アマテラスの天岩窟(天石屋)隠れと皆既日食
(古天文学の道)
神階を超越した神社「日前宮」
2020年夏に参詣した、紀伊国一宮・名神大社・官幣大社の「日前神宮・國懸神宮」。
神社好きでないとまず読めないが「ひのくまじんぐう・くにかかすじんぐう」、あわせて 「日前宮(にちぜんぐう)」とお呼びする。
全国でも唯一の、ひとつの社地に二つの「神宮」が鎮座する珍しいスタイル。両神宮の社殿は一見すると全く同じもので、ぼくら一般人には違いが分からない。
むかしの貴族は天皇から「位階」を授けられたが、神社にも「神階」が与えられた。
例えば、誰でも知ってる出雲大社は正二位だ。
そしてテッペンの正一位には、春日大社や賀茂神社、鹿島神宮、香取神宮など名だたる綺羅星が並ぶ(887年時点)。
しかし、天皇が位階を与える側にあるように、神社にも神階を超越した存在がいた。それが、言うまでもない伊勢神宮。
そしてここ、日前神宮・國懸神宮だ。
要は、日本に三社しかない「S」クラスの神社が、ここに二つ鎮座しているというわけだ。
Sクラスの理由は、こちらが伊勢神宮と同じく、アマテラスの「ご神体」である「鏡」を祀っているからだ。
伊勢神宮には三種の神器のひとつ「八咫鏡」があるが、ここにはその分身「日像鏡・日矛鏡」が祭られている。つまりは、伊勢のバックアップと考えればいいんだろうか。
『逆説の日本史』の登場
ところで、日前國懸神宮のご神体が「日矛」(日本書紀)だろうと「日の像の鏡」(古語拾遺)だろうと、作られたのはアマテラスの「天岩窟(天石屋)隠れ」の場面でだ。
この神話が意味するものについては、太陽(アマテラス)と暴風雨(スサノオ)の争いだという説や、日蝕現象だという説、さらには火山の噴火だという説まであったが、1974年発行の松前健『日本の神々』の頃には「天皇の御魂を鎮める鎮魂祭と結びついた神話であったことに落ち着いて」いたようだ。
ところが90年代初頭、そこに颯爽と殴り込みをかけた人がいた。『逆説の日本史』の井沢元彦氏だ。
井沢氏は、天文学者・斉藤国治教授がパソコンで行った日食のシミュレーション結果を引用して、邪馬台国の卑弥呼が没した248年に日本で皆既日食が観測できた点に注目、「天の岩戸神話」は卑弥呼の死を意味するのだと発表した。
すなわち、卑弥呼=アマテラス説。
歴史学者の空想からではなく、純粋に科学的な知見から導かれた結論には、ふだん古代史になんて興味のないぼくらでさえ、大いに衝撃を受けたものだった。
ところがそんな「井沢説」を、現在のぼくらの愛読書『日本の誕生』(長浜浩明)は、データの読み違えによる間違った結論だと指摘する。
突然の、新旧愛読書のバトル勃発に、これは自分の目で確かめねばと買ってきたのが『古天文学の道』(斉藤国治/1990年)だ。
『古天文学の道』は語る
データと言っても簡単な図が二枚。
上の「図11-2」は「A.D.248 IX 5の皆既日食の経路図」。
下の「図11-3」は「A.D.248 IX 5の皆既日食を大和地方で見た情況」。
これらの図から分かることは簡単だ。
卑弥呼が大和地方で没したのだとしたら、日食は早朝の部分日食で、空は完全には暗くならない。
卑弥呼が九州で没したのだとしたら、日食が起こったことすら分からない・・・。
仮に邪馬台国が大和にあったとしても、神話で描かれるような暗黒の世界にはなっていないし、そのくらいの薄暗がりなら、日本書紀が完成する100年ほど前にも起こっている。
しかもそれは、初の「女帝」推古天皇が死に至る病に伏せった時に起こったこととして、当の日本書紀に記録されているわけだ。
「卅六年春二月戊寅朔甲辰、天皇臥病。三月丁未朔戊申、日有蝕盡之」
今さら部分日食を「女帝」の死と結びつけるような神話を、日本書紀の編集者が採用するものだろうか。
アジアに広がる「天岩戸」神話
それにそもそも「天の岩戸」に類する神話は、中国南部からインドシナ、東南アジアにまで広く分布していて、海洋民の移動するルートを通って日本列島にまで伝わったと見られている。
(『日本神話の源流』吉田敦彦/1975年)
そしてそれはやがて、伊勢の海人族が持っていた神話を取り込むかたちで、宮廷にも伝わったのだという。
(『アマテラスの誕生』筑紫申真/1962年)
つまり、卑弥呼が没した西暦248年に日食が見えようが見えまいが、ヤマトの宮廷人にはまったくの無関係で、「天の岩戸」はもっと後の時代(5世紀以降か?)になってから"伊勢の海人族の神話"というパッケージで、宮廷に取り込まれたストーリーだということだろう。
元のモチーフが太陽と暴風雨だろうが、日食だろうが、火山の噴煙だろうが、いずれにしてもそれを神話化したのは海人族であって、ヤマトの宮廷人ではなかったということだ。
実際のところ、4世紀半ばの仲哀天皇に祟った「伊勢国」の「五十鈴宮」の「姫神」は、後にアマテラスの別名だと判明したが、子孫のはずの天皇に祟った点からみて、この時点ではアマテラスはまだ「皇祖」と呼べる存在ではなかったのだろう。
《追記》国立天文台の見解
長浜浩明さんの『邪馬台国はここにある』(2020年)に、卑弥呼が亡くなったという247年、248年あたりに起こった「日食」についての、『国立天文台報』の見解が紹介されていた。
もしかしたら、もう誰もが読んだ論文で「今さら」かも知れないが、まだ読んでない人のために引用とリンクを貼っておく。
248年9月5日と247年3月24日の日食の食帯図を図2と図3に示しておいた。
248年の日食は、 パラメータ∆Tをどのように取っても、近畿、九州いずれでも皆既にならない。
だから、「天の磐戸」日食の候補としては失格であると筆者らは考える。
近畿でも北九州でもあたりは暗くならない。 このような部分日食は長い歴史の中に多数ある。変哲もない部分日食が伝説や神話として残るためには、強力な理由が必要であろう。
(「『天の磐戸』日食候補について」)
247年3月24日の日食が北九州で皆既になるかどうかは興味深い。
∆T = 8500秒、8900秒、9700秒の3つの場合に、皆既帯および食分 0.99 帯を計算してみる。
結果は図8に示した。
図に見られるように、北九州市周辺は皆既になるが、福岡市や佐賀市は皆既帯からはずれ、いずれの場合も食分 0.99 ないし 0.98 となる。
日食の間中、あたりは暗くならないことを指摘しておく。