梅原猛『葬られた王朝』
〜出雲と大和の戦い〜
居多神社のヌナカワヒメ
写真は2024年4月に参詣した新潟県上越市の式内社で「居多(こた)神社」。
こちら昔は「コタ」ではなく「ケタ神社」と呼んだそうで、『出雲を原郷とする人々』(岡本雅享/2016年)によると、当地は出雲の「気多島」にはじまり、因幡の「気多崎」、但馬の「気多郡」、加賀・能登・越中の「気多神社」と続く「気多信仰」の到達点なんだそうだ。
気多信仰ってのは、要は祭神であるオオクニヌシへの信仰のことで、その昔オオクニヌシを奉じて行われた出雲族の東遷が、地名や社名として今に残されているということらしい。
(ちょっと殺風景な境内)
折口信夫によれば、ケタとは「水の上に渡した橋」のことで、神は海からケタを「足溜まり」として上陸したのだという。
・・・とかいう割りには近くに海がないなーと思ったところ、居多神社の旧社地は1866年に海岸浸食で崩壊したとのことで、海辺はもう懲り懲りといった感じなんだろうか。
越後国の神社というと、唯一の名神大社である西蒲原郡の「彌彦(やひこ)神社」が有名だが、上越市には越後国府があったおかげか、居多神社も861年に彌彦神社と仲良く従四位下を賜ったんだそうだ。
(上越市の「春日山神社」)
ところで新潟県の上越地方は、古事記のオオクニヌシに「妻問い」された「高志(越)」の「沼河比売(ヌナカワヒメ)」の信仰圏で、居多神社でも両神の御子神・タケミナカタと併せてヒメを祀っている(なぜかコトシロヌシも祀られている)。
このヌナカワヒメを、かつて出雲までを支配した越の「ヒスイ王国」の女王だ!というのが、哲学者の梅原猛さんだ。
梅原さんと言えば「法隆寺は聖徳太子の怨霊を鎮魂するための寺」だと論じた『隠された十字架』(1972年)や「柿本人麻呂は流罪になって刑死した」という『水底の歌』(1973年)が有名だが、「出雲神話なるものは大和に伝わった神話を出雲に仮託したものである」という衝撃の逆説が展開された『神々の流竄』(1981年)という本もある。
ただ残念ながら、梅原さんの「出雲神話は全くのフィクション」とする見解は、1983年の荒神谷(銅剣358本)、1996年の加茂岩倉(銅鐸39口)の相次ぐ発見によって、根拠のない空想になってしまったのだった。
(荒神谷遺跡と加茂岩倉遺跡)
だが梅原さんが真に偉大なのは、その後の言動だった。間違いを認めて自説を惜しげもなく全面撤回すると、あらためて出雲の古社や史跡を訪問し、新たな梅原出雲観を構築されたのだ。これは凡人には容易にできることではない。
そうしてまとめられたのが、2010年に発行された『葬られた王朝 出雲神話の謎を解く』。
帯には"かつてスサノオやオオクニヌシらの「出雲王朝」がこの国を支配していた——"とある。
2010年というと、ぼくはまだ古代史には何の興味もない頃で、当時この本にどんな反響があったのか全く知らないんだが、2024年を生きている一匹の古代史好きから見ると、少々気になる点もあった。
読書感想文ということで、年代順にいくつか挙げておきたい。
オオクニヌシは大和に遠征したのか
(居多神社の大国主神と沼河比売)
『神々の流竄』を「津田左右吉の説と変わりない」と反省された梅原さんは、一転して日本神話に肯定的な立場をとる。
まず、古事記に出てくるヤマタノオロチとは、古代出雲を支配していたヒスイ王国「越」のメタファーで、そこに朝鮮半島からスサノオが渡来して越を倒し、出雲を解放した——と梅原さんはいわれる。
神話の背景に、実際に起こった歴史的事実の反映を見るというのが、新しい梅原さんの立場ということだ。
やがてスサノオの6代後にオオクニヌシという傑物が現れると、出雲はその勢力を北に広げ、ついには女王・ヌナカワヒメが治めるヒスイ王国「越」を占領するまでに成長した———と、ここまでは梅原さん個人の歴史観ということで、他人が否定したりできるもんじゃない。
問題はこの後だ。
梅原さんによれば、出雲に戻ったオオクニヌシは、正妻スセリヒメの制止を歌でゴマかして大和に攻め込むと、見事に大勝利を収めた・・というんだが、古事記にはそのような記述はないし、上代日本文学の専門家もそういう読み方はしていない。
・・・残念ながら、梅原さんの誤読だろう。
片手を鞍にかけ、片足を鐙に入れて、まさに旅立ちの時に、オホクニヌシがスセリビメに歌いかけたという。
三度の着替えをし、入念に身支度を整えて、いざ出発という段になって、取り残される妻の涙を想像した内容である。
この後、 スセリビメは、杯を捧げ、官能的な歌をうたって、夫を引きとめ、夫はついに正妻のもとに鎮まることを決意する。
(中略)
話をオホクニヌシに戻そう。
スセリビメの嫉妬によって、オホクニヌシは倭には「上る」ことができなかった。
スサノヲの子孫であるオホクニヌシに倭だけは支配させないことが、この段の趣旨であったと思うのである。
こうして、確かにオホクニヌシだが、完全ではないオホクニヌシが誕生したということである。
(『神話で読みとく古代日本』松本直樹/2016年)
梅原さんは、オオクニヌシが大和を占領した根拠として、大和に出雲の地名があること、大和にオオクニヌシ一家を祀る古社があること、を挙げているが、反論は可能だ。
まず地名の件だが、日本各地の「出雲」を歴訪した『出雲を原郷とする人々』によれば、大和の「出雲」は、
1)垂仁天皇に仕えた「野見宿禰」の時代
2)纒向遺跡に山陰の土器が増えた西暦250〜300年頃
3)出雲国造が一族を引き連れて「神賀詞(かんよごと)」奏上のため上洛した8世紀前半
・・・のいずれかの期間に、大和に移住してきた出雲族が住んだ土地だろうと、現在その場所に住んでいる人々が考えていることが報じられている。
ならばそれ以外の説は、特に根拠のない空想ってことになるだろう。
(事代主神を祀る名神大社「鴨都波神社」)
つづいて、梅原さんが「出雲系の神」というコトシロヌシやアジスキタカヒコネを祀る古社について。
コトシロヌシは『出雲国風土記』には全く登場せず、その中で「美保の神」として紹介されるのはコトシロヌシではなく「ミホススミ」という神である点などから、そもそもが出雲の神ではなく、大和・葛城で土着氏族の「鴨氏」が祀ってきた神だというのは「古代史研究家の間ではすでに定説」だと『日本の神々 3』などに書かれている。
アジスキタカヒコネは『出雲国風土記』には登場するものの、出雲で代々祀ってきたという大きな神社は見当たらず、これまた大和の名神大社「高鴨神社」が総本社だとされている。
大和におけるコトシロヌシの本社を「河俣神社」とするあたり、梅原さんは『出雲国造神賀詞』を念頭に議論を進められていると窺えるが、「神賀詞」は8世紀になってから出雲国造が言い出した「祝詞(のりと)」であって、記紀神話や風土記と同列に扱うのは問題があるんじゃないかと、ぼくは思う。
【関連記事】美保神社のコトシロヌシは出雲の神か
出雲「銅鐸」王国の滅亡
(阿遅志貴高日子根神を祀る名神大社「高鴨神社」)
梅原さんによると、大和を占領したオオクニヌシの版図は、山陽から四国にまで拡がっていたという。
その根拠は、播磨国や伊予国、土佐国の『風土記』にオオクニヌシが登場するからのようだ(尾張や伊豆にも出てくるんだが…)。
しかし、その『播磨国風土記』に出てくる御子神「ホアカリ」の記事から窺えるように、オオクニヌシは後継者の不在に苦しみ、さらには朝鮮半島から渡来した「アメノヒボコ(天日槍)」との戦いに明け暮れ、弱り切ったところに物部氏の祖先「フツヌシ(経津主神)」がやってきて「国譲り」を迫ってきたのだという。
それは紀元1世紀のことで、フツヌシに屈したオオクニヌシは殺害され、ここに「出雲王朝」は滅亡した。
丁度同じころ、「南九州に本拠地をもつアマテラスを祖とする天孫族」がにわかに東征を開始して、「大和に盤踞していた物部氏の祖、ニギハヤヒとナガスネヒコの連合軍を滅ぼして、日本国の大王となった」。
梅原さんによれば、荒神谷の358本の銅剣と加茂岩倉の39個の銅鐸は、このとき地下で眠るオオクニヌシへの贈り物として、残された出雲族が埋納したものなのだという。
こうして出雲王朝の銅鐸文化も滅び、最高宝器の座は天孫族の「鏡」に取って代わられたのだった——と梅原さんは続けるわけだが、その説明にはチト無理があるというのが、下の「図26 庄内式並行期の鏡出土地」。
(出典『卑弥呼の鏡が解き明かす 邪馬台国とヤマト王権』藤田憲司)
梅原さんの説だと、「天孫族」が鏡を宝器にしたのは紀元1世紀のことになるが、上の図26はそれより150年ほど後の3世紀中葉、卑弥呼が邪馬台国の女王だった時代の銅鏡の分布。
見てのとおり、福岡と佐賀がもう圧倒的な出土数で、大和などは片手で数えられる程度のお粗末さ。
梅原さんが1世紀という神武東遷のころ、果たして大和に一枚でも鏡があったものか、定かではない。
また、梅原さんは銅鐸は出雲で生まれて広まったといわれるが、それもチト厳しいかと思われるのが下の「図39 銅鐸鋳型の出土遺跡の分布」。
(出典『古代出雲の原像をさぐる 加茂岩倉遺跡』田中義昭)
加茂岩倉遺跡の発掘を担当された考古学者、田中義昭さんによれば、弥生中期にはじまった九州や畿内との交流のなかで、出雲にも銅鐸などの青銅器が持ちこまれ、その後、鋳造技術をもつ工人や原材料の流入があって、ようやく出雲産の青銅器が誕生したのだという。
加茂岩倉だと、39口の銅鐸のうち、3個が出雲製なんだそうだ。
巨大化する四隅突出型墳丘墓
(「出雲弥生の森博物館」展示のジオラマ)
さて紀元一世紀のオオクニヌシの死をもって滅んだという「出雲王朝」だが、その後も「細々ながら続いた」と梅原さんが言われる理由が、上の写真、出雲オリジナルの弥生墳丘墓「四隅突出型墳丘墓」の存在だ。
ちょうどオオクニヌシが殺されたという紀元1世紀の終わり頃にその萌芽が現れて、それから3世紀前半まで続く出雲の墓制だが、実際には「細々」なんてレベルじゃないと分かるのが、下の「図57 出雲の弥生墳丘墓の変遷」。
(出典『出雲王と四隅突出型墳丘墓 西谷墳墓群』渡辺貞幸)
出雲の「四隅」は、いわゆる「倭国大乱」の西暦180年ごろには一辺30mを超え、最終型で3世紀前半に築造された「西谷9号墓」に至って、42x35mにまで巨大化した。
「四隅」は出雲東部の安来から、伯耆、越前、越中にまで拡がり、この時代の出雲に「王」とみなせる大首長が存在したことに異議を唱える考古学者はいないだろう。
それが、梅原さんがオオクニヌシが死んだという1世紀より100〜150年あとの出雲のリアルだ。
ところが不思議なことに、その全盛期ともいえる9号墓の築造を最後に、出雲では突如として「四隅」の文化が終焉してしまった。そしてその後、4世紀の後葉になるまで、出雲平野には大きなお墓は作られていない。
梅原さんは著書の中で、「四隅」とはオオクニヌシが幽冥界に隠居する代わりに要求した大宮殿だったのではないか、と鋭い考察をなさっているが、ならば出雲最大で最後となった9号墓こそが、山陰の王者・オオクニヌシの偉大なる王墓ということにはならないか。
ただしそれは、オオクニヌシの生きた年代を1世紀から3世紀にまで繰り下げる必要がある。
当然、それは神武東征よりあとの時代になるので、オオクニヌシによる大和の占領は不可能になる。
出雲大社の創建
以上が、ぼくが梅原さんの『葬られた王朝』を読んでの感想文だ。
考古学は、古代出雲の勢力が最大化されたのは3世紀前半だというんだから、素直に考えればオオクニヌシは3世紀前半を生き、ヤマトに殺されて出雲最大の弥生墳丘墓(大宮殿?)に葬られた・・・となると思うんだが、梅原さんほどの頭脳をしても、否定したはずの旧作『神々の流竄』のワクの中に思考を閉じこめちゃったのかなーという印象がある。
最後になるが、梅原さんによれば出雲大社とは、前代の王朝の主、スサノオとオオクニヌシの「怨霊」を鎮魂することを目的として、藤原不比等の計画に基づいて霊亀二年(716年)に創建された神殿だという。
どこかで聞いたことがあるような話だが、それはさておき、怨霊鎮魂という話を聞く度にぼくが思うのは、梅原さんがオオクニヌシが死んだという1世紀から8世紀までの間、その怨霊は誰がどこで鎮魂してたのか、という疑問だ。
それとも8世紀に入ってから、600年の眠りから覚めたオオクニヌシの怨霊が藤原京に現れて、人々に祟ってまわった———というような記録でもあるんだろうか。