寒川神社、大山阿夫利神社、比々多神社の縄文人

大山阿夫利神社と縄文人

大山阿夫利神社

神奈川県伊勢原市の「大山阿夫利(あふり)神社」。


大山阿夫利神社の公式サイトによると、江戸時代には「大山詣り」は大人気で、年間数十万の江戸庶民が大山に登りに来たという。

富士登山との「両詣り」も盛んだったともあり、江戸っ子のバイタリティには感心させられる。


だが、それよりも遙かな昔から大山を神聖視し、山頂で祭祀を行っていた人たちがいた。

縄文人だ。

大山の山頂からは、大昔に彼らが持ち込んだと思われる縄文土器が、多数出土しているんだそうだ。

寒川神社を中心とする神社の配置と遺跡

(出典『縄文文化が日本人の未来を拓く』)

縄文研究の第一人者、小林達雄教授によれば、神奈川県の縄文人にとって大山は特別な場所だったらしい。


それは、県内のある地点から見ると、大山は"夏至の日の入り"を示す目印だったからだ。

そして同じ地点から富士山を見れば、"春分・秋分の日の入り"が分かるのだという。


実はその地点、縄文人に暦を教えた大切な場所に、いまは「寒川神社」が鎮座している。

神奈川県では唯一の名神大社にして、相模国一の宮が建つ聖地は、そもそもは縄文人の聖地だったというわけだ。

寒川神社と縄文人

岡田遺跡

その縄文人たちが住んでいた場所は、寒川神社の東方、1982年から発掘が始められた「岡田遺跡」一帯だ。

知名度では劣るがその規模は、あの「三内丸山遺跡(青森市)」に匹敵する日本最大級のものらしい。


全体の住居の数は1000〜1500軒が推定されると、発掘跡地の公園に立てられた案内板には書いてあった。

また、この場所からは縄文だけでなく、弥生時代の住居や墓も発掘されているのだという。

大神塚

さらに寒川神社の近くでは、5世紀前半、古墳時代の前方後円墳も見つかっている。

初代「相武国造」のお墓と伝わる、全長51mの「大神塚」だ。


さてそうして見ると、寒川神社のまわりには縄文時代から大勢の人が住み続け、弥生時代、古墳時代と、その営みが途切れることなく続けられて来たことが分かる。


実は似たようなケースは県内に他にもあって、ぼくらが見てきたのは、伊勢原市に戻っての式内社「比々多(ひびた)神社」だ。

比々多神社の縄文人

比々多神社
縄文時代の環状列石

茅の輪をくぐってお参りを済ませ、本殿の裏手に回ると縄文時代の環状列石があった。


ただしこれは、近隣の東名高速の工事で出てきた遺跡を、神社の境内に移築したもの。

同じ遺跡からは、弥生時代や古墳時代の住居址も見つかっているそうだ。


そして比々多神社の200mほど北西には「埒免(らちめん)古墳」と呼ばれる西暦600年ごろの円墳がある。

こちらも相武国造のお墓だというので、はじめ寒川周辺に住んだ国造が、のちに比々多に引っ越したのだろうか。


いずれにしても、ここにも神社を中心に、縄文・弥生・古墳という時代区分を超えた日本人の営みが残されている。

日本人の成立

ところで日本人の成立にはザックリ3つの説があるようだ。


(1)縄文人が弥生人に変化していった「変形説」 

(2)縄文人を追い出して、渡来人に置き換わった「置換説」 

(3)縄文人と渡来人が混血した「混血説」


ぼくらが「少年」だった遠い昔には、このうち(2)の「置換説」が生きていた。


それは、現在の日本人は渡来系弥生人の子孫であり、縄文人の子孫である蝦夷や隼人とはルーツが異なり、両者は全く「別々の人種」で、文化的にも「完全な断絶」がある・・・というような説だ。


この説を採れば、今でも縄文系のDNAを色濃く持つ沖縄県民やアイヌ系の人こそ「先住民」で、本土に住むヤマトんちゅーは「侵略者」の末裔ということになる。


日本人を分断する危険をはらむ、政治性の高い説だとぼくには思える。


ただ、もちろん現在の主流は「変形」と「混血」のハイブリッドということで、縄文と弥生にはフツーに連続性・継続性があると考えられている。


江戸末期の着物にチョンマゲも、明治初期の洋服に七三分けも、見かけが少々変わっただけで、中味はどっちも日本人・・・ということだ。

骨からわかる日本人の起源

(『骨からわかる日本人の起源』片山一道・監修)

例えば、上の三つのうち一番左の骨は、しばしば渡来人の典型として持ち出される山口県の「土井ヶ浜遺跡」から出てきたもの。その特徴は「顔が長く、彫りが浅く、身長も高い」。


それじゃ中央と右の「顔が短く、低身長で、彫りが深い」骨は、縄文人のものだろうか。

いや、実はどっちも弥生人、3つとも弥生人の人骨だったりするのだ。


中央は鹿児島県の「広田弥生人」、右は佐賀県の「大友弥生人」の骨だそうだ。人を見かけで判断してはいけないんだね。


それに、大陸からの渡来人として扱われがちな「土井ヶ浜」の弥生人にしても、何故か中国式の土器は使わず九州北部の土器を愛用したり、装飾品に種子島より南でしか採れない貝を使ったりして、随分と「日本びいき」だったようだ。