出雲神話⑪熊野大社のクシミケヌとスサノオ 

〜プレ出雲氏の登場〜

出雲国造とクシミケヌ

熊野大社拝殿

松江市八雲町に鎮座する、出雲国一の宮「熊野大社」。


こちらの祭神を「熊野大神櫛御気野命(クシミケヌ)」といい、現在はスサノオの別名だとされているが、奉斎する出雲国造さんご自身はそれを否定している。

しかし、祭神クシミケヌノミコトをイザナギノミコトの聖なる御子神というところから、これをスサノオノミコトにあてて解してきたことは、賛成できない古典解釈であった。 


祭神はどこまでも熊野の大神であり、その御名をクシミケヌノミコトというとおり、穀物霊であったのである。 


(『出雲大社』千家尊統/1968年)

『出雲大社』千家尊統/1968年

奈良時代から平安初期まで、代替わりした出雲国造は上洛して天皇に「出雲国造神賀詞(かんよごと)」という寿詞(祝詞)を奏上したというが、そこでも出雲の最も尊い神として「クシミケヌ」の名が挙げられている。


ただしスサノオの名はどこにもない(大穴持はクシミケヌの後にでてくる)。


この件について『日本の神々 神社と聖地 7 山陰』(1985年)では、平安初期に現実の政治権力を完全に剥奪された出雲国造が、その宗教的権威を最大限に高めるために、祭神を「天つ神」のスサノオに習合させたのだろう、という推察がなされている。

『日本の神々 神社と聖地 7 山陰』

806〜906年のどこかで成立したとされる『先代旧事本紀』には「建速素戔烏尊は出雲の国の熊野・杵築の神宮に坐す」とあるようで、その頃にはスサノオが熊野大社と杵築大社(いまの出雲大社)の両方の祭神におさまっていたらしい。


ただ、このうち杵築大社については、833年の「令義解」という律令の解説書に「天神とは、伊勢、山代の鴨、住吉、出雲国造の斎く神等これなり。地祗とは大神、大倭、 葛木の鴨、出雲の大汝神等これなり」とあって、天つ神のスサノオ国つ神のオオクニヌシが並立していたようだ。

先代旧事本紀

オオクニヌシを祀る「プレ出雲氏」

とにかく、いずれにしても意宇の熊野大社で出雲国造が奉斎していた神は、「天つ神」のクシミケヌ(のちにスサノオ)であって、大穴持(オオクニヌシ)ではない。


んじゃ大穴持(オオクニヌシ)はどこの誰の神だったかといえば、『日本の神々』では「出雲」という地名の発祥地といわれる「仏経山」の北麓を本貫とした集団だと考えて、彼らを「プレ出雲氏」と仮称している。


仏経山の北麓というのは、要は「荒神谷遺跡」があるあたりのことだ。

命主社

(命主社)

プレ出雲氏」が杵築の地で祭祀を行った可能性は、考古学から認められるという。


『古代出雲大社の祭儀と神殿』(2005年)という本によると、出雲大社から東に200mいった「命主社」の境内にある「真名井遺跡」から江戸時代に出土した青銅器には、当時の記録をみると「剣」が含まれていたそうだ(現存しない)。


その大きさは「中細形銅剣C類」なる銅剣とほぼ同じで、つまり荒神谷遺跡に埋納された、あの銅剣と同じものだったんじゃないか、という指摘があるらしい。


ただ仮にそうだとしても、プレ出雲氏といえば、青銅器祭祀をやめて「四隅突出型墳丘墓」の祭祀にシフトした人々なわけで、杵築での祭祀も小規模なものだったようだ。

ヤマトが祀る「出雲大神」

大寺古墳案内板

さて3世紀前半には、「西谷9号墓」という巨大な四隅突出型を築造するまでに繁栄したプレ出雲氏だったが、族長の「出雲振根」がヤマトの四道将軍に誅殺されたあと「四分五裂の状態」(日本の神々)になり、「出雲の大神」の祭祀は途絶えていたと日本書紀は書く。


それを知った第10代崇神天皇の勅命で、「大神」の祭祀は再開したというが、その後の「杵築の祭祀」が、ヤマトの主導で進められたことは本当のことらしい。


まず、出雲大社から国道431号線を東に5㎞すすむと、4世紀後半の築造とされる「大寺一号墳」という全長52mの前方後円墳が現れる。

もちろん出雲では初の「前方後円墳」だが、地元の研究者の共通認識は、「ヤマトが打ち込んだクサビ」だろうということだ。

出雲大社境内から出土した玉類

また、出雲大社の境内からは、平成12年の発掘調査で「祭祀系遺物」としてメノウ製勾玉や滑石製の勾玉・臼玉、手捏ね土器などが見つかっているが、それらは出雲では珍しいもので「国家祭祀としての大和の祭祀形態の影響」をみることが可能だという。

(『古代出雲大社の祭儀と神殿』)

出雲・伊勢・大和の祭りの共通点

もっと面白い話が、下の「図7」。

平成12、14年の調査で判明した、8世紀までの出雲大社境内の「川」の流れを表している。

古代出雲大社・境内の川の流れ

境内を南北に流れる二本の川が、いまの「拝殿」あたりで「Y」字に合流し、背後は「山」という「外界とは隔絶された小空間」が、本来の出雲大社の立地だったと上掲の本はいうわけだが、実はよく似た立地の神社が他にもある。


あの伊勢の皇大神宮(内宮)、別宮筆頭の「荒祭宮(あらまつりのみや)」だ。

伊勢神宮の内宮要図

(「図38 内宮要図」から切り抜き)

図38の出典は『伊勢神宮の考古学』穂積裕昌/2013年。

荒祭宮は、南北を小支谷に扶まれた尾根筋の頂部に位置し、しかも文久元(1861)年の「度会郡字治郷之図」(神宮文庫所蔵)によれば南側の小支谷の上流部には井(御井)が存在した。

南北の小支谷は荒祭宮の西側で合流し、五十鈴川へと排出された。 


これは、伊賀市城之越遺跡など古墳時代祭祀場との立地上の共通点であり、また初瀬川と纒向川に挟まれた瑞垣の地に位置する三輪山麓の大神神社の立地とも共通する。


以上のことは、内宮、特に荒祭宮の立地部分が古墳時代祭祀場の占地としても典型的であることを示すとともに、その立地が地域内の事情ではなく、汎国的なレベルで決定されている可能性を示唆している。

荒祭宮からも5世紀の祭祀系遺物が出土しているそうだが、「出雲」「大和」「伊勢」で中心的だった祭祀場の立地が、皆きわめて似ているというFACTはまことに興味深い。


それによって5世紀の出雲が、何か特別な「裏事情」があった場所ではなくなるわけで、「出雲の大神」の祭祀も、まだ他と大して変わらないものだったんだろう。

荒祭宮

アメノホヒに「なる」出雲国造

出雲の祭祀の変遷については、こんな話もある。


第82代出雲国造の千家尊統さんによれば、出雲臣の祖神・天穂日命(アメノホヒ)とは信仰の対象というよりも、国造自身がそれに「なる」存在なんだそうだ。


新しい国造は「神火相続の火継式」でアメノホヒとなり、遠い昔に高天原と交わした約束を守って、オオクニヌシを祀っているんだそうだ。


ところが面白いことに、毎年11月23日に行われる「古伝新嘗祭」において、今度は国造は、祀られる側のオオクニヌシとなって、かつてオオクニヌシが祀った神々の祭祀を執り行うのだという。


下の図10は、江戸時代前期(1694年)の「御供の儀式」の「御内殿」「国造」「神饌」の配置になるが、ここでは国造が御内殿(ご神体)にケツを向けて、神職から奉仕されていることが見て取れる。

(『古代出雲大社の祭儀と神殿』)


ここでは国造が「神」だった。

江戸時代前期の御供の図(出雲大社)

ただややこしいのは、この「図10」の30年ほど前の1666年に、毛利の殿さまが寄進した銅鳥居には、「素盞嗚尊は雲陽の大社の神なり」と刻まれていて、おそらく図10の「御内殿(ご神体)」もスサノオだった可能性があること。


でも杵築大社のスサノオは元々は「クシミケヌ」だったわけで、それだと純粋な信仰の対象であって、人間が「なる」ようなものではない・・・。

銅鳥居

てな案配で、出雲の神はほんと複雑で、例えばオオクニヌシが「幽冥界の王」なんてのも、明治時代に国造さんご自身が、「祭神論争」のなかでオオクニヌシをそう定義してからの話だという。

出雲が「死者の国」だというのは、当の出雲がそう宣伝したことで、歴史の秘密でも謎でもなんでもないというわけだ。



出雲神話⑫ヤマトタケルの建部と出雲族の東遷」につづく