倭の五王②済
〜允恭天皇の謎と「二つの王家」
(葛城vs和珥+息長)〜
允恭天皇と「二つの王家」
2023年秋に見学した、市原歴史博物館の「王賜銘鉄剣」(レプリカ)。
5世紀半ば築造の円墳「稲荷台1号墳」(28m)からの出土品で、刻まれた「王」に特に説明がないことから、王の中の王である「大王(天皇)」が下賜したものと考えられているそうだ。
(1/3スケールの再現墳丘)
鉄剣を下賜したのは第19代允恭(いんぎょう)天皇だと見られていて、その理由は稲荷台1号墳の近辺に允恭天皇皇后「忍坂大中姫」の名代「刑部(おさかべ)」が少なからず分布するからだという(『古代王権と古墳の謎』2015年)。
允恭天皇は「倭の五王」三番目の「済王」である可能性が高いが、前王「珍」が中国の「宋」に遣使して13人分の「将軍号」を得たのに加え、さらに地方官の称号である「郡太守」の徐正も要求している点からも、地方掌握に尽力された天皇だったようだ。
(出典 左『倭の五王』森公章 /右『謎の四世紀と倭の五王』瀧音能之)
ところで允恭天皇といえば、皇統譜上は仁徳天皇の第4皇子で、第17代履中天皇と第18代反正天皇の「弟」だとされるものの、学者の中には仁徳天皇とは別の王統の始祖だと主張する人もいる。
その根拠は、「宋書」に残る倭の五王の系譜のなかで、「珍」と「済」の続柄が明らかではないこと。
マルクス主義歴史学者の藤間生大『倭の五王』(1968年)がその言い出しっぺだそうだ。
藤間は『宋書』倭国伝に記された系譜を厳密かつ合理的に捉えようとした。
珍と済の間に続柄記載がないことに着目し、両者は血縁関係にないか、もしくは血縁関係があったとしても済はその事実を隠したと考えた。
そこに王朝交替説が影響していることを読み取るのは容易である。
藤間の学説は、讃・珍グループと済・興・武グループという「二つの王家」論として現在まで大きな影響力を持っている。
(『倭の五王 王位継承と五世紀の東アジア』河内春人/2018年)
ぼくは「二つの王家」があったとは思わないが、反正天皇と思わしき「珍」と、その弟であるはずの「済」との間に、ある種の"断絶"を思わせる事実があることも確かだ。
①「珍」と「済」の歳の差
(菟道稚郎子を祀る「宇治神社」写真AC)
仁徳天皇の皇子、履中・反正・允恭の三帝の母親は、皇后の葛城磐之媛(いわのひめ)。
葛城襲津彦(そつひこ)の娘なので、皇族出身ではない皇后だ。
応神天皇は仁徳天皇ではなく、「和珥(わに)氏」の娘との間に産まれた「菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)」を皇太子に指名していたが、何とこの皇子は皇位を兄の仁徳天皇に譲ると、自死してしまった。
それで繰り上がりでまさかの皇后になれたのが、磐之媛だ。
一般的には、このイワノヒメが皇后の権力で実家を引き上げたのが、葛城氏が大豪族に成長できた原動力だと考えられているようだ。
(磐之媛陵に治定される「ヒシアゲ古墳」写真AC)
私は、不幸なことに、久しいあいだ重い病気にかかって、歩行することができない。また私は以前に病気をなおそうとして、天皇に申し上げずに、ひそかになおそうとしたが、なお少しもよくならない。
そこで、先皇(仁徳天皇)は、私をお責めになって、『おまえは、病気なのに、ほしいままに身を傷つけた。これよりはなはだしい不孝はない。たとえ長く生きても、けっして皇位につくことはできない』と仰せられた。
また私の兄であるお二方の天皇は、私を愚かだとして軽んじておられた。そのことは群卿が、すべて知っていることである。
(『日本書紀・上』中公文庫)
※なお、允恭天皇は成人して以来(15才頃?)、歩行さえ困難な大病(関節リウマチ?)に苦しんだようで、仁徳天皇の発言はその件について。
②「百舌鳥」を捨てて「古市」に回帰
(出典『ヤマト政権の一大勢力・佐紀古墳群』今尾文昭/2014年)
③母の実家を討つ允恭天皇
(出典『葛城の王都・南郷遺跡群』坂靖/2017年)
允恭天皇は5年(435年ごろ)、反正天皇の「殯(みもがり)」をサボって酒盛りをしていた「玉田宿禰」(葛城襲津彦の孫)の屋敷を囲み、殺害している。
「母」イワノヒメが育てた大豪族・葛城氏の当主を平然と殺してしまった允恭天皇・・・。
その背景には「葛城氏と尾張連の関係の遮断」(平林章仁)や「朝鮮半島の経営を巡って葛城氏と皇室が対立」(田中史生)など諸説あるようだが、結局それから20年ほど後の時代に、允恭天皇の子「雄略天皇」の手で、葛城氏はほぼ壊滅させられてしまうのだった。
王統は替わったのか
てなかんじで、仁徳・履中・反正の三代と、履中・雄略の父子には、確かに"断絶"があるように感じられる。
でも、もしも允恭天皇(済)が別の王統の祖———つまり仁徳天皇とは血縁がないのだとしたら、むしろ宋の皇帝には「新王朝」を承認してもらい、後ろ盾になってもらった方が有利なような気がする。
それにそもそも王統交替なんて大ニュースがあるのなら、根掘り葉掘り聞かれてしっかり記録されるのが当たり前のような気もする(中国人が倭人の事情に忖度する理由はないだろうし)。
もちろん「二つの王家」については、プロによる学術的な反論もある。
第1章で見たように、讃は正式には「倭讃」と名乗っていた。この場合の「倭」は高句麗王の「高」、百済王の「餘」と同じく姓と考えられる。
珍も「倭珍」と名乗って朝貢したであろう。
そして済と武は『宋書』本紀によるとそれぞれ「倭済」「倭武」と記されている。すなわち、済や武も倭姓を称している。その近親である興も倭興と名乗ったことであろう。
五王はいずれも倭姓を名乗っていたと推定される。姓が同一であることは父系の同族集団であることを意味するものとして、「二つの王家」論は批判されるのである(吉村武彦)。
(『倭の五王 王位継承と五世紀の東アジア』河内春人/2018年)
なるほど、倭の五王の「姓」が同じだから、血縁関係はあった。
そうなると次の問題は、なぜ済(允恭天皇)は血縁があるという「事実を隠した」のか、に移っていくことになる。
允恭天皇は誰の子か
(出典『検証!河内政権論』堺市/2017年)
結論から言うと、ぼくは允恭天皇は葛城イワノヒメの子ではなかったんじゃないかと思っている。
あくまで個人の感想だが、允恭天皇はイワノヒメが薨去したあと、仁徳天皇が新たに皇后にむかえた「八田皇女(やたのひめみこ)」との間にできた子だったんじゃないか。
もちろんイワノヒメが薨じたとき、允恭天皇は7才前後だったと思うので、八田皇女はまだ入内さえしていない頃の出産だった計算になる。
その場合、允恭天皇は「婚外子」として生まれたことになる・・・。
(宇治神社 写真AC)
八田皇女は菟道稚郎子の妹で、仁徳天皇にとっては「異母妹」にあたる。
皇位を譲って自死した菟道稚郎子の遺言が、妹の八田皇女を仁徳天皇の後宮に入れて欲しいというもので、仁徳天皇もその実現に執心するものの、イワノヒメは断固として拒否。
結局、仁徳天皇はその30年、イワノヒメの留守を狙って八田皇女を皇居に入れ、それを知ったイワノヒメは激怒して皇居には戻らず、二度と仁徳天皇に会うこともなく、山城の別邸で生涯を閉じている。
(息長氏の本拠地に近い米原駅)
ここらへん、日本書紀は犬も食わない夫婦喧嘩のように描いているが、もちろん背景には政治的な問題が横たわっていたと思う。
八田皇女の母は、第11代垂仁天皇の時代には「五大夫」の一角を占めた古豪「和珥氏」の出身。
第14代仲哀天皇が崩(かく)れたあと、皇位を巡る内戦が勃発したときは和珥氏の総帥「武振熊(たけふるくま)」が将軍に任命され、神功皇后・応神天皇の母子に勝利をもたらしている。
仁徳天皇の時代には、南山城の宇治あたりから北大和の春日(奈良市)が和珥氏の本拠地だったということだが、元々は琵琶湖西岸が出身地だったらしい。
対岸の豪族で、神功皇后のご実家「息長氏」とは旧知の間柄だったことだろう。
んで、その息長氏を母方とするのが、允恭天皇の皇后「忍坂大中姫(おしさかのおおなかつひめ)」だ。
このヒメのお父さんは、やはり仁徳天皇とは異母兄弟にあたる「稚野毛二派皇子(わかぬけふたまたのみこ)」(倭隋か?)。
この皇子の4世孫が「継体天皇」で、その政治基盤を考えると、越前から山城、近江、尾張といった辺りに、稚野毛二派皇子の支持層もあったことだろう。
そして皇后・忍坂大中姫に強く説得される形で即位した允恭天皇の周囲には、そうしたエリアを地盤とする政治グループ(いわゆる佐紀勢力?)がブレーンとして集まっていて、一つの目的のために動いたんじゃないか。
目的はもちろん、肥大化した葛城氏の勢力を削ぎ落とすことだろう。
ちなみに日本書紀の仁徳紀では消えていた古豪「大伴」「物部」の名も、允恭紀では回復している。
(出典『空白の日本古代史』水谷千秋/2022年)
ま、以上が允恭天皇が「珍」を兄とはいわず、兄たちの葬地「百舌鳥」を捨て、「母」の実家に刃を向けた理由について考えてみたことなんだが、これ以上の空想は懐かしの昭和時代「大映テレビ」的になるので、止めておく(笑)。
おそらく父の仁徳天皇が言い放ったように、履中・反正が相次いで、わずかな在位で崩れなければ、允恭天皇に皇位が回ってくることはなかったのだろう。
だが考えてみれば、仁徳天皇ご自身も皇太子・菟道稚郎子の自殺がなければ即位はなく、当然そうなれば葛城氏の勃興もなく、結局、允恭天皇の人生とは歴史の大きな揺り戻しの中にあったようにも思えてくる。
一節によると、菟道稚郎子は仁徳天皇の兵に攻め滅ぼされたともいうが・・・いや、だから止めとけって(笑)。