古事記はどう読まれたのか
(藤原通雅の秘本)
古事記とアメノウズメ
アメノウズメの「神裔」を称する古代貴族に「猿女(さるめ)君」という一族がいる。
記紀によると「猿女君」とは、皇孫ニニギが天孫降臨の際に、サルタヒコにちなんでアメノウズメに与えた「姓氏」だという。
その猿女君の同族に、「古事記」編纂のコア人物、「稗田阿礼」がいる。
『サルタヒコ考』(飯田道夫/1998)という本によると、古事記の中でアメノウズメとサルタヒコが持ち上げられているのは、稗田阿礼が、猿女君の同族である「稗田氏」を売り出そうとしたため・・・という説があるそうだ。
だが、もしもその説が本当なら、古事記には個人的な宣伝活動が含まれていることになる。
そんな古事記とは、そもそもどういう本なのか。
誰が古事記を読んだのか
宗教学者の斎藤英喜さんの本、『古事記・不思議な1300年史』(2012年)は帯に「誰が古事記を読んだのか。」とあるように、その「読まれ方」から古事記の実体に迫った本だ。
一応、古事記の成立の経緯を書いておくと、7世紀後半に天武天皇が自ら選んだ歴史と神話を稗田阿礼に「記憶」させたものを、30年ぐらい経ってから思い出させて文書化した、ということらしい。
天武天皇と周囲の人間で始めた「プライベートな性格が強い書物」だと斎藤さんはいう。
一方、同じ頃に編纂された「日本書紀」は、朝廷の官人たちでまとめた公的な歴史書で、正史の第一号として、続く『続日本紀』にも記録がある由緒正しい本だ。
執筆には、漢文ネイティブの中国人も参加していて、客観性はそれなりにあるようだ。
(『 日本書紀の謎を解く』森博達)
藤原氏の秘本「古事記」
じゃあそんな両者は、どんな「読まれ方」をされたのか。
奈良〜平安時代の古事記は、主に貴族が日本書紀を勉強する「日本紀講」の場での、サブテキストとして利用されたそうだ。
日本書紀の「漢文」の読み方や意味に困ったとき、ヤマトの古い言葉 =「古語」「倭語」で書かれた古事記を参照して、例えば日本書紀の「陰上」は、古事記で「美蕃登」と書いてあるので、なるほど「ホト」と読むのかー、意味はー、といった具合らしい。
でも所詮は副読本なので、平安初期の写本が残る日本書紀に対し、古事記は南北朝のものが最古だそうで、その間500年!
しかも鎌倉時代には、古事記の「中巻」は藤原氏の近衛家にしか残ってないと言われる惨状で、もう完全なる「秘本」状態。
それがある時、藤原通雅という人が「不慮」に入手したという事件(?)があって、どうにか三巻揃って読めるようになったのだという。
「中巻」には、神武天皇から応神天皇までが収録されているが、それがオリジナルと同じものかどうかは、当時の藤原氏にしか分からないというわけだ。
そんな「秘本」が世に復権したのは、江戸時代に本居宣長が『古事記伝』でやたら持ち上げてから。
それで勢いづいた古事記は、明治時代には国家神道の「聖典」にまで昇格。
敗戦後はアンチ皇国史観の先生方に叩かれながらも命脈を保ち、今では日本書紀と同格の歴史書に・・・、いや人気だけなら圧勝だ。
古事記と伊勢神宮
皇大神宮の別宮、「倭姫宮(やまとひめのみや)」。
大正12年の創建ということで、伊勢神宮の勢いは衰えを知らない。
でももしも、古事記しか読んだことのない人が伊勢に来たら、なぜ皇女の中で倭姫だけが特別扱いされてるのか、不思議に思うかも知れない。
日本書紀に書いてあるアマテラスの伊勢遷座のエピソードは、古事記には全く見あたらないからだ。
元々はアマテラスが第10代崇神天皇の皇居で祀られていたことも、まだ6才の幼女だった倭姫がアマテラスの鏡を抱いて(?)、近江や美濃をさまよったことも、古事記には書いてない。
でもなんで、古事記はそんな隠蔽まがいのことをしたんだろう。
ぼくにはひとつ、思い当たることがある。
古事記にもあるように、崇神天皇の御代に「疫病」が大流行して、民衆がバタバタと死んでいった。天皇は昼も夜も「神」に祈るが、まるで効き目がない。
その効き目のない神が、他でもない、皇居におわすアマテラスだったというわけ。
偉大なる皇祖神、皇室の守護神のはずのアマテラスは、天皇の必死の祈りに無力だった・・・これは正直、隠したいことなんじゃないか。
だが崇神天皇が皇居で祈ったとき、アマテラスがすでに伊勢に鎮座していたとしたら、皇祖神の権威が傷つけられることはない・・・。
ま、それは下司な邪推だとしても、例えば、高千穂峰に降臨した天孫ニニギがながめた風景を、日本書紀は「空国」(荒れてやせた土地)と書くのに、古事記は「韓国」と書く。
この違いは何なのか。なぜそうまで異なるのか。
それらは、別々の意図をもって書かれた本だという認識は、もはや話の前提なんだとぼくには思える。
「古事記と日本書紀は、誰が書いて誰が読んだのか」につづく