倭の五王①讃・珍・隋は誰か

 〜反正天皇と土師ニサンザイ古墳〜

履中天皇と海人族

宗像大社

2022年4月に参詣した「宗像大社」。


日本書紀によると、第17代履中天皇はその5年(長浜浩明さんの計算で430年頃)、「筑紫におられる三はしらの神」に皇妃「黒媛」を祟り殺されているが、この神を「宗像三女神」とみるのが定説のようだ。


祟りの理由は、筑紫への「課税」に憤ってのことのようで、5世紀中ごろのヤマトと九州の力関係がよく見える事件とされている。

住吉大社

(住吉大社)

そもそも履中天皇の治世は、即位前に弟の「住吉仲皇子」に寝込みを襲撃される事件から始まって、わずかに6年という在位の最終年、今度は「住吉邑」に住む「鷲住王」を召喚したところ、完全に無視されるというカッコ悪い事件で終わっている。


ここに淡路島でのイザナギ神とのいざこざを合わせてみると、「宗像」「安曇」「住吉」といった有力な海人族が履中天皇にぜんぜん心服していないことは明かだ。


いわゆる「河内政権論」では強大な権力を手にしたといわれる5世紀前半、ヤマトの実力は「住吉」の豪族に命令を無視されても、引き下がるぐらいの段階だったのが実情か。

当時の列島は倭王権を頂点としながらも各地の豪族たちとは緩やかに政治的につながっているにすぎない状況であり、豪族たちから倭国の王としてふさわしいと承認される必要がある。

この点で五世紀前半の倭王権の基盤はきわめて脆弱であった。

この問題を解決するために、珍は百済から中国官爵のもう一つの利用法を踏襲した。


(『倭の五王 王位継承と五世紀の東アジア』河内春人/2018年)

反正天皇と土師ニサンザイ古墳

土師ニサンザイ古墳 写真AC

(土師ニサンザイ古墳 写真AC)

堺市の前方後円墳で「土師(はぜ)ニサンザイ古墳」。

最近の調査で墳丘長が300mを越えることが判明し、現在は全国でも第7位にランクされる巨大古墳だ。


5世紀に「百舌鳥古墳群」に築造された天皇陵は、年代順に「上石津ミサンザイ古墳」「大仙陵古墳」「土師ニサンザイ古墳」の3基のみ。


んで日本書紀が百舌鳥に陵地があるという天皇は「仁徳」「履中」「反正」の三帝だけなんから、こちらは第18代反正天皇のお墓と考えるのが合理的だと思う。


考古学者の一瀬和夫さんは、土師ニサンザイの築造年代は440年ごろで、反正陵である可能性は95%以上だとお話になっている。

(『百舌鳥最後の大王陵を探る』堺市/2019年 ¥350)

『百舌鳥最後の大王陵を探る』堺市/2019年

だが、このニサンザイ古墳、全てにおいて究極を目指した先代の「大仙陵古墳」(履中天皇陵?)に比べると、少々お粗末な造りだったようだ。


○古墳を覆い、輝かせる「葺石」がない(少ない?)。

○埴輪も手の掛かる土製を減らし、簡易な木製が多用されている。

○古墳を囲む「陪塚」もほとんどない、など。


こうした一種の「手抜き」は、別に反正天皇が軽んじられてとかじゃなくて、ヤマトの豪族の「支配システム」が、巨大古墳という「物質的な要素」から他のものに移行していく渦中での築造だったからだろうと、一瀬さんは言われる。


んで古墳に変わる新しい秩序———それが「宋書」の記録にある倭国王「珍」が、438年の遣使で得てきた、13人分の「将軍号」だろうと。

讚死して弟の珍立つ。使いを遣わして貢献せしむ。自ら使持節・都督倭百済新羅任那秦韓慕韓六国諸軍事・安東大将軍・倭国王と称す。〔珍〕表して除正せられんことを求む。

詔して安東将軍・倭国王に除す。珍又倭の隋等十三人に平西・征虜・冠軍・輔国将軍の号を除正せられんことを求む。詔して並びに聴す。


(『倭国伝』講談社学術文庫)

倭の五王の系図

(出典 左『倭の五王』森公章   /右『謎の四世紀と倭の五王』瀧音能之)

いわゆる「倭の五王」で最初に宋に遣使したのは421年と425年の「讃」。


長浜浩明さんの計算では仁徳天皇の在位は410〜428年頃なので、「讃」は仁徳天皇ということで問題はなさそうだ。


てか、つづく長男の履中天皇は日本書紀で6年(春秋年で3年)、その弟の反正天皇が5年(春秋年で2年半)という短い在位期間なので、二回も使者を送るような余裕はなかっただろう。


讃と同じように443年と451年の2回遣使している「済」についても、日本書紀で42年もの在位を誇る第19代允恭天皇が確実視されている。

允恭天皇は長浜さんの計算では在位433〜456年頃と、こちらも合致していてノープロブレムだ。


問題は「讃」と「済」に挟まれた「珍」が、讃の「弟」を自称したことだ(讃死、弟珍立)。

上の系図のとおりで、仁徳天皇には即位した「弟」はいない。

反正天皇はなぜ「讃の弟」といったのか

反正天皇の誕生地・淡路島

(反正天皇の誕生地?淡路島)

倭国王「珍」が履中天皇か反正天皇かと問われれば、ほとんどの人がもともと「弟」である反正天皇を選ぶだろう。


反正天皇は、陸上の古墳になど大して興味を持ちそうにない海人系の豪族に翻弄された、兄・履中天皇の苦悩を間近でみていたわけで、新しい「支配システム」はずっと模索していたことだと思う。


そんな反正天皇なら、超大国「宋」から授与される「将軍号」がその役に立ちそうだと、すぐ閃いた可能性は十分ある(朝鮮の諸国家はすでに実行していた)。


だから「珍」は反正天皇でOKとしても、なぜ讃の「弟」だといったのか。

反正天皇の宮跡「柴籬神社」公式サイト

(反正天皇の宮跡「柴籬神社」公式サイト)

ぼくが気になるのが、倭の五王にはもう一組「兄」と「弟」がいることだ。

兄は第20代の安康天皇で倭国王「興」、弟が第21代の雄略天皇で倭王「武」。


不思議なことに、462年に使者を送ったとき、安康天皇は「世子(せいし)」を自称している。

つまり済(允恭天皇)の子ではあるが、天皇には即位していない状態ということだ。


この件については、上の方で引用した河内春人氏も「興が予定外の継承者であった可能性」まで考察されていて、専門家にとっても厄介な話のようだ。

『倭の五王』河内春人

んで、ぼくが思いついたのは、当時のヤマトには「父子相続」へのこだわりがあったのではないか?ということ。


それで兄の履中天皇のことはスルーして、「弟の方の」反正天皇が皇位を継承しましたと奏上したところ、父子相続へのこだわりのない中国人はそのまま讃の弟が即位したと記録してしまった・・・。


安康天皇(興)についても即位しなかった「世子」ということにして、允恭天皇(済)から雄略天皇(武)へのシンプルな父子相続であると強調した・・・。


というのも、長浜さんの計算では安康天皇の在位はわずかに454〜457年頃の数年間で、興が遣使したとされる462年には、安康天皇はすでに古墳の中の人だったのだ。


それと雄略天皇(武)の上表文で知られる478年の遣使も、長浜さんの計算だと雄略天皇の最晩年(在位457〜480年頃)にあたり、いまさら官爵?という60才頃のこと。


ここら辺、辻褄が合うように推理してみるなら、462年の興の遣使は、弟の雄略天皇が「暗殺」という非業の死を遂げた兄のために代筆した上表を持参したもの・・・。


478年は雄略天皇ご本人が、いつも朝鮮諸国より下にみられる不満をダイレクトにぶつけ、希望通りに叙任しないなら縁を切るぞ!という最後通牒を送った・・・とか(実際それが最終回になっている)。


・・・ん?

でも長浜さんの計算だと、「珍」の遣使は允恭天皇が送ったことになるわけか。だが允恭天皇には兄(反正天皇)のために朝貢する理由はないと。

うーむ、難しい。

「倭隋」とは誰か

5世紀の天皇系譜

(出典『検証!河内政権論』堺市/2017年)

ところで反正天皇(珍)が宋から得てきた「将軍号」を与えられた13人に、ただ一人だけ名前を残すのが「倭の隋」なる人物。


「倭」を名乗るのだから皇族、しかも反正天皇の「安東将軍」と倭隋の「平西将軍」はほぼ同等ということから、かなりの実力を備えたナンバーツー的な立場。


それを5世紀の天皇系譜から探すなら、応神天皇の皇子で反正天皇には叔父さんの「稚野毛二派皇子(わかぬけふたまたのみこ)」がそれっぽい。


ちなみに仁徳系は武烈天皇を最後に父系としては断絶しているので、現在の皇室はこの皇子を通して神武天皇に繋がってることになるようだ。

大津市の高穴穂宮址

大津市の高穴穂宮址

興味深いのが稚野毛二派皇子の母系で、系譜に詳しい古事記によれば、ヤマトタケルの子「息長田別王」に遡るのだという。


どうやら近江あたりを地盤にする母系と、応神天皇の間にうまれた子が稚野毛二派皇子ということで、ヤマトタケルの子「仲哀天皇」が都とした近江「高穴穂宮」とか、仲哀天皇の正妻で応神天皇の母という息長タラシヒメ「神功皇后」の名前なんかが、チラホラ頭に浮かんでくる展開だ。


んで、この稚野毛二派皇子の娘「忍坂大中姫」がケツを叩きまくったことから、病気を理由に即位を固辞してした允恭天皇が立つことになるわけだが・・・。


長くなってきたので、「倭の五王②済 〜允恭天皇と「二つの王家」(葛城vs和珥+息長)〜」につづく