オオモノヌシの祟りと三輪山祭祀(と大和のアマテラス)
筑紫の大三輪社
三輪山麓で大物主神(オオモノヌシ)を祀る、大和国一の宮「大神(おおみわ)神社」。
コロナ一年目の2020年末に参詣してきたが、あの頃はどこに行ってもガラガラで、心静かにお参りすることができたもんだ。
一方、2023年4月に行った「伏見稲荷大社」などは正月の仲見世なみの賑わいで、しかもその大半が欧米人という・・・。
ま、それはそうと、神功皇后が三韓征伐に不足する兵力を集めるため、筑紫に立てたという「大三輪社」がどうにも気になってAmazonを物色したところ、面白い本がヒットした。
一冊丸ごと蘇我氏とか葛城氏なんて本は持ってるが、丸ごと「大神氏」は珍しい『古代豪族 大神(おおみわ)氏』(鈴木正信/2023年)。
出版されたのは今年の1月で、著者の鈴木氏によれば、執筆のきっかけはやはりコロナ禍で、崇神天皇を苦しめたオオモノヌシの疫病を想起したからとのこと。
んで結論だけ書いてしまうと、「大三輪社」である以上、その神を奉斎する三輪氏(のちに大神氏)が関与するのは当たり前で、神功皇后の時代ではないが、大和の三輪系の人たちが筑紫に移住してきたのは疑いがないところのようだ。
なお筑紫の「大三輪社」は式内社の「於保奈牟智神社」だと見られていて、現在は福岡県朝倉市に鎮座する「大己貴神社」に比定されている。
ちなみに、神功皇后が「羽白熊鷲」なる鳥人間を討ち滅ぼしたという「荷持田村」や「安」の地は、いずれも大己貴神社から数キロも離れていない場所にある。
(大己貴神社 公式サイト)
王朝交替説とオオモノヌシ
ところで『古代豪族 大神氏』によれば、人口の半分を殺したというオオモノヌシの「祟り」の理由については、昔から様々な議論があったらしい。
代表的なものとしては「王朝交替説」に基づく説があって、5世紀に成長した「河内政権」が奈良盆地に侵攻して、三輪山麓(纒向)にあった「初期大和政権」を滅ぼしたため、神主を失ったオオモノヌシが祟り神になったというもの。
むろん、特に考古学的な裏付けのない仮説のようで、そもそも何故、滅ぼされた側の「初期大和政権」が、それまで祀っていたオオモノヌシによって祟られねばならないのか、その祟りは河内で広がるのが妥当ではないか、と著者の鈴木氏も書かれている。
(三輪山 写真AC)
二段階説とオオモノヌシ
鈴木氏が「二段階説」と呼ぶのが、三輪山の祭祀にはヤマトによる「国家祭祀」と、三輪氏による「ローカル祭祀」という、二つの段階があったという説。
その説によれば、4〜5世紀の三輪山の山頂では、皇室による「国見儀礼」なる「日神祭祀」が行われていたが、5世紀後半に「日神祭祀」の現場が伊勢神宮に移ったため三輪山頂の祭祀が中断され、これに怒ったオオモノヌシが祟りをなしたのだという。
それで6世紀半ばに三輪山の祭祀は皇室から三輪(大神)氏に委譲され、三輪氏の祭りによってオオモノヌシの祟りは収まった、というのが「二段階説」。
ただ鈴木氏によると、「国見儀礼」の根拠は日本書紀の崇神天皇48年の条で、二人の皇子の「夢」に三輪山頂が出てきたという件だけで、それもたった一回だけのこと。
また、三輪山を描いた図には、山頂に「神坐日向神社」が描かれているものもあるが、それらは早くても12世紀のもの。
山頂から祭祀遺物が見つかったというような史料もないそうだ。
なお、三輪山の(山頂ではなく)中腹から山麓にかけては多数の祭祀遺跡が見つかっているが、古いものには4世紀後半の遺物もポツポツ見られるものの、出土のピークは6世紀代だという。
「二段階説」がいう伊勢移転に伴う「祭祀の空白期間」こそが、実際には「三輪山祭祀の最盛期」だったというわけで、6世紀にオオモノヌシが祟りをなす理由は見当たらなかった、というのが実情のようだ。
(三輪山 写真AC)
日本書紀のオオモノヌシ
それでぼくがちょっと良く分からないのが、「王朝交替説」にせよ「二段階説」にせよ、オオモノヌシの「祟り」の件は「記紀」にしか出所がないのに、当の「記紀」の記述はいっさい無視して「祟り」だけを持ってきて、別のことの説明に使うのはOKなんだろうか、ってことだ。
日本書紀をフツーに読めば、オオモノヌシが「祟り」をなして疫病を流行らせたのは、当時の祭祀の乱れに原因があったと明記してあるわけで、「河内王朝」の侵攻だとか、「国見儀礼」だとか、オオモノヌシに何の関係があるのか、ぼくには良く分からない。
オオモノヌシはただ、崇神天皇による(漫然とした?)天神地祇への祀りではなくて、直接の子孫(オオタタネコ)によるプライベートな祭祀を受けたいと望んだだけで、それ以降、オオモノヌシの祭祀は子孫の「三輪氏」が務めるように変更された・・・というだけの話じゃダメなんだろうか。
(倭大国魂を祀る「大和(おおやまと)神社」)
また、その際オオモノヌシが、同じように不満を持っていたと思われる「倭大国魂神(やまとおおくにたま)」の心境を代弁して、「倭国造」の「市磯長尾市(いちしのながおち)」による祭祀を命じている点も気になる。
崇神紀の「疫病」のエピソードにおいて、オオモノヌシと倭大国魂の件は、あくまでセットで不可分のものだろう。
オオモノヌシが「河内王朝」や「国見儀礼」に関係があるというのなら、倭大国魂にも同種の説明をする必要があるように、ぼくには思えるんだが・・・。
アマテラスは誰が祀るのか
(檜原神社)
セットで不可分といえば、忘れてはならない、もう一柱がアマテラスだ。
日本書紀によれば崇神天皇6年(長浜浩明さんの計算だと西暦210年頃)、疫病や百姓の流亡に悩んだ天皇は、それまで皇居で祭っていた倭大国魂とアマテラスを、皇居の外で祭ることに決めた。
これは二神が、互いの威勢に遠慮して同居を望まなかったからだと日本書紀はいうが、それなら倭大国魂だけ外に出せばいいものを、なぜかアマテラスも笠縫邑(いまの檜原神社か)で祭られるようになった。
やがて疫病も収まり、大和に平和が戻ったが、アマテラスは皇居には戻されることなく、結局は垂仁天皇25年(長浜浩明さんの計算だと253年頃)に皇女・倭姫命と連れだって、鎮座地を探す旅に出た。
ヤマトヒメは奈良県宇陀市から近江、美濃と巡っていき、伊勢が気に入ったというアマテラスの言葉を受けて、五十鈴川のほとりに「磯宮」という斎宮を建てたという・・・。
(五十鈴川 写真AC)
さて、もしもアマテラスがオオモノヌシのように「血縁」による祭祀を望むのなら、子孫のはずの天皇や皇女のおわす大和で何の問題もなかったはずだ。
一方、倭大国魂を祭ることになった倭国造の市磯長尾市(いちしのながおち)は、神武東征には大分県から参加した「珍彦(うずひこ)」の子孫で、ハッキリしないが倭大国魂の「血縁」ではない。
だが奈良盆地中央部の「国魂」である倭大国魂は、その地を治める倭国造の「地縁」による祭祀を望み、十分満足したようだ。
それじゃー、アマテラスは何を求めて伊勢に行ったのか、と思って『古代豪族 大神氏』に戻ってみると、こんなことが書いてあった。
また、『古事記』『日本書紀』のオオタタネコ伝承では、天皇は託宣に従い、大神氏の祖であるオオタタネコを神主に任命して祭祀を行わせている。
藤森馨はこれらのことから、国家が三輪山の神のような在地の神を祭る場合には、在地の氏族を通して間接的に奉祭する体制を取っており、天皇家といえどもその祭祀に介入することはできなかったと論じている。
『古代豪族 大神氏』(鈴木正信/2023年)
くどいが、崇神天皇の時代のアマテラスが「皇祖神」なら、フツーに皇居でお祀りすればいいだけの話だ。
だがもしも、当時のアマテラスがオオモノヌシや倭大国魂のような「在地の神」で、ヤマトが征服した部族から祭祀権を取り上げた存在だったのだとしたら、それは結局は「在地の氏族」に戻さなければならなかったんじゃないか。
ただそれが、どこの神かが分からなくなっていたので、ヤマトヒメは考えうる候補地(宇陀・近江・美濃)を巡回する必要があったんじゃないか・・・。
もちろん、このアマテラスは現在、伊勢の皇大神宮で祭られている皇祖神の「天照坐皇大御神(あまてらしますすめおおみかみ)」とは違う神だろう。
それは伊勢湾の海人族に奉斎されていた、いわゆる「アマテル神」で、仲哀天皇に祟ったのも、おそらくはこの神だったんだろう。
皇室が正式に「天照大御神」を皇祖神とするのは、もうちょっと先の時代の話だと、ぼくは聞いている。
銅鐸祭祀から前方後円墳祭祀へ
(箸墓古墳 写真AC)
それにしても、皇居から神々を外に出してしまった後、崇神天皇以降の古代天皇はいったい何を祀っていたんだろう。
人間のやることなんて似たり寄ったりだと考えたとき、そのヒントは文化的に先行していた「出雲」にあるような気が、ぼくはしている。
他地域に先駆けて、早々に「銅鐸」を使った神マツリを終わらせていた出雲では、その後は偉大なる王が眠る「墳丘墓」での祭祀に移行していったのだという。
そして、ちょうどその頃から山陰を中心とするこの地方に墳丘墓が現れ、その後銅鐸祭祀が全面的に終焉する後期末にいたる間、この墳丘墓が徐々に各地にひろがっていく。
それは、各地の地域集団が共同で豊穣を祈る宗教儀礼が中国地方から姿を消し、一部の有力者が各種儀礼の前面に現れ、その権限の継承に関心が移る時代へと変貌していくことを意味する。
(『農耕社会の成立』石川日出志/2010年)