蘇我氏は渡来人か
〜秦氏ユダヤ人説と養蚕・韓式土器〜
秦氏はユダヤ人の末裔か
写真は2023年春に参詣した、京都市伏見区深草の官幣大社で「伏見稲荷大社」。
ビックリするほどの欧米人で溢れかえっていて、さすがに千本鳥居は諦めたもんだ。
こちらは古代では最大の渡来氏族「秦氏」が奉斎した神社だが、鎮座する「深草」の名前は、日本書紀の欽明天皇即位前紀に登場する。
まだ少年だった欽明天皇の夢に「秦大津父(はたのおおつち)」なる人物を推挙する(謎の)人が現れて、天皇が探させてみると「山背国紀郡」の「深草の里」で、秦大津父が発見された。
話を聞いてみると、秦大津父は狼の姿で争う神々の仲裁をしたことがあり、その時の神が欽明天皇の夢に現れたことがわかった。
欽明天皇は秦大津父を厚遇し、即位後は「大蔵省(おおくらのつかさ)」に任命したという。
秦氏というと、利殖や興産に長けた氏族というイメージからか、昔から国を失ったユダヤ人の末裔だという説がある。
言い出しっぺは佐伯好郎という学校の先生で、明治41年に発表した論文のなかで、秦氏を「イスラエルの遺民」だと主張したそうだ。
この鳥居(※三柱鳥居)について、明治41年、当時の東京高等師範学校の教授佐伯好郎は、「太秦(萬豆麻佐)を論ず」という論文を「地理歴史」に発表し、景教(7世紀前半に中国に入ったキリスト教の異端ネストリウス派)の遺跡とした。
唐の建中2年(783)に建てられた「大秦景教流行中国碑」という景教碑が、かつての景教の寺、太秦寺にあり、三柱鳥居が太秦の地にあること、三角を二つ重ねた金印がユダヤのシンボルマーク、ダビデの星であること、太秦にある大酒神社は元は「大辟神社」だが、「辟」は「闢」で、ダビデは「大闢」と書かれることなどをあげ、当社や大酒神社を祭祀する秦氏(太秦忌寸)は、遠くユダヤの地から東海の島国に流れ来たイスラエルの遺民だというのである。
そして、秦氏に関する雄略紀の記事から、景教がわが国に入った時期を五世紀後半としている。
(『秦氏の研究』大和岩雄/1993年)
もちろん、上の引用で挙げられたような根拠はとっくに論破されているし、佐伯氏自身も学術的というよりは、政治的な主張であることを認めていたという話も聞く。
ただ、日本古代史のミッシングリンクをつなぐ仮説としては興味深く、オカルト系雑誌などでは今も人気の記事らしい。
例えば上は、1994年8月号の『月刊ムー』の表紙。
”古代日本を陰で操った謎の豪族「秦氏」は、失われたユダヤ人キリスト教徒だった!!”と盛り上げていて、思わずポチりそうになったよ。
ま、実際には秦氏は「氏族的な体制が未整備」で「下位集団に対する統制力が弱く」「諸集団の自立性が高い」と歴史学者の加藤謙吉さんは書かれていて、一枚板とは到底いえないバラバラな渡来人を、ヤマトが組織化して政権の「底辺」を支えさせた——というのが実態のようだ。
秦氏は、山背を中心に各地の渡来人を糾合し、ミツキの貢納による王権への奉仕を目的として成立した擬制的な氏族組織であった。
配下の貢納組織とともに、6世紀半ばの欽明朝頃に人為的に編成された集団組織が、この氏の本質的な姿であり、ハタの氏称は、貢納品の主体が糸・綿・絹織物などの養蚕・機織製品であったことに由来する。
(『秦氏とその民』加藤謙吉/1998年)
ぼくも秦氏については加藤さんの説がごもっともだと思うんだが、ネットなどでは「ユダヤ人説」の人気にも根強いものがある。
秦大津父については他に書くこともないので、ここからは、文献と考古学からは、秦氏がユダヤ人の末裔とは思えない理由について、二点書き記しておくことにする。
秦氏と養蚕
(三柱鳥居 写真AC)
京都・太秦で、秦氏が奉斎した名神大社で「木嶋坐天照御魂神社」。
こちらは佐伯好郎が明治41年の論文で、「ダビデの星」だと主張した「三柱(みはしら)鳥居」で知られるが、「蚕ノ社(かいこのやしろ)」という通称でも有名だ。
伏見稲荷大社のもともとの祭神が、『稲荷社記』では「養蚕の道を最初に始めた神」と記されるように、秦氏といえば養蚕だ。
なんでも令制下における諸国からの貢納物のうち、養蚕・機織製品を納める地域と秦氏の分布地域とでは、その60%が重複するんだという。
日本書紀には、雄略天皇に「蚕(こ)」を集めよと命じられたのに、間違って「児(こ)」を集めてしまった「少子部蜾蠃(すがる)」という愉快な人物が登場するが、この人は平安時代の氏族名鑑『新撰姓氏録』では、分散していた「秦の民」を捜し集めた人だとされている。
つまり、秦の民=蚕。
また、皇極天皇3年に、駿河国で「常世神」としてアゲハチョウの幼虫を祭るブームが起こったとき、秦河勝が出動して首謀者を成敗したという記事があるが、加藤謙吉さんによれば「秦氏の(養蚕)信仰を換骨奪胎」して広められたブームだったので「秦氏側がそれを鎮圧」したというのが事件の真相だという。
養蚕の歴史
てな案配で、秦氏と養蚕には密接すぎる関係があるようだが、問題は、秦氏がいつどこでその技術を身に着けたのかだろう。
ぼくらの愛読書、亀山勝さんの『安曇族と徐福』によると、養蚕の起源は中国大陸で、すでにBC2750年の遺跡から絹製品を出土しているのだという。
養蚕技術は長らく、中国大陸の外への持ち出しは禁止されていたが、それでも朝鮮半島にはBC108年の楽浪郡設置で流出し、日本にはそれより早いBC200年前後の遺跡から絹製品が出土しているそうだ。
しかしそれがシルクロードを通って西洋に伝わったのは、ずっと遅れてAD6世紀になってからのこと。日本だとちょうど継体・欽明から推古朝にかけての時代のことだ。
仮に秦氏がユダヤ人の末裔だとして、彼らは一体いつどこで養蚕技術をわがものとしたんだろうか。
『ユダヤ大事典』(2006年)という本によると、ユダヤ人の定義とは「ユダヤ人の母親から生まれた人、あるいはユダヤ教に改宗した人で、ほかの宗教に帰依していない者」だという(1970年の帰還法改訂)。
つまりは、ユダヤ人男性と、非ユダヤ人女性の間に生まれた子供はユダヤ人ではない(改宗手続きが必要)。
秦氏は新羅に圧迫された「加羅」の難民―――という説が一般的なようだが、仮にAD1世紀にイスラエルを追われたユダヤ人が朝鮮半島にまで流れていたとして、そこから日本に渡るまでの数百年間、果たして「ユダヤ人の定義」を維持できたものか、ぼくにはちょっと信じがたい話だ。
また、少なくとも6世紀以降の秦氏については「ヤハタ(八幡)神」や「稲荷神」に見られるような「神仏習合」「現世利益」の信仰を持っていたわけで、ユダヤ人のアイデンティティたる一神教とどう折り合いをつけていたのか、見当もつかない。
ちなみに佐伯好郎が「ダビデの星」だと主張した、現在の木嶋神社(蚕の社)の三柱鳥居は、江戸時代の享保年間(1716〜1736年)に修復されたものだそうで、その他のユダヤの「物証」といわれるものも、どこまで時代を遡れるものか、疑問もある。
秦氏と韓式土器
(天塚古墳 写真AC)
上の写真は、京都・太秦に造営された墳丘長73mの前方後円墳で「天塚古墳」。
6世紀前半の築造ということで、欽明天皇に仕えた秦氏の族長、秦大津父のお墓だと考えられているようだ。
『新撰姓氏録』によると、秦氏は渡来してはじめは、奈良盆地南西部の葛城エリアに居住したという(朝津間腋上)。
そこには5世紀前半に権勢をふるった大豪族、葛城氏の本拠地「南郷遺跡群」があって、秦氏は葛城氏に「私的に掌握され」鉄器生産などに従事していたという。
それが457年に葛城氏の当主・円大臣が即位前の雄略天皇に殺害されると、秦氏はヤマトの直接統治を受けるようになったのだという。
その根拠が、「韓式土器」の移動だ。葛城氏が滅んだ後、韓式土器は南郷遺跡群から姿を消し、別の場所に現れたという。現れた先が、まず「宇治」それから「太秦」だ。
秦氏が移動したから、彼らの使う韓式土器も移動したというわけだ。
(宇治平等院)
このうち太秦については説明不要だろう。
宇治については、平安時代の『聖徳太子伝暦』なる書物の中で、聖徳太子が秦河勝と太秦に向かったとき、秦河勝の一族郎党が宇治川まで出迎えたという記事があるそうだ。
それで歴史学者の水谷千秋氏は、「おそらく宇治川から北が秦氏の領域であることを示しているのではないか」と書かれている。
(『継体天皇と朝鮮半島の謎』2013年)
繰り返しになるが、仮に秦氏がAD1世紀に国を失ったユダヤ人だとしても、それからAD5世紀に日本に渡ってくるまで「神仏習合」「現世利益」の信仰を持ち、韓式土器を使って朝鮮半島で暮らしていたなら、それはもうユダヤ人というより「朝鮮人」なんじゃないだろうか。
そもそも秦氏が本当に優秀なユダヤ人で、「日本を陰で操る」ほどの実力をもつというのなら、日本に逃げてくるより朝鮮半島の統一に励んだほうが良かったんじゃないか―――と、ぼくなどは考えてしまうんだが。
蘇我氏の出自
(都塚古墳 写真AC)
で、ここからが今回の本題(笑)。
蘇我氏の出自には「渡来人説」も含めて諸説あるわけだが、ぼくには歴史学者の平林章仁さんが『蘇我氏と馬飼集団の謎』(2017年)で書かれている説がいちばん納得できた。
ざっと要約すれば、蘇我氏はもともと武内宿禰を始祖とする葛城グループを構成する「有力成員の一人」といった程度の地位だったが、5世紀なかばに葛城本家が滅亡したあと、葛城グループ内の序列にしたがって「平群氏」が、つづいて「巨勢氏」が「大臣」に就任し、そのうちに蘇我氏こそが「葛城氏の政治的地位の継承者として王権内で認証されて」、蘇我稲目のとき、グループトップの「大臣」に就任した―――という流れ。
同じ歴史学者でも加藤謙吉さんは、蘇我稲目の系譜上の先祖とされる「石川宿禰」「満智」「韓子」「高麗」たちは後世に架上された作り話だといわれるが、ぼくは平林さんが言われるように、葛城グループの下っ端にそれっぽい人たちはいたのでは・・・という方に好印象がある。
個人的な感想だが、葛城氏の滅亡の後、それまで南郷遺跡群で実務にあたっていたという「鴨氏」と「秦氏」が山城国に強制移住させられたとき、その実務を引き継いで、残された渡来人を束ねたのが蘇我氏だったんじゃないか、という気がしている。
んで、そういったヤマトへの貢献が評価されて、葛城氏の「地位」の継承が認められ、天皇に娘を入内させる「地位」までをも引き継いだ―――という平林説には、大いに納得できるのだった。
《追記》蘇我氏は渡来人か
話の順番としては逆になるが、最近、蘇我氏「渡来人説」について書かれた『蘇我氏の古代学』(坂靖/2018年)を読んだので、感想文を少々。
蘇我氏渡来人説ってのは、歴史学者の門脇禎二さんが1971年に提唱した学説で、簡単に言うと、日本書紀の応神天皇25年(長浜浩明さんの計算で401年)に出てくる「木満致」と、三国史記の蓋鹵王21年(475年)に出てくる「木刕満致」と、日本書紀の履中天皇2年(長浜さんの計算で429年)に出てくる「蘇我満智」の3人を、「マチ」繋がりで同一人物だとするもの。
でも見ての通りで、3者の登場年代には乖離があり、これをそのまま信じている人はいないそうだ。
それで(今ごろになって)考古学者の坂靖さんが「渡来人説」を支持ということで、興味津々で読んだのが上掲の本で、まず坂さんが言われるには、もしも蘇我氏の出自が「木満致」「や「木刕満致」のような百済の高官なら、当時の両国の関係から言って、記録に残らないはずはない(=つまり百済高官ではない)。
では、と坂さんが提示された仮説は、蘇我氏の先祖はヤマトと百済の間で翻弄されつつも、その両方と深い関わりを有した「全羅道地域の馬韓残余勢力」ではないか、というもの。
坂さんが言われるには、この人たちは5世紀の段階でも「国家への明確な帰属意識をもっていなかった」んだそうだ。
ヤマト王権と百済王権の中間にあり、両方の文化に精通しつつも、在地では実力を発揮できなかった蘇我氏の祖が、5世紀代にヤマト王権の招きに応じて、飛鳥に居住した。
奈良盆地には、これまでみたように、さまざまな階層の、さまざまな故地をもつ渡来人がいた。そのなかで飛鳥の渡来人のリーダーとして徐々に頭角をあらわしてきたのが蘇我氏の祖である。
継体大王の時代までは古墳をつくるような力はまだなかったが、政権運営のなかで百済の思想や技術の受け入れが最重要の課題となったとき、蘇我稲目がその能力を遺憾なく発揮したのである。
(『蘇我氏の古代学』坂靖/2018年)
それで坂さんは考古学者らしく、5世紀の飛鳥にいかに多くの全羅道出身者がいたかを土器の分布などで示したり、「真弓鑵子塚古墳」をはじめとした渡来系リーダーの墳墓を解説したりしているんだが・・・。
んんー、蘇我氏が渡来人を束ねたリーダーであったことは完全に納得できたものの、当の蘇我氏が朝鮮半島出身だったかどうかの物証については、ついに挙げられなかったような印象があるなぁ。
そもそも蘇我稲目といえば、欽明天皇の義理の父で、用明天皇・崇峻天皇・推古天皇のおじいちゃんになった人物なわけで、その人が半島系なら、それこそ朝鮮側の記録に残されたのでは・・・という気がする。
やはりぼくは、蘇我氏は「葛城グループ」内で昇格していくことで、ついには娘を天皇に入内させる「地位」までをも引き継いだ———という平林説に一票、という感じだなぁ。
ところで、ぼくらはニワカ古代史ファンなので知らなかったことだが、古くからの古代史ファンの間では「蘇我氏=渡来人説」には根強い人気があるのだとか。
その理由について、なるほど!と一発で腑に落ちた説明があったので、チト長いが引用させていただきます。
蘇我氏=渡来人説が学界だけでなく、 一般の古代史ファンの間でも広まり、いつの間にか多くの人たちにとって通説のように理解されてきたのはどうしてだろう。右に述べた学問的な理由だけではないと私は思う。
この説を最初に唱えた先学にその意図がなかったことは言うまでもないが、蘇我氏渡来人説が一般に信じられてきた背景には、この説が古くから日本人に定着してきた蘇我氏逆賊史観とうまく適合していたことがあるのではないだろうか。
つまり、「蘇我氏は渡来人で天皇への忠誠心が薄かった。だから天皇をないがしろにし、これにとって代わろうとしたのだ」という理解である。
こういう理解が、知らず知らず多くの人の胸にあったのではないだろうか。そうだとすれば、今も蘇我氏逆賊史観は我々の心を領していることになる。
古い先入観から脱することの難しさをあらためて思い知らされる。
(『謎の豪族 蘇我氏』水谷千秋/2006年)