伊佐須美神社のオオヒコ(大彦命)と会津大塚山古墳

会津の四道将軍

伊佐須美神社大鳥居

2024年春に参詣した会津美里町の名神大社で「伊佐須美(いさすみ)神社」。


立派な鳥居や楼門に比べて社殿が小さいのが不思議に思えたが、授与所で聞くと2008年の火災で旧社殿が全焼し、現在あるのは「仮社殿」なんだとか。


『日本の神々12』(1985年)に伊佐須美神社のご神体は、祭神のイザナギ・イザナミを同体に刻んだ4寸8分の神像だとあるが、そちらは幸いにも救出できたんだそうだ。

伊佐須美神社楼門

日本書紀によれば、崇神天皇10年(長浜浩明さんの計算で212年ごろ)10月、周辺の教化を目的に北陸・東海・西道(吉備)・丹波に「四道将軍」が派遣され、翌年4月には平定の報告がなされている。


一方、古事記によると、このうち越国に向かった「大毘古命(おおひこ)」と、その息子で東海道に向かった「建沼河別命(たけぬなかわわけ)」が会津で行き会い一緒になったので、ここらを「会津」と呼ぶようになったとある。

健田須賀神社

会津への道中には、オオヒコとタケヌナカワワケに関連する神社があったので、合わせて参詣してきた。


まずは、武渟川別を祀る茨城県結城市の式内社で「健田須賀(たけだすが)神社」。

社伝によると武渟川別は、当地「結城国造」竹田臣の祖神に当たるのだという。


古事記の会津伝説が、根拠ゼロの作り話だとは言い切れないのが、先代旧事本紀『国造本紀」が伝える「那須国造」の件。


そこには景行天皇(在位290〜320年頃)の御世に、「建沼河命」の孫・大臣命が那須国造に就任したとあるが、実際、3世紀末からの100年間、それまで無人だった那須に「一代一墳的に」6基の前方後墳が造営された———というファクトがあるのだ。


素直に受け取れば、東海道の攻略を担当した武渟川別の孫の代には、一族は遠く那須にまで入植していたことになるんじゃないだろうか。


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高椅(たかはし)神社

健田須賀神社から北に3キロ、栃木県小山市に鎮座する式内社で「高椅(たかはし)神社」。


祭神は武渟川別の父、北陸担当の「大彦命」の孫に当たる「磐鹿六鴈(いわかむつかり)で、料理の神さまとして知られている。


日本書紀によると、大彦命の子孫には「阿倍臣・膳臣・阿閉臣・狭狭城山君・筑紫国造・越国造・伊賀臣」ら7族があるというが、このうち「膳臣(かしわでのおみ)」の始祖が、イワカムツカリだ。


磐鹿六鴈の初登場は、景行天皇の東国巡幸の際、天皇が手に入れたハマグリを見事な「なます」に料理して、献上したというエピソード。


民俗学者の谷川健一さんによれば、こうした食物供献説話の背景には、「被征服民あるいは先住土着民」による「服属儀礼」の側面があるそうだ。

『白鳥伝説』

大彦ー武渟川別を祖とする大豪族「阿倍氏」が、征服した「異族」を阿倍氏の「同族」に取り込んでいったのが、子孫と称する若狭の「膳臣」や加賀の「越国造」だろうというお話しで、とても興味深い。


ヤマトタケルの東征には「七掬脛(ななつかはぎ)」なる料理係が同行しているが、「脛」が長いといえば神武天皇に滅ぼされた大和の先住民族・ナガスネヒコが思い起こされるわけで、要は「蝦夷の俗称」だろうと、谷川さんは書かれている。


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会津の前方後円墳

会津大塚山古墳

(出典 会津若松市公式サイト)

上の写真は、JR会津若松駅から北東に1キロの小高い丘の上にある前方後円墳で、「会津大塚山古墳」。


墳丘長114mは福島県で2位、東北全体でも4位という規模で、地元の考古学者・辻秀人さんによれば4世紀中ごろの築造とされる。


副葬品には、岡山県「鶴山丸山古墳」と同じ鋳型の三角縁神獣鏡などが含まれていて、ヤマトの「人・もの・情報」のネットワークが、4世紀には会津にまで及んでいた事実が分かるんだそうだ。

会津盆地の古墳の変遷

(出典『東北古墳研究の原点 - 会津大塚山古墳』2006年)

上の図54は「会津盆地の古墳の変遷」を表しているが、興味深いのが会津で(東北で?)最古とされる「杵ガ森古墳」。


西暦300年前後に築造された、45.6mの前方後円墳だが、何とあの日本最古の前方後円墳「箸墓(はしはか)古墳」と同じく「前方部バチ型」の特徴を有していて、つまりは6分の1相似形(箸墓は278m)。


箸墓古墳の築造年代には諸説あるが、仮に平均?をとって270年頃とした場合、その30年後には会津にその設計図が伝わっていたということになる。

杵ガ森古墳

(杵ガ森古墳 会津坂下町公式サイト)

能登の墓・住居・土器が会津へ

会津では図54の三大古墳群の他にも、弥生末から古墳前期のさまざまな遺物が見つかっているが、調査が進むにつれて、不思議な傾向が分かってきたのだという。

『東北古墳研究の原点 - 会津大塚山古墳』表紙

まず、会津市内では最も古い「堂ヶ作山古墳」と、上記「会津大塚山古墳」からは、北陸の古墳との墳丘の類似が確認された。


また、弥生末から古墳初期の土器が、北陸東北部の土器に類似していることも判明し、とくに会津坂下町「中西遺跡」の土器はすべて、能登に起源を持つことが確定した。


さらに「中西遺跡」では、住居跡までが東北の伝統とは異なって北陸的だと分かったし、東北にはないと思われていた「周溝墓」までが発見された。

能登と会津の土器

出典『東北古墳研究の原点 - 会津大塚山古墳』

辻秀人さんによると、弥生末の東北は気候の寒冷化の影響を受け、生活様式の縄文回帰が見られたのだという。米作りを止め、狩猟・漁撈に戻った様子が、土器などの変化から分かるんだそうだ。


そんな会津に突如として「箸墓古墳」相似形の前方後円墳が築造され、三つのエリアに「古墳群」が造営された。


これはもう、能登あたりの人たちが、大勢で会津に移住してきたとしか思えない———というわけだ。

考古学の資料で人の移動を説明するのはなかなか難しい。土器や石器は人の手によって運ばれ、移動するから、土器や石器が離れた場所でよく似ていても人の移動を示すとは限らないからだ。


しかし、会津盆地の場合は、土器に加え、家、墓までもが北陸北東部と共通し、前の時代とはまったく違う特徴をもっているから、人の移動は間違いなくあったと言える。


どのくらいの人びとが北陸から会津盆地にやってきたのだろう。中西遺跡のような集落や、男檀、宮東遺跡などの周溝墓が発見される遺跡の数からみて、5人や10人ではなく、 100人を超えることは確かだ。


全体のようすから見て個々バラバラにではなく、集団としてやって来ているようだ。


(『東北古墳研究の原点 - 会津大塚山古墳』辻秀人/2006年)

会津大塚山古墳

さて、北陸から会津へといえば、四道将軍・大彦命が古事記で辿ったルートになる。


もちろん年代的には1世紀もズレてはいるが、単なる偶然では片付けられないような気がする。


能登には、西暦300年頃にヤマトが運営していた「万行遺跡」なんて倉庫群の存在もあり、その時代に何らかの使命をおびた人たちが、会津まで移住しても不思議ではない「状況」はあったと思う。

福島県郡山市の神社と古墳

安積国造(あさかくにつこ)神社

JR郡山駅から西に400mの好立地に鎮座する「安積国造(あさかくにつこ)神社」。


先代旧事本紀「国造本紀」によれば、第13代成務天皇(在位320〜350)の御世に「阿尺(あさか)国造」が定められたとあり、初代国造の「比止禰(ひとね)命」が祖神の天湯津彦命を祀ったことが、創建の縁起だと社伝はいう。

大安場一号墳の復元図

(出典『石製模造品による葬送と祭祀 正直古墳群』)

初代国造ヒトネの墓というには早すぎるが、何代目かの阿尺国造が被葬者と考えられているのが、郡山市の「大安場(おおやすば)1号墳」。

全長83mは、東北地方では最大の前方後墳だ。築造年代は、会津大塚山古墳と同じころで4世紀後半。


大型の前方後墳ということで、3C末〜4C末に相次いで前方後墳が造営された、那須地域の古墳群との関係は、とうぜん想定されているようだ。


※当時は南から、下毛野ー那須ー白河ー石背(須賀川)ー阿尺(郡山)ー信夫(福島)と並ぶ。

『石製模造品による葬送と祭祀 正直古墳群』表紙

ところで4世紀の会津地方には、能登からの移住が多数あったようだが、中通り地方はどうだったのか。


地元の考古学者・佐久間正明さんによれば、郡山の古墳や「建鉾山祭祀遺跡」から出土した「石製模造品」は、藤岡市の「白石稲荷山古墳」など群馬県の同等品からの影響が、強く読み取れるのだという。


中通りと繋がるのは北陸ではなく、北関東だったようだ(当たり前かw)。

建鉾山祭祀遺跡出土の石製模造品

(出典『石製模造品による葬送と祭祀 正直古墳群』)

佐久間さんによれば、5C前半には郡山から「大安場1号墳」のような上位首長のお墓が消えていて、その理由として郡山までを勢力圏とする超上位首長?が存在したことが考えられるという。


そしてその大リーダーのお墓こそが、東日本最大の墳丘長210mを誇る前方後円墳、群馬県太田市の「太田天神山古墳」ではないかということだ。

まず5世紀前半に関する事象として、群馬県太田市にある東日本最大の前方後円墳、太田天神山古墳(全長210メートル)の成立があげられる。


若狭徹は、太田天神山古墳の成立の背景には、上毛野地域の東部(東毛)と西部(西毛)の両勢力による王の共立と、北関東―南東北のネットワークの成立という二つの作用があった可能性が高いとする。


このうち北関東と南東北のネットワークについては、東北地方南部の首長層への影響力を有する北関東の首長の姿がみえ、その時期に東北地方南部に大型古墳がみられないことを考えるうえでも、示唆に富むものといえよう(以下略)。


(『石製模造品による葬送と祭祀 正直古墳群』佐久間正明/2023年)

ただ、群馬の大首長の影響は5C中ごろには弱まり、5C後半には郡山でも阿武隈川流域から栃木県にかけての、新しいグループが再形成されていったんだそうだ。


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太田天神山古墳

太田天神山古墳

なるほど会津には能登、中通りには群馬となると、太平洋側の浜通り(いわき市・相馬市)の動向も気になるところだが、いかんせん、一遍にまわるには福島県は広すぎた。


でも、鹿島神・香取神の北上・・・なんて面白そうなテーマもある地域なので、浜通りも次の機会をみつけて、是非とも回ってきたいもんだ。


東北の国造たち 〜鹽竈神社と雷神山古墳の謎〜」につづく