秦氏はユダヤ人か(八幡神と京都の神社)

石清水八幡宮と宇佐神宮

石清水八幡宮

京都府八幡市の「石清水八幡宮」。

伊勢神宮と並ぶ皇室の宗廟で、四方拝で天皇が遙拝する数少ない神社の一つだ。


鎮座地の「男山」は山城と摂津の国境にあって、王城の裏鬼門(南西)を守る神として石清水八幡宮は登場したという。

(『八幡神とはなにか』飯塚賢司/2004年)

『八幡神とはなにか』

祭神の「八幡大神(誉田別命・比咩大神・息長帯姫命)」は860年に大分県の「宇佐神宮」から勧請されたものだが、その際、宇佐神宮の神官はこの移坐には関与せず、もっぱら僧侶が主体となって行われたんだそうだ。


それもあってか、石清水八幡宮とは「日本で最も完成された」「宮寺形式」だそうで、要するに伊勢との違いは、こちらは皇室の「お寺(?)」だって理解で良いんだろうか。

石清水八幡宮

869年に新羅の海賊が豊前国貢調船の絹綿を略奪した際には、宇佐神宮に代わって石清水八幡宮に奉幣がなされ、以後、宇佐神宮が担ってきた「日本全体の鎮護国家の神」の地位は、だんだんと石清水八幡宮にシフトしていったそうだ。


そして1023年に(あの)藤原道長の手で、二つの八幡宮は一体化、統合されたんだそうだ。

「八幡神」とは

656年に現在の形が成立した『隋書』によれば、その当時、「竹斯(ちくし)国」の東には、中国人と同じ人々の国「秦王国」があったのだという。


その豊前「秦王国」に住んでいた「秦氏」が祀っていた「ヤハタ」の神こそが、のちに宇佐の「八幡神」として日本の守護神に昇格したのだと、古代史研究家の大和岩雄さんは書かれている。

(『日本にあった朝鮮王国』1993年)


ただ、その「ヤハタ」信仰を一言でいうのは難しいようで、「新羅・加羅の土俗信仰と仏教・道教の入り交じったものに、さらにわが国の土俗信仰が加わったもの」というヤヤこしさ。


とりあえず一つハッキリしているのは、「ヤハタ」信仰は「初めから神仏習合的であった」ということらしい。

『日本にあった朝鮮王国』

むろん、八幡神は「地方の氏神が偶然中央と結びつき成立したのではない」と飯沼さん。


八幡神は「律令国家という古代国家の成立とともに、国境の神として政治的に登場してきた」のだという。


そのことは並んで祀られている「比売神(ひめがみ)」も同様で、それは「在地の神や氏神的存在ではなく、政治的に作り出された神」で、その実体に「宗像三女神」説が有力なのも、比売神を加えることで「対隼人」のみならず、「対新羅」の境界神・軍神へと発展させる意味が考えられる———からのようだ。


100年後に神功皇后が祀られて三座になったのも、もちろん「対新羅」の立ち位置を強化するためだ。

秦氏の信仰 伏見稲荷大社

伏見稲荷大社

(伏見稲荷大社)

ところで秦氏が日本人の信仰に及ぼした影響は、「ヤハタ神」だけには留まらない。

なかでも一番有名なのは、京都市伏見区で「稲荷大神」を祀る「伏見稲荷大社」だろう(二十二社、官幣大社)。


ただ、こちら「イナリ神」も「ヤハタ神」同様、簡単に理解できる信仰ではないようだ。


まずはその社名のとおりの「穀霊祭祀」。

五穀成就の神で知られるが、同時に農耕にとって最も重要な「降雨」に関わる「火雷龍神信仰」を併せ持つという。


さらにその「火雷的性格」から、鍛冶や製鉄の神としての信仰も集めているというから、重層的だ。(『日本の神々 神社と聖地 5』)

秦氏の信仰 松尾大社

松尾大社

(松尾大社)

伏見稲荷大社と並ぶ秦氏の氏神、京都市西京区の「松尾大社」(二十二社、官幣大社)。


こちらの祭神「大山咋(おおやまくい)神」は、「山頂を示す杙(咋)、すなわち山頂に坐す境の神」のことで、平安遷都後は平安京の鬼門(北東)を護る比叡山山頂の神として崇敬されたという。

(『日本の神々5』)

レイライン

大和岩雄さんによれば、京都側から見た比叡山の山頂(四明岳)と松尾大社を結んだ直線は、夏至の日の出=冬至の日の入りの遙拝線で、その線上には「賀茂氏」の「糺(ただす)の森」と、秦氏の「元糺の森」が配置されているのだという。


賀茂氏と秦氏は国策によって大和・葛城から移住して山城の開発に当たったというが、その信仰においても強固な繋がりがあったようだ。


「大山咋神」を祀る総本社は、比叡山の琵琶湖側に鎮座する「日吉大社」(二十二社、官幣大社)だが、その創始以来の禰冝「祝部氏」は、賀茂氏の出身なんだそうだ。

秦氏の信仰 月読神社・大酒神社

葛野坐月読神社

(葛野坐月読神社)

松尾大社から南に500mの名神大社「葛野坐(かどのにます)月読神社」も秦氏が関わった神社だという。


月神信仰の総本社は「壱岐」の「月読神社」で、こちらの祭神もそこからの勧請だという。理由も経緯もハッキリしないようだが、秦氏はなぜか「海人の神」も山城で祀っていたという話。


右京区太秦の「大酒神社」は、秦氏の祖が「始皇帝」の霊を祀ったのが創建の由来だという。ご神体は「石」で、ここでは「猿田彦」や「道祖神」に通じる「石神信仰」が見られるのだとか。

秦氏の信仰 木嶋坐天照御魂神社

三柱鳥居

(「三柱鳥居」 出典 京都観光Navi)

「三柱鳥居」が有名な、右京区太秦の式内社、「木嶋坐天照御魂神社(このしまにますあまてるみたまじんじゃ」も、秦氏の氏神。


こちらは「天日槍(アメノヒボコ)伝承」に出てくる「日光感精型」の「日の御子信仰」の神社だという。


境内には、新羅系の「日光感精伝承」に登場する「アグ池」と同じ性格をもつ「元糺の池」があり、比叡山と松尾大社を結ぶレイライン上に位置することから、「太陽光に射貫かれる」地でもある。


歴史学者の平野邦雄さんによれば、秦氏が広く分布していた「播磨国」の『風土記』において、アメノヒボコの説話を有する地域と、秦氏の居住区は「ほぼ完全に重複している」んだそうで、そんな秦氏にアメノヒボコ(日の御子)を祀る神社がないとしたら、逆に変な話かも知れない。

『おしらさま』

なお、こちらの境内社に「蚕養神社(こがいじんじゃ)」があるが、「桑」や「蚕」が広く「太陽信仰」に関係する以上、「天照神社」の境内に鎮座するのは「むしろ当然」だろうと、大和さんは書かれている。


「養蚕の神」はやがて「オシラ神」や「常世虫信仰」などに発展して地方に広がっていて、大和さんは、秦氏の信仰は「民衆の現生利益の願望と結びついた信仰と密接な関係にある」とも書かれている。

秦氏はユダヤ人か

『古代ユダヤの刻印』

・・・というわけで、以上、今に残る秦氏の信仰についてザッと見てみたが、何とも多岐にわたっていて捉え所がない印象だ。


ただ、大和さんや平野さんが書かれるように、すべてはアメノヒボコ伝承の「日の御子信仰」から始まったのだとすれば、ヤハタ神やらイナリ神やら、バラバラに思える信仰の繋がりも何となく見えてくる気がする・・・。


・・・とか言ってたら思い出したのが、この秦氏をアブラハムの子孫の「ユダヤ人」だと主張する本を持っていたこと。


カビ臭いダンボール箱から掘り出したのは、ユダヤ陰謀論の第一人者(?)宇野正美先生の『古代ユダヤの刻印 現代に蘇生する秦氏の血脈』(1997年)だ。


いやー懐かしいな、宇野先生のユダヤ陰謀論(と日ユ同祖論)。


ぼくが大学一年生のとき(1986年)大流行して、ぼくも見事に洗脳されて、会う人会う人に宇野説を力説しては、変人扱いされたもんだ(笑)。

『ユダヤが解ると世界が見えてくる』

さて宇野先生によれば、京都を開発したユダヤ人・秦氏が築いた都が「平安京」で、それはヘブライ語で「エル・シャライム」すなわち「エルサレム」を意味するのだという。


おおー。

ヘブライ語など分からないぼくなどは、とりあえず感心するしかない。


が、つづく「八坂神社」の説明はダメだと分かる。


宇野先生は「八坂」とは、ヘブライ語の「ヤ(YA)-サカ」で「神」を意味し、あの辺りが大いなる礼拝所だったと言われるが、八坂神社は幕末までは「祗園社」と呼ばれていて、「八坂神社」に改名したのは1868年のこと。


なによりマズいのが70ページの図版で、キャプションには八坂神社とあるが、これ、春に参詣したから分かるけど、賀茂氏の「下鴨神社(賀茂御祖神社)」の写真だ。

賀茂御祖神社

(出典『古代ユダヤの刻印』)

宇野先生は、大和岩雄さんなどの秦氏研究を「日本的発想」だとバカにして、「聖書的発想」なら「すべてが解ける」と豪語されているが、ぼくには複雑なものは複雑なまま、しかし細部を正確に把握しようとしている日本の研究者の方が、よっぽど「大人の議論」をしているように思える。


おそらく宇野先生の世界では、秦氏と密接な関係にあった「賀茂氏」とか、隋の使者が中国系が住んでいると書いた「秦王国」とか、「ユダヤ」では説明不能なものは全てスルーされているんじゃなかろうか。

八坂神社

(八坂神社 写真AC)

それに、そもそも「一神教」を捨ててしまったら「ユダヤ人」ではなくなるわけで、仮に秦氏の先祖がユダヤ人だったとしても、「景教」を捨てた後の彼らを「ユダヤ」の括りで語ることは、こと宗教的な問題においては全く意味をなさないんじゃないかと、ぼくには思える。


それほど京都で見てきた秦氏の信仰は、「多神教」的だった。

※なお、八坂神社と秦氏には直接の関係はなかったと思う。


【関連記事】葛城と山城の「賀茂氏」と「秦氏」