蝦夷・海人・国樔人と武内宿禰の「盟神探湯(くがたち)」

応神天皇と武内宿禰

氣比神宮

日本書紀によると神功皇后13年の2月、武内宿禰は当時7歳前後だった応神天皇の手を引いて、越前は角鹿(敦賀)の「笥飯大神(氣比神宮)」を参拝している。


武内宿禰といえば神功皇后の重臣中の重臣で、皇位を狙う「忍熊王」の軍から赤ちゃんだった応神天皇を守ったり、皇軍を率いては忍熊王の軍を打ち倒したりと、大活躍だ。


応神天皇にとっては、今があるのは武内宿禰のおかげだと言ってもいいだろう。


日本書紀には、武内宿禰は第13代成務天皇と「同日」生まれだとあるので、長浜浩明さんの計算だと西暦297年頃に誕生。

孫のような応神天皇と敦賀へ向かったのは、武内宿禰が64才ごろのことだ。

氣比神宮拝殿

応神天皇と蝦夷・海人・国樔人

ところで応神天皇の御世の特徴といえば、「弓月の君」や「王仁」など、朝鮮半島から多くの人々が渡来してきた点が挙げられる。


中には、実際には6代あとの雄略朝の来日だと考えられる人まで応神期に集められているのは、日本書紀には応神天皇の「徳」を強調する意図があったのかも知れない。


そして応神天皇の「徳」は海外だけでなく、国内の辺境や秘境にも及んだのだった。

福島県・小名浜

(福島県・小名浜 写真AC)

国内では、まずは応神天皇3年に、その「悉く」が朝貢してきたという「蝦夷」がいる。


神武紀の「来目歌」を除いて、実際に蝦夷が日本書紀に登場してくるのは第12代景行天皇の治世。

勅命によって北陸から東国を視察してきた武内宿禰の進言によって、ヤマトタケルの「東征」が始められた。


蝦夷の住む「日高見国」は、日本書紀によると「常陸」の北東方向にあったようなので、今の福島県いわき市あたりか。

ヤマトタケルの上陸地点は、今の「小名浜」あたりになるんだろうか。

(蝦夷既平、自日高見國還之、西南歷常陸、至甲斐國、居于酒折宮)


そんな辺境(失礼!)にまで、応神天皇の偉大な「徳」は轟いていたという話。

志賀海神社

(安曇氏の氏神 志賀海神社)

つづいて「海人」もまとめられた。


このころ、方々の海人が「わけのわからない言葉を放って」反抗したものの、応神天皇の命令で阿曇連の祖「大浜宿禰」が騒動をおさめ、以後「海人の宰」として統率を任されたという。


さらには、奈良県南部の山岳地帯「吉野」に住む「国樔(くず)人」もはじめて来朝し、以来しばしば土地の産物を献上するようになったという。


国樔人は神武天皇も接触した大和の先住民で、「土蜘蛛」とは違って反抗的ではなく、山の中で独立して暮らす純朴な人たちだ。

カエルの料理が絶品なんだそうだ。

吉野

(吉野 写真AC)

甘美内宿禰の讒言

さて、こんなかんじであまねく行き渡る応神天皇の「徳」だったが、その9年(393年頃)、その「徳」が揺らいでしまう「不徳」の事態を応神天皇は招いてしまう。


忠臣・武内宿禰に対する殺害命令だ。


この年、武内宿禰は筑紫で「百姓」の監察を行っていたが、弟の「甘美内宿禰(うましうちのすくね)」に、兄は筑紫と三韓の兵を合わせて天下を狙っております!と讒言されると、応神天皇は何ともアッサリと武内宿禰粛清の命令を下したのだった。


もちろん、武内宿禰は罪なくして死ぬことを嘆き、それを惜しんだ壱伎直の祖「真根子」が身代わりに自殺するという異常事態に発展。


武内宿禰は筑紫から南海(四国の太平洋側?)をまわって本拠地の紀伊に帰還すると、朝廷に出頭した。


応神天皇は言い争う両者に「探湯(くがたち)」を命じ、占いの結果は武内宿禰の正義を証明した。讒言した甘美内宿禰は、紀直の祖に「隷民」として下賜されたという。

武内宿禰は架空の人物?

『古代豪族』

研究者の小野里了一さんによると、「建内宿禰は7世紀後半になって創出された伝説上の人物である」んだそうだ。

(『古代豪族』2015年)


だとすると、日本書紀の武内宿禰の「謀叛」疑惑そのものも「創出された」事件ということになるはずだが、皇室の記録である日本書紀は、なぜわざわざ応神天皇の「不徳」を「創出」したりしたんだろうか。


というのも、「記紀」の片割れ『古事記』には、こんなエピソードは掲載されていないのだ。

万人が周知した事件ではなかったということだろうか。


ちなみに、武烈天皇で途絶えた仁徳系の天皇と違って、応神天皇は継体天皇を通じて飛鳥時代の天皇と血が繋がっているので、誰かから貶められるような謂われはない。


それに、讒言されたときの武内宿禰の年齢は、長浜浩明さんの計算でも96才という超高齢で、とても謀叛を起こすような気力も体力も残ってはいなかっただろう(と思う)。

武内宿禰と葛城襲津彦

稲荷山古墳 行田市公式サイト

(稲荷山古墳 行田市公式サイト)

しかしそうは言っても、仮にも「正史」に明記されている事件を、ただの「作り話」で片付けていいとは思えない。何かしらの歴史の真実を表していると、考えたほうがいい気がする。


それでもう一度、小野里さんの記事を読み返したところ、面白いことが書いてあった。


さきたま古墳群から出土した「稲荷山鉄剣」の銘からは、古代の貴族の称号が「ヒコ」「スクネ」「ワケ」の順で変遷したことが分かると、小野里さんはいわれる。


ところが古事記に残る建内宿禰の「系譜」を検討してみると、建内宿禰の下にズラッと「スクネ」が並んでいて、その中に「スクネ」より古いはずの「ヒコ」が一人、混じっている。


それが「葛城長江曽都毘古(ソツヒコ)」だ。


この事実から小野里さんは、古事記の建内宿禰の系譜とは、本来は建内スクネではなく、葛城ソツヒコを「上祖」とした系譜だったんじゃないかと考察されている。


そこに何らかの理由から、7世紀後半に「建内宿禰」が創出され、系譜の上祖が書き換えられた・・・ということらしい。

平群木菟(つく)の父親は誰か

近鉄平群駅

(平群駅 写真AC)

この小野里さんの説は、ホントに興味深い。


日本書紀によると、応神天皇がのちの仁徳天皇を授かった同じ日に、武内宿禰の妻も平群(へぐり)臣の祖となる「平群木菟(つく)」を産んでいる。


それは西暦386年ごろのことで、この時の応神天皇は31才と、新たに子を持つことになんの不思議もない年齢だったが、問題は武内宿禰。


いくらなんでもそりゃ無理だという、89才だ。


しかし、もしも古事記の系譜では建内宿禰の子だとされる平群木菟が、実際には葛城襲津彦の子だとしたら、こちらも何の不思議もない話となるのでは。

葛城襲津彦の若すぎるデビュー

高天彦神社

(葛城氏の氏神 高天彦神社)

さて、ここで仮に平群木菟の父を葛城襲津彦だったと書き換えて、同日に子を持った父親同士と言うことで葛城襲津彦と応神天皇も同年齢と「仮定」したとき、神功皇后62年(386年頃)に葛城襲津彦が行った新羅の征討などは、31才の襲津彦には年相応の仕事だったといっていいと思う。


だが反面、それだと全く計算が合わない事績も出てくる。

それが、記念すべき葛城襲津彦の日本書紀デビュー、すなわち新羅の人質と使者に同行しての、新羅行きだ。


このとき新羅の裏切りを知った襲津彦に攻められて、大和の葛城に連行された「俘人」たちこそが葛城氏繁栄の基礎を築いた渡来系の技術者たちだったと日本書紀はいうが、その年代は神功皇后5年、西暦だと357年頃のことになる。


仮に、葛城襲津彦を応神天皇と同じ年に産まれたと想定した場合、357年当時の襲津彦は、まだたったの1〜2才だ。

いくらなんでも若すぎ(幼すぎ)だ。

半島から3年帰ってこない葛城襲津彦

葛城一言主神社

(葛城氏の氏神 葛城一言主神社)

こうしてみると、武内宿禰については高すぎる年齢が気になり、葛城襲津彦は若すぎる年齢が気になる。


・・・これ、理由も意図も全然分からないが、両者の事績の名前が入れ替わっているというような可能性はないんだろうか。


具体的には、357年頃に襲津彦が行った新羅との戦闘 + 技術者の連行と、393年頃に武内宿禰が疑われた謀叛の計画・・・それらの名前を入れ替えると、話がメチャメチャすっきりすると思うんだが。


そもそも、357年頃の葛城襲津彦のデビューはあまりにも唐突で、しかもその仕事はポッと出の馬の骨が任されるレベルの内容ではない。精兵を率いての威圧的な外交だ。


一方、393年頃に30歳代半ばぐらいかと思われる葛城襲津彦であれば、筑紫と三韓を連合させてヤマトから独立するだけの気力や体力も、余裕で充実していたことだろう。


何となく怪しいのが、応神天皇14年(396年頃)の襲津彦の行動だ。


この年、百済から来日した「弓月君」が、新羅の妨害で配下の人間が「加羅」に留められて渡航できないと訴えると、天皇は事態の解決のために襲津彦を派遣するが、なぜか襲津彦は3年も連絡一つないまま帰国しなかったという。


単なる想像だが、もしも393年頃に謀叛の嫌疑をかけられたのが(武内宿禰じゃなくて)襲津彦だったとしたら、身の安全を図るチャンスとばかりに国外に留まった可能性もあるんじゃないだろうか。


その後、平群木菟の軍に助けられて襲津彦は帰国したというが、その後しばらく、日本書紀の舞台から襲津彦は姿を消している。

神功皇后と武内宿禰

(長門・住吉神社にて)

面白いのが、この次に襲津彦が登場する仁徳天皇41年のエピソードだ。


この年、百済に渡って現地を監察していた「紀角宿禰(きのつののすくね)」が百済の王族「酒君(さけのきみ)」に無礼を働かれたとき、ビビった百済王は「酒君」を捕縛すると「襲津彦にしたがわせて進上した」と日本書紀には書いてある(「附襲津彥而進上」)。


この一件からは、仁徳天皇41年当時、襲津彦は百済王の近くで生きていたようにも読めるんだが、どうなんだろう。

武内宿禰の意味

『皇后考』原武史

ところで上掲の小野里さんによれば、武内宿禰は「7世紀後半になって創出された伝説上の人物」だという。


なぜ「創出された」については特に言及がなかったが、タイミング的には国史編纂に関わる創出ということも考えられると思う。


じゃ「創出された」意味はと言えば、景行・成務・仲哀の皇統譜を、神功皇后・応神・仁徳にガッチリ繋げることにあったんじゃないだろうか。

つまりは串団子の「串」だ。


なにしろ神功皇后の摂政は、長浜さんの計算でも35年という長期間に及ぶので、なぜ第15代応神天皇が即位を待たされたのかを訝しむ声は、7世紀後半にも結構あったのかも知れない。


ちなみに明治政府ははじめ、神功皇后は即位したとして歴代天皇の一覧に組み込んでいたそうだ。

(『皇后考』原武史)

それなら皇位の「空白」は解消する。


なお、「神武天皇」が初代の天皇に確定したのも明治24年と遅く、 明治天皇の勅裁でそう決まるまでは、天孫「ニニギ」を初代天皇に推す説にも支持があったんだそうだ。



葛城と山城の「賀茂氏」と「秦氏」につづく