静岡と神奈川のヤマトタケル神社

静岡県のヤマトタケル神社

静岡県焼津市の式内社、「焼津神社」。

思ってたより街中の神社で木が少なかったのは残念だったが、せわしない年末の夕方でも快く御朱印に応じていただいて、気持ちのいい参詣ができた。

焼津神社

日本書紀には、ここらはヤマトタケルを襲った賊を「焚き滅ぼした」場所だから「焼津」と名づけたと書いてある。

一方、もともと焼津市一帯は天然ガスの埋蔵地で、海辺で燃え続ける火に畏怖した古代人が名づけた「焼き津」という地名から、草薙剣の説話が考え出されたという説もある。

(『日本の神々 神社と聖地 10』)

三池平古墳

この日、昼過ぎに東名にのったぼくらが最初に訪れたのが、清水区の「三池平古墳」。

「清水いはらIC」を降りてミカン畑を進んだ先に見えてくる、サッカーの清水トレセン入口脇の丘が、それだ。


5世紀初頭に築造された65mの前方後円墳で、贅沢な副葬品から「廬原(いおはら)国」をおさめた国造の墓だと見られている。

墳丘からは清水の町並みが一望でき、写真右手の山は日本平、左手は伊豆半島、真ん中あたりに三保の松原が見える(はず)。

久佐奈岐神社

三池平古墳から山道を下った谷間に鎮座するのが、式内社の「久佐奈岐神社」。 


社伝によれば、ヤマトタケル東征の副将、吉備武彦がその功績によって廬原国を賜って、この地にタケルを祀ったのが創建の由来だとのこと。

新撰姓氏録

同じような話は、平安時代(815年)に編纂された朝廷公式の氏族名鑑「新撰姓氏録(しんせんしょうじろく)」にも掲載されている。


曰く、景行天皇の御代、吉備武彦は東方に派遣され、毛人やら鬼神やらを伐って「阿部廬原国」に到り、復命した日に廬原国を賜ったのだと。


ただ「新撰姓氏録」には、ヤマトタケルへの言及はない。 

また、吉備武彦は第7代孝霊天皇の三世孫(ひ孫)だとされるが、君主の第12代景行天皇は孝霊天皇の五世孫なので、ビミョーに世代が合わない気がするが、ま、古代の系譜にケチをつける方が野暮天か。

草薙神社

こちらは日本平の北麓に鎮座する、式内社の「草薙神社」。

社伝によれば、ヤマトタケルの没後、景行天皇が早世した息子を偲んで東国を巡幸したときに、ここでタケルを祀ったのが創建だという。


でも、あのヤマトタケルでさえ、九死に一生を得るような静岡界隈を、景行天皇ご本人がウロウロされては、危険なんじゃないだろうか。


それで気になって調べてみたのが、ヤマトのシンボル、前方後円墳がこの界隈にあったかどうか。

それも当然、ヤマトタケルや景行天皇や訪れる前から、それがあったのかどうかだ。

向山古墳群リーフレット

・・・ふむふむ、あるな。

発見は2004年というから、ちょっと古い本には書いてないんだが、三島市の「向山古墳群」の一角に、「16号墳」と呼ばれる前方後円墳があった。


墳丘長は68mで、築造年代は市の教育委員会のリーフレットによれば200年代中頃、「全国子ども考古学教室」のサイトだと3世紀後半と、いずれにしても景行天皇の東国巡幸(長浜浩明さんの計算で315年ごろ)より前から、静岡東部にはヤマトの影響が及んでいたと分かった。

向山古墳群リーフレット

(出典:『向山古墳群リーフレット 』三島市教育委員会)

矢倉神社

清水区の「矢倉神社」。

吉備武彦の子孫の廬原国造が、東征軍の武器庫跡に景行天皇とヤマトタケルを祀ったのが創建の由来だとのこと。


でも、もしもあの時タケルに火を向けなければ、焚き滅ぼされた「賊」もこの地でナントカ国造として公認され、生き長らえたもんなんだろうか。

本居宣長に聞くと、それは無理っしょ、とのことだ。

なぜなら「賊」の正体は「蝦夷(えみし)」。 

まさにタケルが討ちに向かった当人に、タケルは欺かれ殺されかけたのだと、本居宣長は書いている(と谷川健一氏が『白鳥伝説』で書いている)。

神奈川県のヤマトタケル神社

足柄神社

神奈川県南足柄市の「足柄神社」。

古事記でヤマトタケルが殺した「白い鹿(坂の神)」は、こちらの社伝では道案内に現れた足柄明神の化身だとして、タケルに大切に祭られたのだという。

なお、1939年までは「矢倉明神社」という、あまりカッコよくない呼称(失礼!)だったそうな。

寒田神社

足柄上郡松田町の式内社「寒田神社」。


柳田國男によれば「寒」の古い意味は「清い」とか「冷たい」で、こちらも元は"聖なる田の精霊"を祀ったのだろうと、『相模の古社』(菱沼勇)には書いてある。

ただ、今は住宅地の中に鎮座してしまって、周囲に田んぼは皆無だった。


境内にはヤマトタケルが座ったという「腰掛石」なる岩が管理されていたが、こういうものは古代の磐座祭祀の痕跡だと、やはり『相模の古社』に書いてある。

川勾神社

山を下って湘南海岸方面に進み、中郡二宮町の式内社「川勾(かわわ)神社」にも参詣。

かやぶき屋根の随身門が渋い、雰囲気のいい神社だった。


それもそのはずで、こちら今では相模国の二の宮だが、古墳時代の神奈川西部には「師長(しなが)」という国があって、その国の一の宮(袼)が川匂神社だったそうだ。

相武(さがむ)と師長が合併して相模国になる際には、相武一の宮「寒川神社」とトップの座を争い、その再現劇は「国府祭」という神事となって、現在も続けられているのだそうだ。


あ、こちらヤマトタケルとは関係ないか。

(余談)神奈川県のヒメヒコ神社

有鹿神社

話が逸れたついでだが、神奈川県の式内社には、祭神が「ヒメヒコ」の神社が結構ある。

まず一の宮の「寒川神社」が「寒川比古命・寒川比女命」なる神さまを祭神としている。

んで、二宮町の「川匂神社」が「シナツヒコ命・シナツヒメ命」。

海老名市の「有鹿神社」が「アルカヒコ命・アルカヒメ命」など。


ヒメヒコ制といえばヤマト以前の古い統治形態で、シャーマンのヒメと実務者のヒコがセットになる、要は「邪馬台国」のような政治システムだ。

そんな大昔のヒメヒコを、県内指折りの古社が祭神にする神奈川・・・。

こりゃあ何か、歴史の秘密があるでええ!!


と興味津々のぼくだったが、1973年の『相模の古社』(菱沼勇/梅田義彦)を読んだところ、寒川神社の祭神は明治政府の教部省が提案した、と書いてあってガッカリ(笑)。

しかもその根拠が、伊勢神宮の摂社の一つに寒川比古、寒川比女の名前があるので、寒川神社もそれなんじゃね?というだけのもの。

『相模の古社』でも「説得力に欠ける」と呆れられている。

同じく川匂神社の記事では古くは祭神が「一座」だったこと(ヒメヒコだと二座)とか、有鹿神社の記事にはアルカヒコ・アルカヒメの名前は一切出てこないとか、落胆に次ぐ落胆だ。


神奈川県の古社も、どうやら古くても明治初期、場合によってはごく最近、祭神がヒメヒコになったというのが現実のようだ。


山梨と埼玉のヤマトタケル神社」につづく