西暦355年頃、武内宿禰が忍熊王を倒す

〜紀伊勢力の勃興〜

武内宿禰と「紀伊」

日前神宮

和歌山市に鎮座する、紀伊国一の宮・官幣大社の「日前神宮・國懸神宮(ひのくまじんぐう・くにかかすじんぐう)」。


神武天皇の部将「天道根命」にはじまる「紀国造家」が、代々「日像鏡」「日矛鏡」を奉斎してきた古社だ。


現在の当主で81代を数えるという名家中の名家の「紀氏」だが、その6代目に「莵道彦(うじひこ)」なる人物がいる。


日本書紀によれば、第12代景行天皇はその3年、紀伊国へ行幸して天神地祇の祭祀を計画したが、吉兆ではないと断念。

代わりに、第8代孝元天皇の孫に当たる「屋主忍男武雄心命(やぬしおしおたけおごころ)」を派遣したという。

國懸神宮

この「屋主忍男武雄心命」は紀伊に9年間居住したが、そのときに「紀直」の祖「莵道彦」の娘「影媛」を娶って、産まれた子が「武内宿禰」だ。


日本書紀には、武内宿禰は第13代成務天皇と「同日」に生まれたとあるので、長浜浩明さんの計算だと西暦297年生まれになる。


321年には24才で成務天皇の「大臣(おおおみ)」に就任。側近中の側近となった。


成務天皇が崩御した後も、引きつづき第14代仲哀天皇、神功皇后の「大臣」を務めている。

南海フェリー

南海フェリー(徳島ー和歌山)

傍流の皇族に過ぎなかった武内宿禰が「大臣」に出世できたのは、本人の実力もあるのだろうが、「紀伊」とのつながりも大きかったのだと思う。「紀伊水軍」はこの時代、朝鮮半島への出征における、皇軍の主力をなしていたと聞く。


仲哀天皇は紀伊に滞在中に、熊襲の叛意を聞いて討伐を決意したというが、ぼくは違う順番も考えられると思う。


もともと紀伊で北部九州平定の軍を準備していたところに、熊襲の謀叛の報が入った・・・この方が、その後の迅速な展開とマッチしているような気がする。

それほど熊襲の降伏はあっけなかった。

あるいは熊襲は謀叛など企ててはいなかった、とか?

天下分け目!忍熊王の反乱

紀ノ川河口

紀ノ川河口(写真AC)

「三韓征伐」を終え、海路で帰京する神功皇后のもとに、仲哀天皇の側室の子「麛坂(かごさか)王」と「忍熊(おしくま)王」が反乱を起こし、はじめは明石に、そののち住吉に軍を待機させているという急報が飛び込んできた。


このとき、赤ちゃんの応神天皇をフトコロに抱いて、武内宿禰が向かった先が「紀伊水門」だった。


応神天皇を取り逃がした忍熊王の反乱軍は、兵を山背(山城)の「菟道(宇治)」にまで引き、神功皇后の本隊も紀伊に入った。


紀伊の「小竹宮」で軍議が行われ、神功皇后摂政元年(355年頃)3月、武内宿禰と「武振熊(たけふるくま)」に数万の兵が授けられ、忍熊王討伐軍が宇治に向けて進軍した。

このとき、武内宿禰は58才。


相棒の「武振熊」は、琵琶湖西岸(湖西地域)を出自とする豪族「和珥(わに)氏」で、こののち「春日(奈良市)」に進出して、「春日勢力」とでも言う集団を形成したと、歴史学者の小野里了一さんが書かれている。

同様に、四世紀半ばになって、突然大型前方後円墳が出現する地がある。 大和盆地北部の佐紀盾列古墳群である。


この古墳群の出現は琵琶湖西部(湖西地域)を出自の地とする和邇(わに)勢力が倭王権との仕奉関係の成立を機に、その拠点として春日の地へと進出し、新たに春日勢力とでもいう集団を形成したことと関係すると思われる。


小野里了一「葛城氏はどこまでわかってきたのか」『古代豪族』2015年)

ただ、この戦の時点では「和珥勢力」は近江にいるわけで、琵琶湖東岸の神功皇后のご実家「息長氏」とも組めば、紀伊からの皇軍と近江勢力で、宇治の忍熊王を挟み撃ちにできることになる。


かくして宇治から敗走した忍熊王は逃げ場を失ったか、近江の「瀬田の済(わたり)」で自害したのだった。

瀬田

瀬田(写真AC)

武内宿禰の本拠地が紀伊にあったことは、次のエピソードからもわかる。


応神天皇9年(393年頃)、武内宿禰は勅命により筑紫を監察していたが、その留守につけ込んだ弟の「甘美内宿禰(うましうちのすくね)」は天皇に、兄が九州で独立しようとしていると讒言した。


これを聞いた応神天皇は武内宿禰殺害の使者を送ったが、武内宿禰の部下で容姿がよく似た「壱伎直」の祖「真根子」が身代わりに自害した。


この騒動の中、武内宿禰が夜陰に紛れて向かったのは、やはり「紀水門」だった。

武内宿禰にとっては、絶対に間違いのない安全地帯だったのだろう。

武内宿禰と紀伊の勢力

諸星大二郎「暗黒神話」の武内宿禰(もちろん老人の方)

諸星大二郎「暗黒神話」の武内宿禰(もちろん老人の方)

ところで武内宿禰といえば「子沢山」で知られるが、実は日本書紀にはその子孫として「平群(へぐり)臣」の祖「木菟(つく)」の名前しか出てこない。


子孫が列挙されているのは系譜にうるさい「古事記」で、そこには「波多」「許勢(巨勢)」「蘇賀(蘇我)」「木(紀)」「葛城」なんて名が見える。


もちろん、本当に武内宿禰にこういった子供がいたということではなく、ある種の政治グループが武内宿禰を「同祖」としてまとまったという意味だと、一般的には考えられているようだ。


上に引用した小野里さんの文章の続きはこうだ。

しかしもう一歩踏み込んで考えれば、湖西地域の和邇氏が倭王権との仕奉関係を結び、春日地域に進出し新たな勢力拠点を確保していたのと同じように、紀勢力が倭王権との仕奉関係を結ぶことで新たに葛城地域に進出し、葛城勢力という集団を形成したのではないだろうか。


(「葛城氏はどこまでわかってきたのか」小野里了一/2015年)

5世紀にはまだ「氏姓制度」が成立していないので「勢力」とあるが、要は武内宿禰を祖とする紀伊のグループが、「紀ノ川」を遡上するように、奈良盆地南部へと進出していった、ということなのだろう。


図で示せばこうだ。

南から北へ、「巨勢」「羽田」「蘇我」「葛城」「平群」と紀伊勢力が並んでいる。

近畿地方の豪族勢力図

(出典『空白の日本古代史』水谷千秋/2022年)

歴史学者の水谷千秋さんによれば、建内宿禰を祖とする豪族たちは、「もとは葛城氏の傘下」で「葛城氏を盟主的立場とした」「豪族連合の一員」だったという。


もちろん彼らは実の兄弟ではなく、平林章仁さんによれば「ある時代における政治的な盟約・ 連携関係を同族系譜に仕立てたもの」とのことだ。


もしかしたら、彼ら「武内宿禰連合」こそが、忍熊王の反乱軍を打ち破った皇軍の主力部隊で、戦勝の恩賞として、忍熊王の領土だった奈良盆地南部を神功皇后から下賜された・・・とか、そういう可能性もあるのだろうか。

応神天皇は山城からの入り婿?

『古代豪族』

ところで!

今回引用した小野里さんの説はスッキリと分かりやすく、ぼくにも4世紀後半のヤマトの状況がうっすらと見えてきた気がしたもんだが、じつは同じ本に全く別の説が載せられていて、ちょっと不思議な気持ちになった。


その説によれば、日本書紀が「反乱軍」という(仲哀天皇側室の子)忍熊王こそが「皇統の本流」で、応神天皇は山城出身の傍流で、河内の宮家に入り婿して天下を奪った人物なのだという。

私見によれば、391年前後に、佐紀政権体制派の政治集団(香坂王・忍熊王の名で語られている政治集団)と反体制派の政治集団(神功・応神の名で語られている政治集団)との間に朝鮮半島問題をめぐって確執が生じ、内乱に発展した。


その結果、後者が勝利してヤマト政権の中枢勢力が入れ替わり、応神をリーダーとする河内政権(主に古市・百舌鳥古墳群に大王墓を築いた政治勢力)が成立した。


新政権の始祖王となった応神はもともと佐紀政権を最高首長とともに一体となって支えていた山城南部の政治集団の出身で、 のちに古市古墳群の所在する河内誉田地方の一族(品陀真若王の名で伝えられている一族)のもとに入り婿のかたちで入っていった人物と考えられるから、この争いの本質は、佐紀政権内部の争いであったといってよい。


それゆえ私はこの争いを、"四世紀末の内乱"と称している。


塚口義信「丹波の首長層の動向とヤマト政権の内部抗争」『古代豪族』2015年)

うーむ、確か、井上光貞氏が応神天皇は「崇神王朝」の系譜につながるナカツ姫に入り婿して云々・・・と書かれていると聞いたことがあるけれど、似たような話なんだろうか。


でも「391年前後」と言えば、ヤマトは各地に200メートル級の前方後円墳を乱築していた時期であるし、そのちょっと後には朝鮮半島に出兵して高句麗の好太王軍と闘っていたような。


そんなとき「内戦」の上に「政権交替」なんかしてて、そんな大事業を次々と、こなせたもんだろうか。

ぼくには疑問が残るし、だいいち話がややこしくてスッキリ頭に入ってこない。


西暦357年頃、葛城襲津彦・登場〜神功皇后は実在したのか〜」につづく