富士山本宮浅間大社と弥生時代の富士山の噴火

富士山本宮浅間大社の湧玉池

二階建て本殿

静岡県富士宮市の駿河国一の宮「富士山本宮浅間大社」。

天孫ニニギが地上で娶ったコノハナノサクヤヒメ(木花開耶姫)を祭神とする「浅間神社」、全国1300社の総本社だ。


社殿はあの徳川家康の造営によるとかで、本殿が二階建ての「浅間造」という珍しい形式だ。

富士宮市

上の写真は、富士山本宮浅間大社の近くにある「 富士山世界遺産センター」最上階の展望ホールから撮った富士宮市。


鳥居の向きを見れば分かるように、浅間大社は富士山を背に負ってない。富士山をご神体とするのに、拝殿からは富士山を拝めない。45度、ずれている。

湧玉池

そもそも、富士山の噴火への備えとして富士山本宮浅間大社がこの地に選ばれたのは、境内にある「湧玉池」の存在が理由らしい。池には富士山の雪解け水が、一日約30万トンも湧出するという。


この水の力で富士山の火を鎮められないか、と昔の人は考えたんだと『関東の聖地と神社』という旅行ガイドには書いてあった(JTBパブリッシング/2013年)。

なるほど、まずは湧玉池ありきということか、と改めてグーグルマップなど開いてみれば、富士山本宮浅間大社は富士山頂から見て南西の方角、すなわち「裏鬼門」に建っていることが分かる。


それでは、と富士山頂から北東を見れば「北口本宮冨士浅間神社」(富士吉田市)という大きな神社が「鬼門」に鎮座していると分かる。

(江戸城の鬼門には「寛永寺」、裏鬼門には「増上寺」というのは有名な話だ)


そう言えば鬼門や裏鬼門には「鏡」を置くと良い、と風水の本には書いてあるが、富士山本宮浅間大社の湧玉池は、この「鏡」を意味してるんだろうか。


あえて富士山と正対しない社殿も、「裏鬼門」であることを強調しているような、気がしないでもない(個人の感想です)。

北口本宮冨士浅間神社

(北口本宮冨士浅間神社)

孝霊天皇と滝沢火砕流

ところで富士山本宮浅間大社の社伝によれば、第7代孝霊天皇の御代に富士山が噴火して、住民たちが離散したのだという。


だが、ウィキペディア「富士山の噴火史等に記載されてる通説では、正史での富士山噴火の初見は「続日本紀」天応元年(781年)7月条であり、それ以前は噴火は起こっていなかった、とされている。

富士登山ハンドブック

それで調べてみたところ、「富士自然動物園協会」という社団法人が発行していたハンドブックに、西暦200〜300年頃の事件として「噴火。天然木炭の C14による推定」という記述を見つけた。


ただ、このハンドブックには、それをどこのどなたが「推定」したかが書かれてないので困ったが、ググってみたら、産総研「地質調査総合センター」のサイトに、元ネタと思われる記事を見つけることができた。

富士山の噴火年代と噴出物

富士山の噴火年代と噴出物)

どうやらサイト中の表にある「滝沢火砕流」が、孝霊天皇の御代の噴火に当たりそうだ。 


孝霊天皇の在位は、長浜浩明さんの計算によれば西暦110〜148年で、地質調査総合センターの推定より100年ほど古い時代になるが、まずは弥生時代後期〜古墳時代前期に、富士山の噴火があったのかどうかが、先に議論される話だろう。

山宮浅間神社と青沢溶岩流

山宮浅間神社
山宮浅間神社

富士山本宮浅間大社からクルマで10分ほど登った森の中にある「 山宮浅間神社」の鳥居と、遙拝所からの富士山の眺め。


社殿のない原始的な神社として知られる山宮浅間神社だが、「富士山世界遺産センター」で¥500で買った小冊子には面白いことが書いてあった。


なんでもこの場所は、「噴出して流れ出た青沢溶岩流の先端部」にあたるんだそうだ

富士山の祭りと伝統

東日本大震災のとき、過去に津波が遡上してきた場所には神社が建ってることが多いと聞いて、昔の人の知恵には感心させられたもんだが、ここでも神社が命を守る目印になっていたようだ。


また、「走湯山縁起」という古文書には「清寧天皇三年」に富士山が噴火したとあるが、これも正史には記述がないことを理由に、なかったことにされがちだ。


だが産総研「地質調査総合センター」のサイトには、西暦500年前後の噴出として「青沢溶岩流」の名前が挙がっており、長浜浩明さんの計算では、清寧天皇の在位は480〜485年なのだ。

まさにドンピシャのタイミングだ。

富士山麓の縄文人

大鹿窪遺跡

最後に回ったのは、山宮浅間神社を西に下った田んぼの中にある「大鹿窪遺跡」。縄文時代草創期(約15000 - 12000前)の遺跡で、日本最古の「定住集落」の跡らしい。


富士山が今の姿になったのは10000年前ぐらいの火山活動だと言うから、ここいらの縄文人は噴火を恐れて逃げていったのかと思いきや、やや北にある縄文時代成熟期(約5000〜4000前)の「千居(せんご)遺跡」には、ストーンサークルによる富士山祭祀の跡が見つかってるのだとか。


縄文人たちは、どうやら懲りずにずっと住み続けていたようだ。

なぜか危険な火山の近くに住みたがる縄文人・・・不思議な人たちだ。