西暦291年、景行天皇美濃に行幸

〜美濃の前方後方墳〜

真清田神社の尾張氏

真清田神社

天火明命(アメノホアカリ)を祀る、尾張国一の宮「真清田(ますみだ)神社」(一宮市)。


ご祭神は「日本書紀」の「正伝(本文)」によると、天孫ニニギと結婚した鹿葦津姫(木花開耶姫)が火中出産した三兄弟の三男で、尾張連の始祖だとある。


でもなんでまた、名だたる豪族を差し置いて尾張氏が皇室に肩を並べる厚遇を受けてるのか、ちょっと不思議になったが、聞けばあの壬申の乱で天武天皇を全力で支援して、その天下取りに大貢献したのが尾張氏なんだそうだ。


天皇がそれに感謝して、日本書紀を発注する際に、尾張氏アゲを命じた可能性でもあるんだろうか。

景行天皇と「東之宮古墳」

東之宮古墳

犬山市の前方後方墳「東之宮古墳」。

結構、急勾配の山の上にあって、よくこんな場所に古墳を造ったもんだと感心させられた。

墳丘の長さは67mと小ぶりだが、出土品には三角縁神獣鏡が4面だか5面だかもあって、三世紀後半の「にわ」の王さまのお墓らしい。

前方後円墳の世界

ところで、なにゆえに前方後「円」墳と前方後「方」墳の二種類があるのかは謎らしいが、これを中央 vs 地方、西 vs 東、邪馬台国 vs 狗奴国、みたいな単純な二項対立だと考えるのはFACTに合わないと、考古学者の広瀬和雄さんはおっしゃっている。

(『前方後円墳の世界』2010年)

第一に、どんな地域においても、「方」は「円」より小さいこと。

第二に、(初期の栃木と埼玉を除けば)「円」と「方」はモザイク状に併存していて、一円的な分布状況は認められないこと。

第三に、「方」のデカいものは結局は奈良盆地に集中していること(最大は天理市・西山古墳の183m)。

第四に、同じ地域の「円」と「方」の副葬品には差がないこと。


以上のFACTから、「円」と「方」の併存は、「各地の首長の政治的なランク付け」だと広瀬さんは結論づける。

分かりやすい図で表示するなら、こうだ。

濃尾平野西部の古墳の変遷

出典『邪馬台国時代の東海の王 東之宮古墳』赤塚次郎/2018年)

図のタテ軸は年代で、ヨコ軸は地域(左から大垣、岐阜、犬山)。

小っさい前方後「方」墳をチマチマ造ってた「三野前(みののさき)」とか「三野後(みののしり)」の人たちが、西暦300年ごろを境に大型の前方後「円」墳に移行していったことが一目瞭然だ。


実はこの動きの契機になったかも知れない事件が、日本書紀には書いてある。

第12代景行天皇の「美濃行幸」だ。


日本書紀には景行天皇の女漁りとして記録されているが、その前に予定された紀伊への行幸、(美濃の後に行われた)九州への巡幸から考えて、そんな呑気な旅ではなかったはずだ。


何らかの政治的理由があって美濃に行幸して、その結果として濃尾平野北部も「前方後円墳国家」に組み込まれた・・・ぼくにはそう思える。


長浜浩明さんの計算だと、景行天皇の在位は西暦290〜320年。

美濃行幸は291年ごろのことだ。

景行天皇と「姉崎天神山古墳」

姉崎天神山古墳

千葉県市原市の「姉崎天神山古墳」。

時代的には、ヤマトタケルの東征につづく、景行天皇じきじきの東国巡幸のあと、4世紀前半〜中ごろに築造されたものだという。


古墳時代の市原市あたりは「上海上(かみつうなかみ)」と呼ばれた国で、その初代国造のお墓が「姉崎天神山古墳」だという話だ。

墳丘長は約130mで、3世紀半ば築造の「神門5号墳」の3.5倍の大きさだ。


こちらも景行天皇の巡幸が、古墳の巨大化とタイミングが合っている。

九州の「川部・高森古墳群」(宇佐市)や「生目古墳群」(宮崎市)でも同じような展開が見られるので、そういうものなんだろう。

つまりは、天皇に直々に「許可」されて、古墳は大きくなっていった可能性は考えられると思う。

《追記》景行天皇と「生目古墳群

生目5号墳

(生目5号墳 宮崎市公式サイト)

日本書紀によれば第12代景行天皇が、朝貢してこない熊襲を討つために軍を起こしたのは、その12年8月のこと(長浜浩明さんの計算では西暦296年ごろ)。


11月に日向の「高屋宮」を行宮とした天皇は、12月には計略によって「熊襲梟帥(くまそたける)」を亡き者にすると、翌13年5月には「襲国(そのくに)」の平定を完了したという。


景行天皇はそのまま6年(実際は3年)のあいだ高屋宮に留まると、地元の「御刀媛(みはかしひめ)」を妃として、「豊国別(とよくにわけ)皇子」を得ている。


『先代旧事本紀』には、その「豊国別皇子」の三世孫(ひ孫)にあたる「老男(おいお)」が、応神天皇の御世に、初代の「日向国造」に定められたと書いてある。

唐仁古墳群

(唐仁古墳群 鹿児島県公式サイト)

宮崎市の「生目古墳群」に初めての首長墓、120mの前方後円墳「生目一号墳」が築造されたのは4世紀前半というから、西暦300年前後に誕生した「豊国別皇子」のお墓にしては早すぎる。


被葬者を日本書紀から探すなら、「生目一号墳」は景行妃の「御刀媛」が丁度いいだろうか。


その息子の「豊国別皇子」には、4世紀中ごろに築造され、古墳時代前期(3C中〜4C後半)としては九州最大のサイズを誇った137mの前方後円墳「生目3号墳」が相応しいか。


ただ、「生目古墳群」に首長墓が造られたのは4世紀後半までで、4世紀末には100キロ南の大隅半島、鹿児島県肝属郡に、154mの前方後円墳「唐仁(とうじん)大塚古墳」が築造されている。

西都原古墳群・北郷泰道

生目古墳群が、南九州の覇者として継続できなかった理由について、考古学者の北郷泰道さんは、当時の宮崎平野の地形を原因として挙げている。


古墳時代の大淀川は大きく4つの流域に別れていて、河川に囲まれた限られた島状の微高地だけでは、生活域と墓域には狭すぎたのだそうだ。


一方「西都原古墳群」がある一ツ瀬川流域には、水田耕作可能な平野部と、畑作に向いた「原(ばる)」があって、生活域と墓域を収容できる十分な土地があったという。


「南九州では、河川ではなく台地を制した者こそが覇者となり得たのである」(北郷泰道)


西暦296年、景行天皇、九州巡幸(邪馬台国の滅亡)」につづく