の人びとに見せつける」ものだとされている。
(『前方後円墳とは何か』広瀬和雄/2019年)
巨大古墳の周りに造営された円墳や方墳は、被葬者に近い息長氏や和珥氏のお墓———という印象を、ぼくは受ける。
(Google Earth)
さて本題に入ると、佐紀古墳群で一番古い「佐紀陵山古墳」(207m)と「佐紀石塚山古墳」(218m)については、ぼくは天皇陵ではないと思っている。
佐紀陵山古墳は、その「相似形」が各地に5基ほど造営されているし、陵山と石塚山に並べられた「ヒレ付き円筒埴輪」は他に6基の200m級首長墓にも立てられている。
そんなふうに一般の豪族と規模や墳形、埴輪を共有する天皇陵———なんてのは、ぼくにはチト想像できない。
それでぼくは、神功皇后の政権に貢献のあった豪族に与える「恩賞」の、リアルなサンプルが「陵山」と「石塚山」だったんじゃないかと思っているんだが、長くなるのでその被葬者については【関連記事】を。
(「宝来山古墳」写真AC)
佐紀古墳群に3番目につくられた巨大古墳が227mの「宝来山古墳」で、ぼくはズバリ、この古墳こそ仲哀天皇のお墓じゃないかと思っている。
広瀬和雄さんによれば、宝来山古墳からは「周濠」の幅が広くとられるようになっていて、そのために立地も丘陵から平地へと移されたそうだ。古市古墳群や百舌鳥古墳群の先駆けってことだろう。
なにより興味深いのが、宝来山古墳は神功皇后の居館と思われる「菅原東遺跡」とは目と鼻の先に造営された点だ。神功皇后の権力の源泉は、仲哀天皇の未亡人であることなんだから、そのお墓は近くにあった方がいいだろう。
なお、日本書紀は仲哀天皇のお墓を「河内国長野陵」だと書くが、4世紀後半の河内(古市古墳群)にはまだ天皇陵とみなせる巨大古墳は造営されていない。
(Google Earth)
んで佐紀古墳群に4世紀中につくられた最後の一基が「五社神(ごさし)古墳」で、こちらは現在、宮内庁によって神功皇后陵に治定されているわけだが・・・おー珍しく意見があって、ぼくも神功皇后陵だと思っている。
墳丘長267mは、築造時点では渋谷向山古墳、箸墓古墳につぐ第3位。
後円部は四段築成という豪華な設計でまさしく天皇陵だが、なぜか一段目は西側だけに設けられているのだという。明らかに西からの視線を意識しているということで、瀬戸内海を渡ってくる朝鮮半島からの使者との外交が日常的だった、神功皇后のお墓にはふさわしい仕様かと思われる。
(出典『ヤマト政権の一大勢力 佐紀古墳群』今尾文昭/2014年)
上の「図48」は佐紀古墳群ではじまって、古市や百舌鳥に受け継がれた事例の一覧。
「陵山」と「石塚山」は、まさに新時代の前方後円墳の見本市といった装いで、こんな豪華なお墓で顕彰してもらえるなら、神功皇后のために命を捨てるのも惜しくはない!と誓える豪族が続出しても、不思議ではなかったのかも知れない。
・・・といったかんじで、考古学だけみると「二朝並立」にみえる4世紀半ばの奈良盆地も、日本書紀の記述と照らし合わせれば、案外シンプルな説明も可能では———といった感想をぼくは持っている。
神功皇后(3)につづく