田中英道『聖徳太子は暗殺された ユダヤ系蘇我氏の挫折』
〜芝山古墳群のユダヤ人埴輪〜
芝山古墳群(姫塚)のユダヤ人埴輪
聖徳太子関連の読書感想文シリーズ、その第2回は東北大学名誉教授・田中英道先生の『聖徳太子は暗殺された ユダヤ系蘇我氏の挫折』(2023年)だ。
フランス、イタリア美術史研究の第一人者だという田中先生によれば、聖徳太子が活躍した頃までの日本には多くのユダヤ人たちが流れ着いて、様々な活動を行っていたのだという。
代表的なユダヤ人には、応神天皇の時代に帰化した「秦氏」や、その秦氏の一族である「武内宿禰」、その武内宿禰を祖とする「葛城氏」、さらには葛城氏を継承した「蘇我氏」などがいて、最後の蘇我氏に至っては、聖徳太子をキリストに仕立てた上で天皇に即位させ、日本をキリスト教国に変えようとしたのだというから、驚きだ(釈迦はキリストの代替品だとか、orz)。
田中先生によれば、それらの根拠となるのが、古墳時代後期の古墳から出土している「ユダヤ人埴輪」だそうで、ネットで拾ってきた上の写真などを見れば、なるほど「ユダヤ人」によく似た埴輪が出土してるのは、事実らしい。
しかもその実物は、アクアラインを渡った向こう側、千葉県にあると聞けば行かない理由がない。
かくして秋晴れの2024年11月某日、ぼくらは千葉県芝山町の「はにわ博物館」へと出かけてきたのだった。
さて、ひとしきり館内を見学してまわったぼくらは、いったん「芝山はにわ道」に戻って「はにわラーメン」など食したあと、つづいては実際に「ユダヤ人埴輪」が出土した現場である「芝山古墳群」を見学した。
クルマを停めて一歩出ると、目の前になかなか立派な前方後円墳が現れる。
おーこれかーと案内板を見に行くと、むむ?どうやら目の前の88mは「殿塚」でお目当ての古墳ではなく、その横の58.5mのちっこい「姫塚」から「ユダヤ人埴輪」は出土したと書いてあるぞ。
(姫塚古墳)
つまり当地には6世紀後半、88mと58.5mの2つの前方後円墳が並んで造営されたが、「ユダヤ人埴輪」が出土したのは前方後円墳としては「小型」の部類に入る「姫塚」だけで、大きい方の「殿塚」からは「ユダヤ人埴輪」は出てこなかったというわけか。
はにわ博物館でいただいたパンフレット(『殿塚・姫塚の埴輪群像』2023年)から資料を貼ってみれば、こう。
(殿塚・姫塚古墳の測量図と地中レーダー探査の成果)
(殿塚・姫塚の出土埴輪)
問題は他にもあって、田中先生が「ユダヤ人埴輪」だと言われる「山高帽子+みずら(美豆良)+長いヒゲ」という装いの埴輪は、古墳時代後期の千葉と茨城からしか出土していない点。
そうなると確かなことは、6C後半の千葉・茨城にユダヤ人っぽいルックスの人たちがいた———ということ「だけ」になってしまい、しかもその人たちのリーダーは、殿塚に埋葬された首長(武社国造?)より「格下」だった・・・ということになるわけか。
(今城塚古墳の人物埴輪 写真AC)
なんだか急に話のスケールが小さくなってしまい、困ったぼくらはクルマに戻って田中先生の本をパラパラめくってみたわけだが、どうも話の途中から「ユダヤ人埴輪」は、はにわ博物館の「山高帽子+みずら(美豆良)+長いヒゲ」には限らず、とりあえず古代人の髪型である「みずら」さえしていればユダヤ人とみなす、ということになっていったようだ。
なので、上の継体天皇陵「今城塚古墳」に立てられた「武人」や「鳥飼」の人物埴輪も、ユダヤ人?
(出典『群馬県立歴史博物館常設展示図録』2017年)
「みずら」をしてればユダヤ人ということになると、群馬県で出土した真ん中分けの「振分け髪の男子」埴輪なども、ユダヤ人ということになるが、帽子もヒゲもなしだと「ユダヤ人」といわれて首肯できる人は少ないかも。
ちなみに日本書紀で「みずら」を結った描写があるのは、戦いに際して男装したときのアマテラスと神功皇后になるが、このお二人もユダヤ人になるのか?(最初から、みずらだったのはスサノオ)。
田中先生によれば、蘇我氏の「飛鳥大仏」(向かって右)も「面長で、ほかの釈迦像の平たい面様と異なる彫りの深い異人」のような顔つきであることから「ユダヤ人?」とのこと。
でもぼくには(同じ飛鳥時代に作られた)向かって左の「釈迦三尊像中尊」も同じような「彫り」があるように見えるんだが、こちらは聖徳太子ご本人がモデルだそうなので、やはり太子もユダヤ人なんだろうか。
それと、田中先生によれば「唐本御影(とうほんみえい)」に描かれた少年時代の「山背大兄皇子」も、「明らかに丸い美豆良をつけており、この二人の皇子像はユダヤ人の風俗」をしているとのことで、「ユダヤ人の髪型を知った蘇我系の画師」が書いたものと判断していいそうだ。
(秦河勝が建立した「広隆寺」 写真AC)
といったかんじで、田中先生が「ユダヤ人」を表しているといわれる諸々をあげてみたが、全ての始まりは千葉県の58.5mの小型古墳から出土した14体の「ユダヤ人埴輪」にあって、秦氏・葛城氏・蘇我氏がユダヤ人である根拠もそこにあれば、蘇我氏が邪魔になった聖徳太子を暗殺したという根拠もそこにある(てか他の根拠は示されていない)。
ただ、一匹のニワカ古代史ファンのぼくでも多少の疑問は湧いてくるわけで、例えば蘇我氏は稲目が欽明天皇にふたりの娘を入内させることで栄光の架橋を渡ったわけだが、その娘たちが産んだ用明天皇・崇峻天皇・推古天皇はやはり「ユダヤ系」になるのか…とか。
「偶像崇拝」を絶対禁止にするユダヤ社会の中で、仏像を拝み、寺院まで立てた蘇我馬子や秦河勝の立場は大丈夫なのか…とか。
秦氏の氏神「稲荷」「八幡」「松尾」は「現世利益」の傾向が強い神々だが、それはユダヤ的にはOKなん?…とか。
(はにわラーメン)
そういえば、ラーメンが出てくるまで「ユダヤ人埴輪」についてググっていたら、ユダヤ教の唯一絶対神ヤハウェは世界の全てに臨在する神なので、日本の八百万神と似ている、云々・・・なんて記事を目にしたが、さすがにそれは「こじつけ」だろう。
日本では皇祖神アマテラスでさえ、八百万の一神にすぎず、全宇宙に一人しかない絶対神ヤハウェとは、そもそもの立ち位置からして異なる。
日本神話に「造物主」はいない。
「田中史学」のご紹介
ここで折角なので、田中先生の歴史観「田中史学」をご紹介したい(長くなるが、写真を貼るのが面倒くさいので文字だけで)。
まず「秦氏」だが、「秦の始皇帝を始祖とするユダヤ系の人々」で「三世紀まで(ママ)やって来た中国経由のユダヤ人たち」なんだそうだ。
彼らは、『三国志』魏志韓伝の「秦の代に労役を避けて韓国に逃げて」きた「辰韓(秦韓)」と呼ばれる人々———ともあるが、秦の代というとBC222−206なので、キリストが生まれる200年前、ユダヤ人が国を失ってディアスポラになるAD132より300年以上昔から、「ユダヤ系」が朝鮮半島にいたという話になる。
BC210に日本列島に渡ってきた可能性のある「徐福」の子孫の秦氏から、羽田氏、土師氏、葛城氏などにつながった人たちもいたのだという。
田中先生によれば、日本建国にかかわり、(箸墓?)古墳の造営に技術・財政・経済を提供した秦氏がいるそうなので、それが徐福の子孫の秦氏なんだろうか。
日本書紀には、応神天皇の時代に(のちに秦氏と呼ばれる)「弓月君」の一団が来日し、帰化したという記録があるが、「ゆずき=ゆず=ユダの名前が示唆するように」ユダヤ系だという。
そもそも応神天皇は、秦氏が宇佐八幡宮で祀るように「秦氏が奉る大王」で、応神天皇の父は秦氏(羽田氏)とつながりのある「武内宿禰」。
すなわち「大和朝廷の系統が仲哀天皇で途切れ、秦氏系に入れ替わった印象がある」とのことで、保守派の論客で知られる田中先生が「王朝交替説」の論者だと知って、結構びっくり。
武内宿禰は「新羅から来た氏族で、それ以前は西方から来たユダヤ人」だったそうで、「宿禰」とは「ユダヤの祖先の位牌と共に旅の宿を日本でとる人」という意味を表していて、「彼らの日本での存在の仕方をよく伝えて」いるのだという。
※ちなみに日本書紀には、武内宿禰以前の人物として、安寧朝の「大間宿禰」、崇神朝の「大海宿禰」「大水口宿禰(物部氏)」、垂仁朝の「野見宿禰(出雲氏)」「長尾市宿禰(倭氏)」などの名が見えるが、この人たちもユダヤ系なんだろうか。
武内宿禰の「役割」を引き継いだのが「葛城氏」で、それをさらに「蘇我氏」が引き継ぐが、彼らは「いずれもユダヤ系」の人々だそうだ。
それで田中先生によれば、5世紀の皇室が身内で殺し合ったのは、その「ユダヤ系の人々」が「天皇の血族に入っていったことが原因」なんだそうだ。
※仁徳天皇の皇后「葛城磐之媛(いわのひめ)」に始まる「ユダヤの血」は、継体天皇の皇后「手白香皇女」を通じて現在の皇室までつながることになるが、あえて葛城(ユダヤ?)の血が50%の天皇をあげるなら、履中・反正・允恭・清寧・顕宗・仁賢の6帝。
乱暴者で知られる雄略・武烈の二帝の母が皇族で、葛城(ユダヤ?)の血が薄いのは不思議なところだ。
蘇我氏は『新撰姓氏録』では(第8代孝元天皇を祖とする)「皇別」に分類されるが、秦氏のように外来系の「諸蕃」でないのは「この氏族が第10代崇神天皇以後に、日本にやってきた朝鮮経由のユダヤ人系」であることを示唆しているそうなんだが、それだとモロに「諸蕃」のような気がするわけで、ここの説明はよくわからない。
4世紀後半、神功皇后の「三韓征伐」に参加した多くの氏族の中に「蘇我氏の祖先たち」がいたそうで、彼らはAD132にローマによって追放されたユダヤ人で、AD431に異端として排斥されペルシャに亡命した「ネストリウス派」のキリスト教徒で、(※ネストリウス派は7世紀頃には中国に渡り「景教」と呼ばれていたが)蘇我氏は「6世紀の早い段階」には日本に入っていたのだそうだ。
ここの時系列もよくわからない。
彼らの「蘇我」とは、キリストが「我、蘇り」と復活することを意味しているそうだが、古事記はソガを「宗賀」、新撰姓氏録や日本三代実録、先代旧事本紀などは「宗我」と表記していて、地名だと「曽我」「宗我川」、氏神は式内大社の「宗我坐宗我都比古神社」か・・・ま、いろいろあるようだ。
蘇我氏は聖徳太子を暗殺したか
(『宗像教授異考録(1)』「天平のメリー・クリスマス」2005年)
さて、ここからが今回の本題になるが、ネストリウス派キリスト教徒のユダヤ人・蘇我氏は、聖徳太子をキリストに仕立て、そのキリストが天皇に即位することで日本をキリスト教化しようとした———というのが田中先生の学説なわけだが、どうやら太子は蘇我氏の企てにNO!を突きつけたらしい。
それで蘇我氏は(崇峻天皇を暗殺したように)聖徳太子も暗殺し、その子・山背大兄皇子をキリストにしようと方向転換したそうで、そのことを田中先生は法隆寺金堂の「釈迦三尊像」の銘文から読み取ったのだという。
そこでは、太子の功績を称えるよりも多くの文字数を使って「死亡の詳細」が記されていて、これは「暗殺を公に否定する」意図が込められているんじゃないか———。
そもそも太子と「愛妻」が一日違いで亡くなるなんて「不自然」だし、妻のほうが先に亡くなっているのも、太子を追った「殉死」という美談にならないよう、馬子が狙ったことなんじゃないか———。
そうして妻(膳大郎女)と太子は一日置いて順番に殺害され、それを隠すために「もがり(殯)」は行われず、一月も経たずにそそくさと埋葬されてしまった———。
このような太子への「仕打ち」は、田中先生によれば「日本人の考えることではなく」「ことさら日本をねじ曲げようとしたユダヤ人的行為」なのだという。
その20年後に、蘇我入鹿が(復讐を恐れて)山背大兄皇子をはじめとした聖徳太子の一族を抹殺したことも、蘇我氏が「日本人的な道徳を持たない」「和の思想を理解できない」「長い暗殺の歴史を持つ」ユダヤ人だからできたことだ———とのことだが、サイモンなんとかセンターに怒られないか、これ(笑)。
なお「釈迦三尊像」銘については、駒澤大学仏教学部教授の石井公成さんが、仏教学者ならではの知見を披露されていて、銘文中で太子より先に薨去した太子の母「太后(穴穂部間人皇女)」を見落としてしまうと、全体の意味が分からなくなるという。
まず法興31年12月に「太后」が没、翌月1月22日に「上宮法皇(聖徳太子)」が病に倒れ、さらに翌月2月21日に「王后(妻)」が没、翌日22日に「法皇(太子)」が没———というのは切り離せない、一つの不可分の流れの中にあるそうだ。
これまで正しく理解されていなかったのは、「出生入死、随奉三主(生を出でて死に入らば、三主に随い奉り)」の一文です。
これは「来世でも」ご奉仕するということではありません。
「出生入死」は、「出入生死(生死に出入せば)」の意であって、「生死」は「輪廻(サンサーラ)」の異訳ですので、何度生まれかわっても、ということになります。
問題は、あの世でも法皇にお仕えするというのではなく、何度生まれかわっても「三主に随い奉」り、三宝紹隆に努めるという点です。
(中略)
つまり、この銘文は、太子だけを尊崇したものでなく、太子、母后、干食王后の三人が重要なのです。
(中略)
ですから、誓願をした人たちは、来世でも、その次の来世でも太子と同じ場所に生まれて太子に奉仕し、「紹隆三宝」のお手伝いをすることになります。母后も王后も、むろん一緒に輪廻し、来世でも再会することが想定されているのです。
(『聖徳太子 実像と伝説の間』石井公成/2016年)
仏教のプロが「何度生まれかわっても三主に随い奉り」と解釈する銘文が、「暗殺を否定する意図」で作られたとは、ぼくにはチト信じがたい。
そこに刻まれた人々の思いが、そうではないと言ってる気がする。
それに暗殺を屁とも思わないという蘇我氏が、太子を亡き者にした後に(キリストには成れない女性の)推古天皇を生かし続けたり、いざ山背大兄皇子の順番が回ってきたときにも他の皇子を天皇に推したりしたのも(舒明天皇)、太子を暗殺するほどの「専横」はなかったことを表しているような印象が、ぼくにはある。
日本書紀に太子の「もがり」の記述がなく、そそくさと埋葬された件について石井さんは、その前後で太子が「厩戸」と呼ばれたり「上宮」と呼ばれたりしている点から、「別の資料から抜き出し、ここにはさみ込んだ」のではないかと指摘されているが、要はコピペ作業上の問題なんだろう。
コピペか引用か
コピペといえば、田中先生のこの本は、ちょっとウィキペディアからのコピペが多すぎる気がするんだが、今時は大した問題にはならないんだろうか。
ぼくは本を読みながら「ん?」とか「あれ?」とか思うと即ググるヘキがあるんだが、田中先生のこの本だと本文中の「司馬達等」「誄」「迹見赤檮」なんかがウィキペディアのコピペだった(ぼくがググった範囲で)。
ただ、ぼくが問題だと思うのは、田中先生ご本人の主張とウィキペディアのコピペが矛盾してしまったりすることで、読み手が混乱してしまうケースが想定されることだ。
例えば田中先生は、崇峻天皇を暗殺させた蘇我馬子が、当時なぜ断罪されていないのかは「日本の歴史上、最大の謎の一つです」「この最大の犯罪を歴史家が無視することはできないはずです」とおカンムリだが、直前のコピペが「謎」に答えを出してしまっていたりする。
まずウィキペディアの該当部分だが、出典([3])が明記されてるので、こちらはコピペじゃなくて「引用」だろう。
そして、崇峻と蘇我氏やマヘツキミ層は、いくつかの問題で分裂を招いてしまった[3]。
支配者層全体の利害を体現できず、大臣の蘇我馬子や前大后の豊御食炊屋姫尊との対立が顕在化したとき、権力基盤の弱い大王が支配者層の同意の下で殺害されるというのは、十分に起こりうる事態であった。
しかもその要因は、后妃問題、宗教政策、地方支配、対外戦争も含めた外交問題のいずれか、もしくは全てであり、王権の存立の根幹に関わる問題であった可能性が高い[3]。
(ウィキペディア「崇峻天皇」より)
んで、田中先生の本。
しかし崇峻と蘇我氏やマヘツキミ層は、いくつかの問題で分裂を起こすようになりました。
崇峻天皇は、大臣の蘇我馬子や前大后の豊御食炊屋姫との対立が顕在化したとき、支持者が少なかった結果、支配者層の同意の下で殺害されることになったと推察されています。
しかもその要因は后妃問題、宗教政策、地方支配、対外戦争も含めた外交問題など多岐にわたっており、王権の存立の根幹にかかわる問題と考られたのでしょう。
(『聖徳太子は暗殺された』田中英道/2023年)
ついでにウィキペディアのネタ元(出典)から。
支配者層全体の利害を体現できず、大臣や前大后との対立が顕在化した時、権力基盤の弱い大王が、支配者層の同意の下で殺害されるというのは、いまだ大王の絶対的な権力が確立していないこの時代では、十分に起こり得る事態であった。
しかも大王と支配者層との対立要因は、后妃問題・宗教政策・地方支配・対外戦争も含めた外交問題のいずれか、もしかしたらすべてかもしれないのであり、王権の存立の根幹に関わる問題であった可能性が高い。
(『蘇我氏——古代豪族の興亡』倉本一宏/2015年)
繰り返すが、ぼくはコピペの是非を問うてるわけじゃなくて読み手の混乱を問題にしているので、誤解なきよう、お願いします。
(ついでに立ち寄った成田山新勝寺にて)
あ、それと書き忘れていたが、田中先生によれば、蘇我氏の政敵「物部守屋」も、名前をエルサレムの「モリヤ山」から取っているので「帰化人のユダヤ系人物」で、物部氏の一員となって「神道派」に加担した人物なんだそうだ。
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