神功皇后は「卑弥呼」か

〜神功皇后は「天照大神」か

「伊都国」とヤマト

平原一号墓

福岡県糸島市の弥生墳丘墓で「平原一号墓」。

14x12mの「方形周溝墓」で、卑弥呼の時代の「伊都国」の王墓だと考えられている。


伊都国は、邪馬台国の「玄関」とも言える海外交易の窓口で、「魏志倭人伝」には以下のような記述がある。

東南に陸路を行くと、五百里で伊都国に到着する。長官をネギといい、副官をエモコ・ヘゴコという。千戸余りの人家がある。代々、王が治めている。

以上の国はどれも、女王の国に統治されている。帯方郡の使いが往来するときは、いつも、ここに泊まる。


女王国から北の地には、特に一人の統率者を置いて諸国をとりしまらせていて、諸国もこれを恐れはばかっている。

その統率者は、つねに伊都国に駐屯して統治の任にあたり、中国の刺史のようなものである。


(『倭国伝』講談社学術文庫)

この、邪馬台国の「北」にあったと言う伊都国が、再び歴史に現れたのは第14代仲哀天皇8年春正月のこと。


日本書紀によればこの時、「伊覩県主」の祖「五十迹手(いとて)」は、船を「勾玉」「鏡」「剣」で飾って「穴門の引嶋(下関市彦島)」まで天皇を出迎えて、恭順してきたという。


長浜浩明さんの計算によれば、仲哀天皇8年は西暦354年ごろのことになる。

平原一号墓

九州に対する親征が行われたのは、仲哀天皇が初めてではない。

おじいさんにあたる第12代景行天皇は、その12年から19年の間(296〜299年頃)、「熊襲」の征討を目的に、大分〜宮崎〜熊本〜長崎〜福岡の巡幸を行っている。


日本書紀によると、このとき景行天皇の道案内を務めた一人に「水沼県主」の「猿大海」がいるが、神代紀に「宗像三女神は筑紫の水沼君が祀る神」とあるように、この人は「宗像氏」だったようだ。


また「肥前国風土記」では、「阿曇の連・百足」が皇軍の威力偵察を務めている場面もあって、魏志倭人伝がいうところの「奴国」も、すでにヤマトに臣従していたようだ。


それから50年が経ち、頑なにヤマトに降らなかった勢力が、ようやく恭順してきたというのが、「伊覩県主」の祖「五十迹手」(と「岡県主」の祖「熊鰐」)のエピソードなのだろう。

邪馬台国の「残党狩り」

鳥装のシャーマン想像模型

(鳥装のシャーマン想像模型『大和の考古学』)

残念ながら、仲哀天皇は9年2月に急逝してしまったが、その志を継いだ神功皇后の動きは素早かった。


3月、吉備臣の祖「鴨別」を派遣して「熊襲」を降すと、つづいて「荷持田村(福岡県朝倉市)」の翼が生えていて空を飛ぶという賊「羽白熊鷲」を討伐。

さらに南下して「山門県」(福岡県山門郡) の土蜘蛛「田油津媛」を誅すると、4月には「松浦県」に入った。


この松浦県で、神功皇后は新羅征討の決意を固めたというわけだが、ここまでに出てきた地名が実に味わい深い。


朝倉市や山門郡といえば邪馬台国の所在地候補として知られるし、伊都国につづいては「末盧国(まつらこく)」も登場。

この後、神功皇后が出産された「宇美」には不弥国だと見る説もある。


まさに、神功皇后 in 魏志倭人伝ワールドだ。

景行天皇の巡幸路と神功皇后の征討路

仲哀天皇と、その志を受け継いだ神功皇后の目的が、邪馬台国の残党狩りによる北部九州の平定だったと、ぼくが思う理由が上のGoogle マップ。


緑のマークが景行天皇の巡幸路で、赤のマークが仲哀天皇が計画し(?)神功皇后が実行した征討路。

これを見ると、景行天皇が玄界灘沿岸の北部九州を回避したのが一目瞭然だが、まだ「岡県主」や「伊覩県主」が抵抗勢力として存在していたためだったのだろう。


50年以上の時間をかけて、ついに鹿児島県を除く九州の大半が、ヤマトの勢力下に置かれたのだった。

「狗奴国」はどうなったのか

九州本島で古墳時代前期において箱式石棺の出土数の多い「市と町」ベスト10

(出典『邪馬台国は福岡県朝倉市にあった!!』安本美典/2019年)

そういえば「狗奴国」はどうなったんだろうか。


魏志倭人伝によれば、邪馬台国の「北」には「伊都国」があり、「南」には「狗奴国」があったという。


もしも伊都国が「糸島市」のあたりにあったのなら、「狗奴国」はその南のまた南、いまの熊本平野あたりが想定されるが、景行天皇が熊本界隈で戦闘状態に入ったとは日本書紀には書いていない。


上の「図18」は「邪馬台国九州説」の巨人・安本美典さんの本からの引用で「古墳時代前期(※250〜400年)の九州における箱式石棺の出土数」を表すグラフ。


「箱式石棺」は、北部九州の上級国民に広く使われたお墓で、弥生時代後期の段階では福岡県から267基が出土しているのに対し、熊本県はわずかに2基。


ところが続く古墳時代に入ると、福岡県朝倉市に次ぐ出土数は、熊本県天草市、熊本県熊本市、と全く様相が変わっている。


データを素直に受け取れば、古墳時代の早い段階で「狗奴国」は北部九州の勢力に飲み込まれ、北部九州の文化圏に組み込まれていた・・・となるような気がする。


景行天皇が熊本県内を何の抵抗も受けずに巡幸できたのは、そこにはもう「狗奴国」の残党はいなかったからなんだろう(熊襲として鹿児島県に引っ込んだかどうかは不明)。


【関連記事】『狗奴国浪漫』邪馬台国時代の熊本

神功皇后と「倭の女王(卑弥呼)」

日本書紀

ところで昔から、日本書紀「神功皇后摂政紀」に、『魏志』からの「倭の女王」についての引用が含まれることから、日本書紀の編纂者たちが、神功皇后と卑弥呼を「同一視」していたというような説に、一定の支持がある。


該当箇所はこうだ。

三十九年。この年は、太歳己未である。

〔『魏志』は、「明帝景初三年六月、倭の女王、大夫難斗米等を遣わして郡に詣り、天子に詣りて朝献せんことを求む。太守鄧夏、吏を遣わし、将て送りて、京都に詣らしむ」といっている。〕


四十年。

〔『魏志』は、「正始元年、建忠校尉梯携等を遣わして、詔書・印綬を奉りて、倭国に詣らしむ」といっている。〕


四十三年。

〔『魏志』は、「正始四年、倭王、また使大夫伊声音・掖耶約等八人を遣わして上献す」といっている。〕


(『日本書紀・上』中公文庫)

だが、こうやって和訳だけを見ると、「同一視」でも何の問題もない気がするが、実は現物を見ると全く印象が異なったりする。


現物では「年」は書いてあるが「本文」はなく、「割り書き(注釈)」だけが小さな文字で書かれているという「異質」な状態が、ビジュアル的に理解できてしまうのだ。


(Kindle版の国会図書館コレクションより¥110)

Kindle版の国会図書館コレクション

ちなみに「魏志云」の三箇所のあとの「四十六春三月」にも小さい文字の「割り書き(注釈)」があるが、そこに書いてあるのは、「斯摩宿爾は何という名の氏の人かわからない」と言う軽いもの。


ならば三つの「魏志云」も、日本書紀の編纂者にとってはその程度の重みしかないものなんじゃないだろうか。


決定的なのは、日本書紀の編纂者は『魏志』から引用した「四十三年」よりも、後の出来事も知っているということだ。


つづく「神功皇后四十七年」。

この年は、『魏志』によれば倭の女王が死んだ年(卑弥呼以死)に当たるが、神功皇后は元気いっぱいだ。


日本書紀の編纂者たちは、卑弥呼が死んで20年以上経った「六十九年」になってから、神功皇后が崩御したことを自分で記しているわけだから、当然、この両者が全くの別人であることを知っている。


これを「同一視」していたというのなら、編纂者は統合失調症が疑われるレベルだろう。

神功皇后と「天照大神」

住吉大社

(住吉大社)

神功皇后を「天照大神」のモデルとする説を見かけたこともあるが、それも無理な話だろう。

なぜなら神功皇后は、この時代の「アマテラス」と実際に接触しているからだ。


日本書紀によれば、仲哀天皇を祟り殺したと思われる神々を、神功皇后が降ろしたときに現れたのは次の四柱。

①神風の伊勢国の百伝う度逢県の拆鈴五十鈴宮におります神、名は撞賢木厳之御魂天疎向津媛命


②幡荻穂に出し私だが、尾田の吾田節の淡郡におる神

 

③天事代虚事代玉籤入彦厳之事代神


④日向国の橘小門の水底にあって、水葉も稚やかに出でいる神、名は表筒男•中簡男•底筒男の神

このうち③は「事代主神」、④は「住吉三神」なので、今回の話題とは関係ない。


問題は①と②で、この神々がふたたび神功皇后の前に現れたときの名乗りがこう。

①天照大神

②稚日女尊

『生田神社』加藤隆久/2005年

②のワカヒルメという神は、折口信夫によれば志摩国の「粟郡」の神だとされ、つまりは現在、志摩国一の宮 「伊雑宮(いざわぐう)」で祀られている神を指すのだという。

(『生田神社』加藤隆久/2005年)


その「伊雑宮」で祀られている神の正体は、今ではまったく分からなくなってるそうだが、祀っていた人は分かる。

志摩の海部「磯部氏」だ。


つまりはワカヒルメは「海人の神」だということだ。

伊雑宮

伊雑宮

さてアマテラスだ。


ぼくがここでの「アマテラス」に感じる違和感は、その神がワカヒルメやコトシロヌシや住吉三神と、まったくの「同格」に扱われている点だ。


しかも仲間を募ってゾロゾロ現れたうえに、今上天皇を祟り殺すって・・・、この神ホントに「皇祖神」なんだろうか。


神話学者の松前健さんは、この「アマテラス」は本人が言うように「伊勢」の「度会」の「五十鈴宮」の神で、要は伊勢地方最大の豪族、度会氏が祀っていた「海人の神」だろうと書かれている。

この神宮の鎮座する度会(わたらい)も、『皇大神宮儀式帳』に「百船の度会県」といわれているように、漁船の行き交う船着き場であったし、外宮の禰冝家であって、伊勢国造家と同族といわれる度会氏も、また内宮の大内人という神職の家であり、サルダビコの裔だと伝える宇治土公(うじどこ)氏なども、ともにもとは磯部(いそべ)氏と呼ばれ、 いわば漁民の長ともいうべきものであった。


(中略)アマテラスの前身と思われる前述の天照(あまてる)神、天照御魂神も、ほとんどが海人に関係している


アマテル神をまつる豪族の尾張氏も別名を「海部(あまべ)氏」と呼ばれていたし、その分族の多くが、凡海の連、大海人部直などと海人系氏族であったことも、間接に参考となろう。


(「アマテラスの出自」『日本神話の謎がよくわかる本』松前健/1994年)

『日本神話の謎がよくわかる本』

仲哀天皇の皇軍は、紀伊から長門に船団で移動したと思われるが、船を出したのは誰だったのだろう。


武内宿禰が関係する「紀氏」の水軍は当然として、不足を補うとしたら、近隣の「熊野」「志摩」「伊勢」あたりの海人だったんじゃないだろうか。


ならば、このとき現れた「アマテラス」が伊勢の水軍の守り神で、その立場は志摩の水軍の守り神「ワカヒルメ」と同格だったとしても不思議ではないことになる。


ちなみにこのときの「アマテラス」にはチト気になる点があって、男神である「事代主神」には女性の祭主がつき、女神である「稚日女尊」には男性の祭主がついたのに対し、「天照大神」についたのは女性の祭主だったのだ。


つまりこのときの「アマテラス」は、男神だった可能性がある・・・。


ま、その真偽はともかく、このときの「アマテラス」はまだ「皇祖神」ではなくて、どうやら伊勢の地方神に過ぎず、仲哀天皇や神功皇后はそういう神として「アマテラス」に接していたようだ。


結局のところ、日本書紀の編纂者たちから見て、4世紀半ばの「アマテラス」が神功皇后とイメージを共有するようなことは全くなく、それは『魏志』のいう「倭の女王」も同じことだったのだろうと、ぼくは思う。


西暦355年頃、応神天皇の誕生 〜河内政権論と反論」につづく