「高天原」は東国・茨城県か?

〜 東実『鹿島神宮』を読む 〜

東実宮司の『鹿島神宮』

牛久大仏

茨城県では、古墳時代の物部氏の東遷にまつわる神社や史跡を見て回る予定だったが、2年ぶりに手に取った本が面白くて、けっこうな寄り道を強いられてしまった。


本の名前は『鹿島神宮』(1968年)。 

著者は昭和43年当時、鹿島神宮の宮司をされていた東実(とうみのる)さんだ。


※上の写真は、奈良時代に編纂された風土記に「日高見国」として記録される、常陸国信太郡にそびえ立つ「牛久大仏」。

頭頂まで120mは初代ウルトラマンの3倍で、シンゴジラと同等という馬鹿デカさだ。

鹿島神宮

実を言うと、2年前はオオクニヌシに関する箇所しか読んでなかった『鹿島神宮』だったが、改めて読み直すと何とも味わい深い書物だった。

東実さんはいう。

「高天原」は「東国」にあり、「天孫降臨」は(今の)茨城県から始まったのだ、と。


・・・むむ?

 月刊『ムー』の世界か?


いやいや、東実さんの「東」家といえば鹿島神宮の社家という由緒正しい家柄で、本もいたって真剣に書かれたものだ。

一見、荒唐無稽に思える記述の背景には、実は宮司さんの知られざるバトルと、日本人への愛が秘められていた。

月刊ムー

変化する「葦原中つ国」

では「高天原」はどこにあったのか。 

宮司さんは思索のきっかけとして、先に「葦原中つ国」について検討する。両者はセットで一つの世界観をなし、対義語であるからだ。


そして宮司さんは「葦原中国」が「記紀」の中で、全ての国土→出雲/常陸→日向→熊野、と変遷していったことに注目する。

 これは葦原中国が概念的には、日本民族が理想を抱いてすすもうとする地方を、葦原中国とたたえたことに理由がありそうである。

イザナギ・イザナミ時代がほぼ全国をさしているのは、全国が統一されたころに、この創世期の神話が成立したことを示すのだろう。(59p)

葦原中国は変化した。ならば対する高天原の方も、それ相応に変化したのだろうか。

天津甕星がいる天

大甕神社

続いて宮司さんは、葦原中国の内部にありながら、高天原に近いイメージの「天」として認識された地域に注目する。それが「常陸」だ。

その根拠は3点で、まずは『日本書紀』の「神代・第九段・第二の一書」に出てくる「天」。


そこには「天」に「天津甕星(あまつみかぼし)」という「悪い神」がいて、フツヌシとタケミカヅチに征伐されたと書いてある。


んで「甕星」を征した「斎主」が フツヌシの別名で、いまは「東国の香取の地」に鎮座しているという記述から、宮司さんは天津甕星 (カガセオ)がいた「天」とは、「甕星香々背男」を祀る「大甕神社」がある茨城県のことだと言う。

建借間命と常陸の天人

大杉神社

根拠のその2。

『常陸国風土記』の「行方郡」の記事に、崇神天皇の命令で東国の平定に赴いた「建借間(たけかしま)命」が東方に煙を見つけて天を仰ぎ、「もしも天人の煙なら我が上を覆え、賊の煙なら海に去れ」と誓約(うけい)を立てた、という記述がある。

宮司さんは、これぞ常陸に「天人」が住んでいた証拠だと言う。


※上の写真は建借間命が宿営した「安婆」の地に鎮座する、稲敷市阿波の「大杉神社(あんばさま)」。

天日別命、天へ

桑名宗社

(天日別命を祀る桑名宗社)

最後は常陸ではなく、伊勢が舞台。

『伊勢国風土記』逸文には神武東征のとき、天皇が「天日別命(あめのひわけ)」に「天津之方」に国があるから平定してこい、という命令を出したというくだりがある。

宮司さんはこれを、伊勢より東に「天」が存在した証拠だと言う。


・・・とまぁ以上の3点が、「天」が東国の常陸に存在したという宮司さんの根拠になるが、反論は簡単だろう。


「日本書紀」の場合は、同じ「一書」の中にフツヌシが「天」に復命して(高天原の)高皇産霊尊に報告している描写があるし、角川ソフィア文庫の訳だと、建借間命のいう「天人」は「天皇に従うもの」だし、天日別命の「天」は「伊勢神宮の方向」と、まったく解釈が異なる。


だが宮司さんにとっては、そんな小利口な理屈など些細で些末なことだったろう。問題はそんなところにはなかった。

筑波山と海降り

筑波山

ところで鹿島神宮はなぜ、鹿島の地にあるのだろう。てか、タケミカヅチはなぜ、鹿島で祀られているんだろう。

宮司さんにとっての問題は、こっちだ。


まず宮司さんは、『万葉集』には「朋神の貴き山」と歌われ、『香取群書集成』には「わらかおやくに(祖国)」と謳われる「筑波山」こそ、イザナギ・イザナミの住む山だったんじゃないかと考えた。


さらに宮司さんは、「天降り」とは想像の産物ではなく、古代に実際に起こった事件だと考え、ならば移動は水平に行われたのではないか、すなわち「天降り」は「海降り」なのではないかと思考する。

 しかも天(あま)と海(あま)は、古代では同一に神聖視され、同じ言葉で発音されるその縁由は同一視された名残でもあろうか。

ちなみに、海にいって水平線を望めば、空と海とは一線上に合体して見え、科学知識の少ない古代人が、天と海を同一視した心がよみがえってくるような気がする。(76p)

天孫ニニギは天(あま)ではなく、海(あま)を降ったのではないか。 

そういえば、「日本書紀」には東征に出る前の神武天皇の述懐として、「(ニニギは)天の関を闢き」とあるが、その「関」とはどこのことなのか。

天孫ニニギ、鹿児島へ

天降りと海降り

宮司さんはそれを、(現在の)鹿島神宮と香取神宮の間を流れる水道だと考えた。

天孫ニニギはイザナギとイザナミのおわす筑波山から霞ヶ浦を抜けて、海に出たのだと。


そしてニニギが向かった先には「鹿児島」があった。

常陸のカシマは、もとは「香嶋」と書いて「かぐしま」と読んだ。ニニギとともに、出発地の地名も移動していったのだと、宮司さんは言う。


こうして、タケミカヅチが鹿島に鎮座した理由も明らかになっていく。

タケミカヅチらはまず、山陰・山陽を治めるオオクニヌシに「国譲り」をさせて西国への「海降り」ルートを確保したのちに、「海降り」の出発地を平定したのだ。

そうしてニニギが旅立った後は、祖地の鎮護のために鹿島に駐屯し続けたということだ。

高天原は富士の高原に

富士山

さてそれでは「高天原」も、筑波山を中心にした茨城県の界隈にあったんだろうか。 

はじめに見たように、「葦原中国」は時間とともにその姿を変えていった。そして高天原も同じように、一つの形に留まることはなかったと宮司さんは言う。

    高天原は、最初は現実の地上におけるある地点であったが、その後、追憶の場所となった。

そして神話として完成される前に理想化され、 天御中主神誕生の段にみられるように、場所を設定しない神道上の聖地として崇められるようになったのだと。(96p)

宮司さんは、折口信夫の「異郷意識の進展」を引いて、高天原は「高原(山地)」の住人でなければ発想できない場所だと考えた。

さらにそこは、古事記におけるタケミカヅチ誕生の描写から、噴火する火山の近くだろうと推定した。

そしてそれはズバリ、旧名をアサマといった富士山の、山梨側の高原盆地に他ならない、と宮司さんは言うのだった。

繰り返しになるが、宮司さんへの反論はいくらでも可能だ。


例えば宮司さんはアマテラスを完全にスルーしているが、それは高天原でのアマテラスの暮らしを象徴する「稲作」「はたおり」「馬」のすべてが、「西国」が入口になった渡来系の文化だからだろう。


それに、ニニギが「天降り」した場所は鹿児島じゃなくて「日向」だし、その鹿児島だって文献上の初出は「続日本紀」764年の「麑島」で、読み方は「かのこしま」だろうし、場所だって国分とか隼人のあたりの狭いエリアを指していたはずだ(例の錦江湾の、海底噴火の記事だ)。


だがこれも繰り返しになるが、宮司さんにとって、そんな反論はホントに些末で些細なことだったのだ。

宮司さんに『鹿島神宮』を書かせた衝動は、そんな学者のような実証的な姿勢とはかけ離れたところにあったからだ。

しかし、われわれ日本人の祖先である神々が、けっして有史直前にこの島国に侵略的に渡来した人々でないことは、わかっていただけたかと思う。(105p)

そう、宮司さんは1968年のあの頃、巨大な敵と戦っていたのだ。 

戦後の自虐史観の流れに乗って世間を席巻していた、「 騎馬民族征服王朝説」とだ。


それは皇室の祖先は大陸からの侵略者だという暴論だったが、何とあの手塚治虫も『火の鳥・黎明編』(COM版・1967年)で採用するほどに、大流行した。

宮司さんは当時のそんな危険な風潮に、神職の立場から異議申し立てを行ったのだ。それも江上波夫の新書本が世に出てすぐの時期にだ。

だから少々論理が強引で、今から見ればちょっと支離滅裂な議論でも構わなかったのだろう。

とにかく、誰かが今すぐに反論しなくてはならぬのだ!と。


そして、宮司さんが奇抜な新説で信者を集めようとしてたわけじゃないことは、本文中で、茨城県には弥生時代の遺跡が少ない点に言及していた事実からも、明らかだ。


縄文後期〜BC1200まで隆盛を誇った関東の人口は、縄文晩期〜BC400までには東海や九州と変わらない程度に落ち込んでいた。

その理由は日本列島の寒冷化と、それに応じた生活様式の変化によるものらしいが、とにかく弥生時代の「東国」は、もう過疎地に向かっていたことを宮司さんは知っていた。

縄文時代の時期別地域別人口
縄文時代から弥生時代の主な遺跡
縄文時代の地域別遺跡数の増減

でも、弥生時代に関東の人口が縮小していたとしても、実のところ宮司さんにはカンケーないことだったかも知れない。

なぜって、宮司さんにとっての「古代史」は「 皇紀」に基づくものだった(だろう)からだ。

宮司さんにとって「天孫降臨」が縄文晩期の史実なら、関東の国力(?)はまだ十分に残されていたというわけだ。


そういえば宮崎県には面白い遺跡があって(本野原遺跡)、そこでは東日本の様式で作られた建築物の痕跡が、多数見つかっているそうだ。

何!ならば、それこそニニギが茨城の「高天原」から日向に渡った証拠なのでは!?

いや残念ながら、こちらは縄文後期(BC2200〜BC1200)の遺跡だそうだ。

仮に神武即位がBC660だとしても、遺跡は最低でもそれより600年前のもの・・・。それを「誤差」とみるのは、さすがに厳しいだろう。

ま、とにかく今では考古学や分子生物学、言語学なんかの発展のおかげで、騎馬民族ナンタラ説はゴミ箱で腐臭を放つようになって久しい。

ぼくら日本人の血の根幹には縄文人がいるし、皇室の祖先も馬に乗って海を渡って来てはいない。


宮司さんが、荒唐無稽だと笑われかねない珍説で戦った相手は、もういない。


常陸のニギハヤヒと茨城県の神社(鹿島神宮と多氏)につづく