日向「西都原古墳群」の「女狭穂塚」「男狭穂塚」の被葬者

九州最強、西都原古墳群

鬼の窟(いわや)古墳外観

宮崎県の真ん中へん、西都市に広がる「西都原(さいとばる)古墳群」。 

その最後の首長墓と見なされるのが上の写真「206号墳」で、通称「鬼の窟(いわや)古墳」。


6世紀末に造られた、巨石を用いた畿内型の横穴式石室を採用した円墳で、周囲に土塁状の周堤を巡らしているあたりは、蘇我馬子の墓ともいわれる奈良県の「石舞台古墳」に似た設計なんだとか。

男狭穂塚古墳・女狭穂塚古墳復元図/地中レーダー探査の結果

(出典『古墳時代の南九州の雄 西都原古墳群』東憲章/2017年)

西都原古墳群は、九州最大の前方後円墳「女狭穂塚(めさほづか)古墳」(176m)と、わが国最大の帆立貝形古墳の「男狭穂塚(おさほづか)古墳」(176m)を中心に、九州では「原(はる)」と呼ばれる台地の上に300基以上の古墳が密集する、日本最大級の古墳エリアだ。


その全盛期は、「女狭穂塚」と「男狭穂塚」が築造された5世紀前半というから、中央では応神天皇〜允恭天皇の時代に当たる。


西都原では4世紀の初頭には前方後円墳の造営が始まっているが、そのサイズは50m強と大きいものではなかった。


その時代の日向の首長墓は、西都原から20キロ南に行った宮崎市、大淀川河畔の丘陵地帯に造営された「生目(いきめ)古墳群」にあっ た。

景行天皇と生目古墳群

生目5号墳 宮崎市公式サイト

(生目5号墳 宮崎市公式サイト)

日本書紀によれば第12代景行天皇が、朝貢してこない熊襲を討つために軍を起こしたのは、その12年8月のこと(長浜浩明さんの計算では西暦296年ごろ)。


11月に日向の「高屋宮」を行宮とした天皇は、12月には計略によって「熊襲梟帥(くまそたける)」を亡き者にすると、翌13年5月には「襲国(そのくに)」の平定を完了したという。


景行天皇はそのまま6年(実際には3年)のあいだ高屋宮に留まると、地元の「御刀媛(みはかしひめ)」を妃として、「豊国別(とよくにわけ)皇子」を得ている。


『先代旧事本紀』には、その「豊国別皇子」の三世孫(ひ孫)にあたる「老男(おいお)」が、応神天皇の御世に、初代の「日向国造」に定められたと書いてある。

大淀川 写真AC

(大淀川 写真AC)

宮崎市の「生目古墳群」に初めての首長墓、120mの前方後円墳「生目一号墳」が築造されたのは4世紀前半というから、西暦300年前後に誕生した「豊国別皇子」のお墓にしてはチト早すぎる。


その被葬者を日本書紀から探すなら、「生目一号墳」は景行妃の「御刀媛」が丁度いいか。


その息子の「豊国別皇子」には、4世紀中ごろに築造され、古墳時代前期(3C中〜4C後半)としては九州最大のサイズを誇った137mの前方後円墳「生目3号墳」が相応しいか。


ただ、生目古墳群に「首長墓」が造られたのは4世紀後半までで、4世紀末には100キロ南の大隅半島、鹿児島県肝属郡に、154mの前方後円墳「唐仁(とうじん)大塚古墳」が築造されている。

唐仁古墳群 鹿児島県公式サイト

(唐仁古墳群 鹿児島県公式サイト)

生目古墳群が、南九州の覇者として継続できなかった理由について、考古学者の北郷泰道さんは、当時の宮崎平野の地形を原因として挙げている。


古墳時代の大淀川は大きく4つの流域に別れていて、河川に囲まれた限られた島状の微高地だけでは、生活域と墓域には狭すぎたのだそうだ。


一方、西都原がある一ツ瀬川流域には、水田耕作可能な平野部と、畑作に向いた「原」があって、生活域と墓域を収容できる十分な土地があったという。


南九州では、河川ではなく台地を制した者こそが覇者となり得たのである」(北郷泰道)

西都原古墳群とヤマト

『古墳時代の南九州の雄 西都原古墳群』東憲章/2017年

さて、5世紀前半に九州最大の「女狭穂塚」と「男狭穂塚」が築造される以前から、西都原には前方後円墳が造営されていた。


それらは当然といえば当然だが、ヤマトの指導に基づく造営だったようだ。


考古学者の東憲章さんによれば、西都原では最古、4世紀初頭の前方後円墳「81号墳」(53.7m)は、奈良県桜井市の「纒向石塚古墳」との相似性が指摘されてるのだという。


また、4世紀末築造の「46号墳」(83.6m)には、周堀内に「島状施設」が認められるが、それは同時期の大阪府藤井寺市の「津堂城山古墳」や、神戸市の「五色塚古墳」と類似したものだという。


さらに「女狭穂塚古墳」は、古市古墳群の「仲津山古墳」(290m)を5分の3に縮小した相似形のうえ、その「陪塚」も仲津山と同様に「方形」なのだという。

『古墳時代の南九州の雄 西都原古墳群』東憲章/2017年

(出典『古墳時代の南九州の雄 西都原古墳群』東憲章/2017年)

面白いことに、仲津山相似形の「女狭穂塚」からはヨコハケ主体の「畿内的埴輪」が出土しているのに対し、日本最大の帆立貝形(もしくは日本最大の造り出し付き円墳)の「男狭穂塚」からはタテハケ主体の「非畿内的埴輪」が出土しているのだそうだ。


そして、「男狭穂塚」の「非畿内的」なハニワは、西都原古墳群の周辺にある古墳群の中でも、特に大型の前方後円墳に採用されているのだとか。


ほとんど同時期に仲良く並んで築造された「女狭穂塚」と「男狭穂塚」だが、出土するハニワの違いは一体何を意味しているんだろうか。

「女狭穂塚古墳」と「男狭穂塚古墳」の被葬者は?

日本書紀によると、応神天皇11年(西暦394年ごろ)、天皇は日向の「諸県君(もろがたのきみ)」の「牛諸井(うしもろい)」の娘、「髪長媛」が美人だという評判を聞いて、都に招聘している。


ところが来朝した髪長姫は即位前の仁徳天皇に一目惚れされ、応神天皇はヒメを息子に譲ったのだという。


あるいは「一説」として、高齢のため朝廷への出仕が厳しくなった「諸県君牛」は、引退に際し娘の髪長媛を天皇に奉ったともいう———。

『西都原古墳群』北郷泰道/2005年

北郷さんは、5世紀前半に築造された「女狭穂塚」と「男狭穂塚」の被葬者について「磐井に匹敵する人物として『記紀』の上に登場しているはず」と考察され、ズバリ「髪長媛」と「牛諸井」の親子を想定されている。


まぁ記紀の古墳時代全体を通してみても、それなりの分量を割かれている日向出身者はこの二人しかいないので、他の候補はいないと言えばいない。


それに、北郷さんによれば、5世紀代には配偶者は故郷に「帰葬」された、と考えられる例があるんだそうだ。

また、髪長媛が故郷に葬られたとするのは、出土人骨の親族関係の分析結果、上ノ原横穴墓群(大分県三光村)などで配偶者が合葬されず、故郷に帰葬されたと推定される五世紀代の被葬例からいって、不思議なことではない。


(『西都原古墳群』北郷泰道/2005年)

ぼくも、古市古墳群の「仲津山古墳」の相似形で「畿内的埴輪」が出土するという「女狭穂塚」は、仁徳天皇のお妃・髪長媛が故郷に「帰葬」されたという説には納得できる。


一方で、同じ全長ではあるが前方後円墳ではなく帆立貝形で、周辺の日向の首長層と同じ「非畿内的埴輪」が出土するという「男狭穂塚」は、日向国造の血縁者などが相応しいと思う。


北郷さんは、初代の日向国造「老男(おいお)」とは「牛諸井の子ないしは甥、髪長媛の兄弟ないし従兄弟といった存在」を想定されているが、はげしく同意だ。


上毛野・下毛野の分割と「太田天神山古墳」の被葬者につづく