磐井の乱の近江毛野と物部麁鹿火
〜邪馬台国東遷説の地名類似説〜
近江毛野臣の6万の兵
2022年7月に見学した、滋賀県米原市の前方後円墳で「山津照神社古墳」(46m)。
6世紀中頃の築造で、多くの副葬品や横穴式石室奥の九州的な「石屋形」の存在などから、継体天皇の時代に6万の兵を率いて新羅討伐に向かったという「近江毛野(けな)臣」のお墓ではないかと、考古学者の森浩一さんはお考えのようだ。
ただ、米原市には土着の豪族「息長氏」がいて、近江臣(淡海国造)の本拠地はもっと南の大津市と考えられることから、豪華副葬品を誇る大型円墳「甲山古墳」(40m)を毛野のお墓にあげる研究者もいる(兼康保明氏など)。
(兜山古墳 野洲市観光なび!)
ただ、近江毛野がホントに6万もの兵を率いる大将軍だったかどうかには、疑問の声もある。
磐井に渡海を妨害されたという毛野は、乱の平定後「この月に近江毛野臣を安羅に遣わし」——と「普通の外交使節のように描かれており」、大将軍の迫力など全く感じさせないからだ。
また、不思議なことに毛野は6万の大軍を率いて進発し、磐井の乱により北部九州に留まっていたとみられるにもかかわらず、まったくその鎮圧に動いた形跡はないのである。
これらの点から私は、毛野の派遣記事は、鎮圧後のものにオリジナリティがあり、おそらく、23年(529)3月是月条以下のデータを参照して、磐井の乱の発端として述作されたと考える。
(大橋信弥「継体天皇」『ここまでわかった!日本書紀と古代天皇の謎』2014年)
要は、外交官としての近江毛野は実在したが、"6万の兵を率いる大将軍"なんてのは、日本書紀が「述作」した作り話だろうと、大橋さんはいうわけだ。
西暦531年のクーデター
ところで日本書紀によると、継体天皇の崩御年には在位25年(531年)と在位28年(534年)の二説があったものの、「百済本記」なる本に、25年に「天皇及び太子・皇子がそろってなくなった」と書いてあるので、25年の方を採用した——という顛末があったようだ。
だが、どうやら元々は28年が通説だった雰囲気で、日本書紀は継体天皇の崩御を3年「繰り上げる」操作をしたことを、自白しているともいえる。
すると同じように、日本書紀が明らかに3年繰り上げている史実がもう一つあって、それが正史『三国史記』の「新羅本紀」が532年のことと記す「南加羅の滅亡」。
これを日本書紀は、529年4月の出来事だと書いているのだ。
さてそうなると、朝鮮半島事情と密接にからんでいる近江毛野の行動も、やはり日本書紀は3年繰り上げる操作をしてるんじゃないかという疑惑は、とうぜん湧いてくる。
日本書紀が527年に勃発したという磐井の乱も、実は530年に始まったものを、近江毛野が絡んだため3年繰り上げて書いているんじゃないのか———と。
では、と日本書紀が3年繰り上げた操作を元に戻す形で年表を作り直してみれば、こうなる。
530年6月 磐井の乱、勃発
531年2月 継体天皇、崩御
531年11月 磐井の乱、鎮圧
532年3月 近江毛野、派遣
532年4月 南加羅、滅亡
というわけで大橋さんは、継体天皇は国内では磐井の乱、国外では加羅をめぐる争乱が続く中、反対勢力のクーデターによって退位させられたのではないか・・・という考えに至られたようだ。
「おおむね」同様の主張をされる先生には、三品彰英氏や山尾幸久氏がいらっしゃる。
いや、でも、日本書紀の3年繰り上げ操作を元に戻すとき、なぜ継体天皇の崩御年だけは3年繰り上げたまま残されるんだ?という反論もあるだろう。
そいつも同じように3年繰り下げれば534年の出来事になって、安閑天皇即位までの空位問題も解消するじゃないかと——。
しかし残念ながらそうもいかないのが、日本書紀が参照した「百済本記」にある、継体天皇・皇太子・皇子がなくなったという531年に、「高麗(高句麗)ではその王安(安蔵王)が殺された」という一文。
実は同じものが正史『三国史記』「高句麗本紀」にもあって、531年夏5月に「王が薨じた。号を安蔵王とした」。
「百済本記」は実物が失われた謎の本だが、正史と一致していては無視は出来ない・・・。
というわけで、継体天皇が531年に崩御したのは「史実」と見るしかない雰囲気はあるが、継体天皇と安蔵王が異常な死に方をしたように匂わせてるのは「百済本記」だけなので、果たしてそこまでを「史実」に含めていいものかは、一般人のぼくには良く分からない(この件はまた別の機会に)。
その文には、「太歳辛亥の3月に、百済の軍は進んで安羅(任那の一国)に至り、乞屯城を築いた。この月に、高麗(高句麗)ではその王安(安蔵王)が殺された。また聞くところによると、日本では天皇及び太子・皇子がそろってなくなったということである」とある。
(『日本書紀・下』中公文庫)
13年〔531〕夏5月に王が薨じた。号を安蔵王とした。(これは梁の中大通3年、魏の普泰元年であるが、梁書には、安蔵王は在位8年目、普通7年に亡くなったとなっている。これはあやまりである)。
(『三国史記・中』三一書房)
岩戸山古墳と4世紀の筑後(と出雲)
(岩戸山古墳 岩戸山歴史文化交流館)
上の写真は、筑紫国造「磐井」のお墓とされる「岩戸山古墳」。
6世紀前葉の築造としては、継体陵「今城塚古墳」(190m)、名古屋市「断夫山古墳」(150m)、群馬県「七輿山古墳」(140m)に続く第4位の規模で、墳丘長138mの前方後円墳だ。
考古学者の柳沢一男さんによれば、横穴式石室や横口式家形石棺、棺蓋の装飾図文など「九州中北部各地の墓制の要素を複合した形状を示す」とのことで、ヤマトでいえば、3世紀後半に誕生した史上初の前方後円墳「箸墓古墳」(278m)と同じような、広域の政治的統合のシンボル的な意味を持つ、盟主の古墳だったようだ。
ところが不思議なことに、北部九州でも「筑前」には、古墳時代前期(250〜400年)に「石塚山古墳」「那珂八幡古墳」「光正寺古墳」「端山古墳」「山ノ鼻1号墳」といった前方後円墳が造営されてきたのに対して、「筑後」には西暦400年を越える頃まで、全く「首長墓」が造られなかったのだという。
(出典『筑紫君磐井と「磐井の乱」岩戸山古墳』柳沢一男/2014年)
上の図で、<矢部川以南>というのは今の大牟田市・みやま市あたりで、どちらかというと肥後の歴史と連動している印象がある地域だが、とにかく久留米市や八女市には、5世紀に入るまで首長墓と見なせる古墳が全く造られなかったのは事実のようだ。
んじゃ、その「空白」の期間に、筑後に何が起こったかを日本書紀から探してみれば、まず第12代景行天皇の「親征」があった。
長浜浩明さんの計算だと西暦296〜299年頃にかけて、大分〜宮崎〜熊本を巡幸した景行天皇は、筑後では「御木(みけ)」から「八女県」「的邑(うきは)」を回っている。
肥前国風土記にも、景行天皇が筑後の「土蜘蛛」をセッセと退治して回っている記事が残されている。
同じく、肥前国風土記で活躍するのが「神功皇后」で、日本書紀だと仲哀9年(西暦354年頃)に「荷物田村(朝倉郡)」「御笠(御笠郡)」「山門県(山門郡)」の土蜘蛛を討伐している。
んで上のGoogleマップは、景行天皇の征討地を「緑」、神功皇后の征討地を「赤」でマークしたもので、つまりは西暦300年頃と350年頃の2回にわたって、筑後はヤマトの侵攻を受けたという話。
まぁそんな時期の筑後には、ヤマト式の前方後円墳を造る状況も、心境もなかったことだろう。
(出典『八雲立つ風土記の丘 常設展示図録』)
そんな筑後の事情を聞いて、思い出すのが「出雲」だ。
出雲、特に西部の「出雲郡」では、弥生時代後期に「四隅突出型墳丘墓」と呼ばれる大型の首長墓を代々つくってきたものが、崇神天皇60年(237年頃)に族長の「出雲振根(ふるね)」がヤマトの四道将軍に誅殺されると、以後パタリと王墓の造営を止めている。
上の図だと4世紀末の出雲郡に「大寺古墳」なる前方後円墳の名前がみえるが、これは地元の研究者のあいだでは「ヤマトが打ち込んだクサビ」と見られていて、中の人はヤマトから来た監察官か何かということらしい。
出雲にしても筑後にしても、ヤマトに制圧されてしばらくは、自由にリーダーのお墓を造ることさえ、憚られたということか。
物部麁鹿火の権益と磐井の乱
(石人山古墳 岩戸山歴史文化交流館)
こちらは、磐井の岩戸山古墳より100年ほど前の5世紀前半、筑後にようやく造られた100mオーバーの前方後円墳で「石人山古墳」。
5C前半というと、第17代履中天皇の5年(430年頃)に、ヤマトの代官に百姓を奪われたとして、筑紫の「三はしらの神」に皇妃・黒媛が「祟り殺される」という大事件が起きている。
466年頃にはあの雄略天皇が、新羅への「親征」を宗像神に中止させられる事件も起こっていて、九州人がドンドン実力を蓄えつつあることが、「神」の態度から窺える状況だ。
このGoogleマップは、『日本の神々 神社と聖地 1 九州』のなかで、北部九州で「物部系」の神社として挙げられた「剣神社」「八剣神社」「六ヶ嶽神社」「古物神社」「天照神社」「高倉神社」などを、赤でマークしてみたもの(緑は神武天皇の岡田宮)。
『日本の神々』では、物部系神社の集中する遠賀川流域こそが、大豪族・物部氏の「祖地」だと主張しているわけだが、森浩一さんも、磐井征討軍の総大将に「物部麁鹿火(あらかひ)」が選ばれたのは、物部氏が九州に「潜在的な権益」を持っていたからではないか、と『敗者の古代史』(2016年)に書かれている。
継体天皇は「長門から東は自分が統治しよう。筑紫から西はおまえが統治し、思いのままに賞罰を行え」と物部麁鹿火に全権委任しているわけで、森さんのお考えはたぶん正しいのだろう。
それで大橋信弥さんが言われるように、近江毛野の6万の大軍の件が日本書紀に「述作された」作り話なのだとすれば、「磐井の乱」とは物部氏がもつ九州の権益保護をきっかけに、皇軍が高度経済成長中の筑紫に「侵略戦争」を仕掛けただけ・・・という話になるんだろうか。
物部麁鹿火の戦後処理の素早さから見ても、ヤマトはそろそろ滅びそうな加羅なんてとっくに諦めていて、狙いは北部九州の併呑ただ一つ、で周到な計画を練っていたようにも思われる。
毛野の6万は作り話だとしても、実際に磐井に渡海を妨害された外交官でもいれば、絶好のトンキン湾事件だったのかも知れない。
《余談》邪馬台国東遷説の「地名類似説」
余談になるが、今回、筑紫の地図を眺めていて、ふいに思い出したのが、邪馬台国九州説の巨人・安本美典さんが提唱する「邪馬台国東遷説」の根拠となる、九州と大和での「地名類似説」。
上の図は、星野之宣氏のマンガ『ヤマタイカ』(1986〜1991)からの転載で、簡単にいうと、今の福岡県朝倉市あたりに存在した邪馬台国が、西暦300年前後に奈良盆地に「東遷」したので、奈良に朝倉市近辺の地名も移動してきた——だから両者には類似する地名が多いのだと、そういう説だ。
朝倉郡には「夜須(やす)」という地名もあって、そこには「夜須川」が流れていたが、この川は「安川」と表記されることもあって、古事記で高天原に流れるとされる「天安河」の語源である可能性もあるのだとか。
んで上の「地図5」は、安本さんの『邪馬台国は福岡県朝倉市にあった!!』(2019年)からの転載で「朝倉市付近の地名」。
下の方に「平塚川添遺跡」の名がみえるが、地元の研究者によれば、想定される遺跡面積は450haもの規模で、あの有名な吉野ヶ里遺跡の10倍を余裕で超えるのだとか。
(『邪馬台国論争の新視点』片岡宏二/2019年)
なるほど、西暦300年前後にそんな巨大な邪馬台国が東遷していってしまったのなら、その後100年、筑後に大きな首長墓が造られないのも無理はないか・・・などと思いながら、何気なく朝倉市の公式サイトを覗いたところ、そこにはこんなことが書いてあった。
西暦661 年、斉明天皇、中大兄皇子(後の天智天皇)は、朝鮮半島の百済からの要請に応じて出兵を決意し、現在の朝倉地区に「橘廣庭(たちばなのひろにわ)」と呼ばれる仮の都を設けました。
この折に斉明天皇が言った「朝(あさ)なお闇(くら)き」が「朝倉」という地名の由来と言われています。
(朝倉市公式サイト「移住・定住~朝倉市をご紹介~」)
うーむ・・・、当の朝倉市が市の歴史を徹底的に調べるのは当たり前だろうから、この地が「朝倉」になったのは、661年に「朝倉橘広庭宮」が造営されてからの話なんだろう。
それでもう一度日本書紀に戻ってみれば、神功皇后の笠が飛ばされた場所が「御笠」になり、賊を倒して安心したから「安」になったと書いてある。
神功皇后が兵を集めるため勧請した「大三輪社」は今、朝倉郡筑前町の式内社「大己貴神社(於保奈牟智神社)」に比定されているが、旧三輪町の由来は「大三輪社」から来てると考えることに、特に問題はないと思う。
(大己貴神社 筑前町公式サイト)
んでこうなると、神功皇后が筑紫に来たから「御笠」「安」「三輪」の地名になったのは明白で、少なくともこの3点に限っては、大和から筑紫へ、という不可逆的な流れが存在するように思われる。
神功皇后には、自分が筑紫につけた地名を、わざわざ大和に持ち帰る理由はないだろう。
んで肝心の「朝倉」は、7世紀後半の斉明天皇以来の地名か・・・。
むー。
朝倉とか三輪の一致って、地名類似説の核心部分のような気がするんだが、それが大和発の地名だというのでは、仮説全体が成立していないような印象があるなぁ。
それにもしも神武天皇の東遷が、邪馬台国の東遷が反映された神話だというのなら、どこにでも転がってる「山田」とか「高田」とか「池田」じゃなくて、「宇陀」とか「磐余」「天香山」なんて地名が九州にないと、ちょっと寂しいような気がしないでもない。
九州王朝説と磐井の乱の考古学につづく