箸墓古墳は邪馬台国の女王・卑弥呼のお墓か
日本書紀から探る、箸墓古墳の被葬者
(写真AC)
日本最古の巨大前方後円墳といわれる「箸墓古墳」は、本当に邪馬台国の卑弥呼のお墓なのか。
そもそもその説は、大正末期に徳島県の中学校の先生が、確たる考古学的なエビデンスもないままに捻りだした論文が大元らしい。
だがその教員にFACTを求めるのは気の毒だ。
明治初期に皇族のお墓に治定された箸墓古墳は、今に至るまで一切の発掘が禁止されていて、エビデンスなんてあるわけがなかったのだった。
それじゃ仮に、あれが卑弥呼のお墓じゃないのだとしたら、ぼくらも見てきたあのデッカい古墳の主は、いったい誰なんだろう。
考えるヒントというか手がかりは、正史「日本書紀」にあるのかも知れない。
その1「大坂山の石」
日本書紀には、第10代崇神天皇10年に「箸墓」を築造したとき「大坂山の石を運んで造った」と書いてある。
考古学の発展は素晴らしいものがあって、実はこの「大坂山」の件が意味するものは、すでに解明されているそうだ。
この「大坂山」とは、奈良県と大阪府の境に存在する二上山の西側にピークを持つ芝山のことで、大和川が亀ノ瀬と呼ばれる急流になる地点の南側の山である。
(中略)奥田の説によると、初めは大和平野に近い部分(橄欖石玄武岩地帯)から採取され、後に取り尽くして奥の方の岩(橄欖石安山岩および輝石安山岩地帯)に手を出しているとのこと。
玄武岩と安山岩のこのわずかな石材の違いが、大和古墳群築造の年代の違いに通じるのである。
(『最初の巨大古墳 箸墓古墳』清水眞一/2007年)
ザックリまとめれば、崇神天皇の10年以降、「大坂山」の「玄武岩」が石室に使われるようになったが、やがて玄武岩と「安山岩」が混在するようになっていった、という話。
ここから考えられるのは、箸墓古墳より古いと言われる「纒向石塚古墳」とか「ホケノ山古墳」とかは、玄武岩を使ってないので、崇神天皇10年以前に造られたものじゃないかということだ。
それと、箸墓古墳の次に造られたとみられる天皇陵候補の巨大古墳「西殿塚古墳」は、玄武岩と安山岩のミックスだと判明してるようなので、箸墓古墳より時間が経ってから造られたのかも知れない。
その2「特殊器台」と四道将軍
箸墓古墳から出土した土器に、弥生時代の吉備(岡山)で使われた「特殊器台」というものがある。
お葬式で使った道具らしいが、吉備の大切な祭具だったんだろう。それが何で奈良県の箸墓古墳から出て来たのか。
日本書紀によれば崇神天皇10年10月、遠国の教化のため「四道将軍」が派遣され、翌11年4月、地方の平定が報告された。
このとき平定された地域は、北陸・東海・丹波と、西道(山陽)だったという。
吉備の「特殊器台」は、このときヤマトに持ち帰られたんじゃないだろうか。
この吉備の特殊器台が見つかっている巨大古墳は、箸墓古墳と、次に造られた「西殿塚古墳」だ。
ただし西殿塚古墳からは、似たような形の別の土器が見つかっている。
「円筒埴輪」だ。
その3「埴輪」の登場
円筒埴輪(写真AC)
崇神天皇が崩御され、垂仁天皇28年。
この年、おじさんの倭彦(やまとひこ)が亡くなると、「近習の者を集めて、全員を生きたままで、陵のめぐりに埋めたてた」。
天皇はこの殉死の風習を憎んで、中止を命じたという。
32年、皇后が亡くなったとき、出雲出身の野見宿禰が「埴土で人や馬」などを作って、人間のかわりに陵墓に立てることを提案、垂仁天皇に喜ばれたという。
「埴輪」の始まりである、と日本書紀には書いてある。
この「埴輪」の登場も、箸墓古墳の主を考える材料だろう。
古墳時代初期の、4基の天皇陵候補の巨大古墳と、埴輪の関係はこうだ。
1)初号基「箸墓古墳」には、吉備の「特殊器台」はあるが、「埴輪」はまだない。
2)二号基「西殿塚古墳」からは、特殊器台と「円筒埴輪」の両方が出ている(埴輪の運用開始)。
3)三号基「行燈山古墳」からは円筒埴輪だけ。
4)四号基「渋谷向山古墳」からは、円筒埴輪だけでなく、よりレベルの高い「形象埴輪」が登場している・・・。
おおー!なんか分かりやすく段階的に発展しちゃってるぞ、古墳時代(笑)。
でも、こうして日本書紀と考古学がシンクロしてくると、気になるのが上記の天皇陵の築造年代だ。
箸墓古墳の築造年代
さて、箸墓古墳が最初の巨大前方後円墳だという点はみなさん一致してるんだが、その築造年代については考古学者の数だけ意見が分かれる情況のようだ。
早い人は3世紀半ば(250年前後)、遅い人は4世紀前半と、ざっと70年ぐらいの幅がある。
ただ、奈良の学者さんは奈良の土器の年代(纒向編年)を中心にお話になるので、地方とのタイミングにズレが生じているような印象が、ぼくにはある。
ぼくにピンと来たのは、広瀬和雄さんの説だ。
さらに、箸墓古墳から出土した土器と同一形式の布留0式土器が、炭素14年代法では西暦240~260年ごろの数値を出しています。
これらの事実によって、前方後円墳の成立年代は3世紀中ごろであると、ほぼ固まってきました。
(『前方後円墳の世界』2010年)
初期巨大前方後円墳の被葬者
炭素14年代法か・・・、きっと科学的なんだろう。「箸墓古墳」は西暦240〜260年か。
実はあとの3基は、大体コンセンサスが取れているようで、「西殿塚古墳」が3世紀後半、「行燈山古墳」が4世紀前半、「渋谷向山古墳」が4世紀後半という説をよく見る。
んで、毎度おなじみ長浜浩明さんの計算によれば、古墳時代前期の天皇の崩御年は、こうだ。
○第10代崇神天皇、241年崩御
○第11代垂仁天皇、290年崩御
○第12代景行天皇、320年崩御
○第13代成務天皇、350年崩御
おおー!
きれいに並んでるじゃないか。
崇神天皇が「箸墓古墳」
垂仁天皇が「西殿塚古墳」
景行天皇が「行燈山古墳」
成務天皇が「渋谷向山古墳」
邪馬台国と前方後円墳
吉野ヶ里遺跡(写真AC)
一応、ぼくが箸墓古墳は卑弥呼のお墓ではない、と思う理由を挙げておくと、「魏志倭人伝」に記録された邪馬台国の姿と、前方後円墳の誕生の経緯が、ぜんぜんマッチしない点が第一。
上掲の『前方後円墳の世界』によれば、2世紀後半から3世紀前半に日本の各地で「王墓」とよばれる大型墳丘墓が築造されていったが、それらの諸要素を統合した形で誕生したのが、前方後円墳なんだそうだ。
前方後円墳の墳形は吉備・讃岐・播磨・大和などの諸地域、墳丘を飾る葺石は出雲地域、円筒埴輪につながる特殊器台・壺形土器は吉備などの地域、刳り抜き式木棺と竪穴石槨のセットは吉備や畿内などの地域、中国鏡、装身具、鉄製武器などの副葬行為は西日本各地といった具合に。
弥生墳墓によるかぎり、大和地域の政治勢力が、各地域の首長層を力で屈服させた、との説明は困難です。
むしろ、各地の勢力が共存していたというイメージがふさわしいようです。
(『前方後円墳の世界』広瀬和雄/2010年)
だが、「魏志倭人伝」に描かれた邪馬台国のイメージはどうだろう?
●独身のまま、千人の侍女にかしずかせて、人に会わず引きこもっている女王。
●その居室や宮殿・物見台・砦はいかめしく作り、常に警備のものが武装して守護している。
●北の「伊都国」に統率者を派遣して睨みを効かせ、諸国を恐れはばからせている。
●南の「狗奴国」とは交戦中で、中国に援助を求めている。
●248年に卑弥呼が死ぬと男王が立ったが、国中がそれに従わず、殺し合いを始めて1000余人が死んだ。
●卑弥呼の一族の娘を王に立てて、混乱はようやく収まった・・・。
(参考『倭国伝』講談社学術文庫)
考古学に裏付けられた箸墓古墳誕生に至る「共存」のストーリーと、戦闘国家・邪馬台国の殺伐としたストーリー。
ぼくには全く別のエリアで起こった、別の歴史にしか思えない・・・。
また、『前方後円墳の世界』によれば、卑弥呼が死んで「倭国」が死者1000人に及ぶ「内戦」をしてた頃、箸墓古墳に始まった前方後円墳(および前方後方墳)は、北は栃木県から南は大分県にまで、 「同時多発的」に広がっていったんだそうだ。
もしも前方後円墳が卑弥呼の墓のコピーに過ぎないなら、このスピード感はないだろう。
西暦250年ごろには、すでに何らかの広域な政治的ネットワークが成立していたと、広瀬教授は述べられている。
ここでも当時の中国人が見た「倭国」とは違う「日本」が、中国人の視界の外に存在してたように、ぼくには思える。
「三角縁神獣鏡は"卑弥呼の鏡"か」につづく