出雲大社は怨霊を封印した神社ではない

(しめ縄・四拍手・神座)

出雲大社は「死の宮殿」か

出雲大社神楽殿の大しめ縄

写真は2019年秋に見物した、出雲大社・神楽殿の大しめ縄。

とにかくこれが見たかったと言っても過言でないわけだが、ホントに期待以上のバカでかさで感動した。

んで、デカいからこそ一見で分かるように、ここのしめ縄は向かって左端が太く、向かって右端が細い。


何でもこの張り方は一般の神社とは逆になるようで、ぼくらの若き日の愛読書『逆説の日本史』(井沢元彦/小学館)ではこの点を根拠の一つとして、オオクニヌシ=怨霊説が展開されていた。

いわく、「死者の着物を左前にするのと同じことである」ゆえに、出雲大社とは「霊魂の牢獄」としてオオクニヌシを封印する「死の宮殿」であると。


で、今さら感は大いにあるんだが「死の宮殿」はホントなのか、その検証を少々・・・。

伊勢神宮の四拍手

伊勢参りと熊野詣で

神道学者の茂木貞純さんの本に、面白いことが書いてあった。

現在の「伊勢神宮」の参拝方法は、明治以降に定められた「二拝二拍手一拝」だが、かつては「膝をついて頭を下げながら四回拍手」をしたそうだ。(『伊勢参りと熊野詣で』) 


たしか「四」は「死」につながるので、祭神アマテラスに死んでいることを伝え・・・って、え?

(※伊勢神宮の)参拝方法は、明治以降に定められた「二拝二拍手一拝」が原則。二度の礼、二回の拍手、一礼をしてお祈りする。

かつては、膝を突いて頭を下げながら四回拍手をしたという。祭事での神職は「八度拝」といって、立ったり座ったりを八回繰り返して八拍手をする。

(『伊勢参りと熊野詣で』2013年)

伊勢神宮のアマテラスに「四拍手」では、出雲大社の「四拍手」にも「死」の意味はないことになる。

ただ、参拝のスピードアップのために他が二拍手になったあとも、出雲では四拍手を続けたというだけの話なんだろう。


【関連記事】越後国一の宮・弥彦神社の四拍手

出雲市「鹿島神社」の注連縄

鹿島神社

オオクニヌシにとっては宿敵のはずの、国譲りを迫ったタケミカヅチを祀る神社が出雲にもあった。

出雲市武志町の「鹿島神社」だ。


ところがご覧のとおりで、高天原およびヤマトにとって最大級の功臣タケミカヅチが、ここ出雲の鹿島神社では「死の宮殿」のオオクニヌシと同じように祀られている。

しめ縄の「左本右末」、すなわち井沢説でいうところの、怨霊の封印だ。

松江市「熊野大社」の注連縄

熊野大社

出雲国造家がオオクニヌシを祀るようになる以前から、もともと奉斎していた「クシミケヌ神」を祀る、松江市の「熊野大社」。

古代においては出雲国一の宮として、杵築大社(今の出雲大社)より上位の扱いを受けていたそうだが、こちらの注連縄も「左本右末」だ。

ちなみにクシミケヌはスサノオの別名だとされるので、アマテラスの弟の「天つ神」ということになる。

松江市「揖屋神社」の神座の向き

揖屋神社

『逆説の日本史』ではオオクニヌシ=怨霊説の根拠として、神座が拝殿に対して横向きに鎮座していて、正面から「拝ませない」ことが挙げられていた。


しかしよく知られるように、オオクニヌシを恫喝して国を奪ったタケミカヅチは、鎮座する常陸国一の宮「鹿島神宮」の中で、参拝者に横顔を見せている(有名神社の社殿や神座の向きについて)。


松江市でイザナミを祀る「揖屋(いやじんじゃ)神社」も同様で、本殿の裏をぐるっと回ると、「御神座はこちら向きに御鎮座されています」という案内板がある。

社殿は西向きだが、神座は南向きだ。

松江市「神魂神社」の神座の向き

神魂神社の神座

室町時代に造営されたという、現存する最古の「大社造り」を誇る松江市の「神魂(かもす)神社」。

かつては、出雲国造家の本拠地にたつ「邸内社」で、冬期には国造はここから熊野神を遙拝したんだそうだ。


でまぁ、神魂神社もやはり、拝殿からは神座を横向きにしか拝むことができない。 

それはもう、OKとしよう(笑)。


問題は、出雲大社とは反対に、神座が拝殿から見て左にあって右方向を見ているスタイルには、「女造(めづくり)」という名称が与えられていることだ。


案内書きには、祭神が男性の場合は出雲大社のように左向きの「男造」、イザナミ等の女性の場合は右向きの 「女造」だと明確に説明されていて、怨霊だから拝ませないっ!とか、ここで言ったら顔から火が出るほどの恥ずかしさではないか?

江戸時代の出雲大社

古代出雲大社の祭儀と神殿

最後に、本殿内部でオオクニヌシが高天原の神々に「監視」されている、という件。

『古代出雲大社の祭儀と神殿』(学生社/2005年)という本に、江戸時代の出雲大社本殿の中の様子を描いた絵図があったので、転載してみる。

出雲大社本殿内および座配の図(近世)

こちらは「図9」として紹介された「本殿内および座配の図(近世)」で出雲大社教の提供だ。


本殿内部は逆コの字型なので、ちょうど見えないところに神座があるわけだが、よく見れば奥にデーンと座っている出雲国造は、神座を向いていない。

居並ぶ神職も、神座ではなく国造に仕えているようにしか見えない。


たしか本殿にはオオクニヌシを「監視」する高天原の5神がいたはずだが、この絵だと国造はその神々に尻を向けていることになる。

江戸時代前期の御供(出雲大社)

次は「図10 江戸時代前期の御供」という図。


図の右側「南」と書いてある方が入口になる。

逆コの字にぐるっと見ていくと、何と国造は神座(御内殿)に尻を向けて座っている。

また、うわさの高天原の5神は描かれていない。


江戸時代に、国造こそが神といわんばかりの状況になってるのは不思議な話ではないと思う。

理論上、出雲国造はアマテラスの次男、アメノホヒ(天穂日命)の「化身」ということになっているわけで、つまりは皇室に継ぐ家柄だ。

国つ神のオオクニヌシより偉いんだから、現人神として生きながら祀られても当然だろう。

ということでいろいろ紹介してみたが、ぼくらが『逆説の日本史』を"昔の愛読書"と呼ぶ理由だけは、分かっていただけたんじゃないかと思う。


有名神社の社殿や神座の向きについて」につづく