西暦291年頃、景行天皇美濃に行幸

〜美濃の前方後方墳〜

真清田神社の尾張氏

真清田神社

天火明命(アメノホアカリ)を祀る、尾張国一の宮「真清田(ますみだ)神社」(2021春参詣)。


ご祭神は「日本書紀」の「正伝(本文)」によると、天孫ニニギと結婚した鹿葦津姫(木花開耶姫)が火中出産した三兄弟の三男で、尾張連の始祖だとある。


でもなんでまた、名だたる豪族を差し置いて尾張氏が皇室に肩を並べる厚遇を受けてるのか、ちょっと不思議になったが、聞けばあの壬申の乱で天武天皇を全力で支援して、その天下取りに大貢献したのが尾張氏なんだそうだ。


天皇がそれに感謝して、日本書紀を発注する際に、尾張氏アゲを命じた可能性でもあるんだろうか。


※この件については天武天皇ではなく、欽明天皇と関係がありそうなので、こちらに書きました尾張氏の登場 〜弥彦神社の天香山命と物部氏の天火明命〜)。


※『日本の神々10東海』によると、真清田神社の祭神が「天火明命」に定着したのは明治以降のことで、それ以前は「国常立尊」が優勢だったそうだ

景行天皇と「東之宮古墳」

東之宮古墳

犬山市の前方後方墳「東之宮古墳」。

結構、急勾配の山の上にあって、よくこんな場所に古墳を造ったもんだと感心させられた。

墳丘の長さは67mと小ぶりだが、出土品には三角縁神獣鏡が4面だか5面だかもあって、三世紀後半の「にわ」の王さまのお墓らしい。

前方後円墳の世界

ところで、なにゆえに前方後「円」墳と前方後「方」墳の二種類があるのかは謎らしいが、これを中央 vs 地方、西 vs 東、邪馬台国 vs 狗奴国、みたいな単純な二項対立だと考えるのはFACTに合わないと、考古学者の広瀬和雄さんはおっしゃっている。

(『前方後円墳の世界』2010年)

第一に、どんな地域においても、「方」は「円」より小さいこと。

第二に、(初期の栃木と埼玉を除けば)「円」と「方」はモザイク状に併存していて、一円的な分布状況は認められないこと。

第三に、「方」のデカいものは結局は奈良盆地に集中していること(最大は天理市・西山古墳の183m)。

第四に、同じ地域の「円」と「方」の副葬品には差がないこと。


以上のFACTから、「円」と「方」の併存は、「各地の首長の政治的なランク付け」だと広瀬さんは結論づける。

分かりやすい図で表示するなら、こうだ。

濃尾平野西部の古墳の変遷

出典『邪馬台国時代の東海の王 東之宮古墳』赤塚次郎/2018年)

図のタテ軸は年代で、ヨコ軸は地域(左から大垣、岐阜、犬山)。

小っさい前方後「方」墳をチマチマ造ってた「三野前(みののさき)」とか「三野後(みののしり)」の人たちが、西暦300年ごろを境に大型の前方後「円」墳に移行していったことが一目瞭然だ。


実はこの動きの契機になったかも知れない事件が、日本書紀には書いてある。

第12代景行天皇の「美濃行幸」だ。


日本書紀には景行天皇の女漁りとして記録されているが、その前に予定された紀伊への行幸、(美濃の後に行われた)九州への巡幸から考えて、そんな呑気な旅ではなかったはずだ。


何らかの政治的理由があって美濃に行幸して、その結果として濃尾平野北部も「前方後円墳国家」に組み込まれた・・・ぼくにはそう思える。


長浜浩明さんの計算だと、景行天皇の在位は西暦290〜320年。

美濃行幸は291年ごろのことだ。

景行天皇と「姉崎天神山古墳」

姉崎天神山古墳

千葉県市原市の「姉崎天神山古墳」。

時代的には、ヤマトタケルの東征につづく、景行天皇じきじきの東国巡幸のあと、4世紀前半〜中ごろに築造されたものだという。


古墳時代の市原市あたりは「上海上(かみつうなかみ)」と呼ばれた国で、その初代国造のお墓が「姉崎天神山古墳」だという話だ。

墳丘長は約130mで、3世紀半ば築造の「神門5号墳」の3.5倍の大きさだ。


こちらも景行天皇の巡幸が、古墳の巨大化とタイミングが合っている。

九州の「川部・高森古墳群」(宇佐市)や「生目古墳群」(宮崎市)でも同じような展開が見られるので、きっとそういうものなんだろう。

つまりは、天皇に直々に「許可」されて、古墳は大きくなっていった可能性は考えられると思う。


西暦296年、景行天皇、九州巡幸(邪馬台国の滅亡)につづく