西暦237年頃、出雲振根、誅殺される

(四隅突出型の終焉と出雲族の東遷)

四隅突出型墳丘墓の終焉

四隅突出型墳丘墓のジオラマ

出雲弥生の森博物館」に展示されていた、四隅突出型墳丘墓のジオラマ。

「西谷三号墓」で進められている、初代"出雲王"の葬儀の準備が再現されていた。


西谷三号墓からは、丹後・越の土器が21%、吉備の土器が14%も出土していて、近隣から大勢の弔問客が訪れた大規模な葬儀だったようだ。

出雲の弥生墳丘墓の変遷

(出典『出雲王と四隅突出型墳丘墓 西谷墳墓群』渡辺貞幸/2018年)

四隅突出型墳丘墓は出雲市だけではなく、東部の安来市でも造営されていて、どちらも形状や石の並べ方がよく似ていることから、西暦200年ごろにはすでに、後の"出雲国"につながる地域のまとまりが生まれていたと考えられるんだそうだ。


ところが上の「図57」で分かるように、それからしばらく経った西暦250年ごろまでには、出雲地域から四隅突出型墳丘墓の築造が完全に終焉してしまう。

こりゃ、一体どういうことか。

日本書紀の出雲振根

出雲国の地図

実は、そのヒントと思われることが、正史・日本書紀には書いてある(西暦は長浜浩明さんの計算による)。


まず崇神天皇の60年(西暦237年頃)からしばらくして、出雲の族長・出雲振根(ふるね)がヤマトに不満を持っているとして、四道将軍の吉備津彦武渟川別に誅殺される事件が起こっている。


つづいて垂仁天皇26年(255年頃)、重臣の物部十千根が派遣されて、出雲の「神宝」の検校を行っている。

古代において「神宝」を奪われることは、部族の降伏を意味したそうだ(岡田精司)。


考古学のFACTもある。

出雲国風土記と古代遺跡

一つは、「倭国大乱」の時代に全国につくられた「高地性集落」が、出雲では後期末(3C中頃)に多く作られていること。

つまり250年頃が、出雲が対外的にもっとも緊張した時期だったということ。

(『出雲国風土記と古代遺跡』勝部昭)

弥生興亡 女王・卑弥呼の登場

もう一つが、西谷三号墓の頃には出雲に多数持ちこまれていた吉備の土器が、3C前半にはスッカリ消えてしまったということ。

代わって増えたのは、畿内系の土器だったという。

(『弥生興亡 女王・卑弥呼の登場』石野博信)

というかんじで、日本書紀と考古学のいずれもが、西暦250年前後にヤマトから軍事的な圧力を受けた出雲が、ついには降伏してしまったことを告げているように、ぼくには思えるのだった。

古墳時代の出雲の古墳状況

出雲の古墳の変遷

(出典『八雲立つ風土記の丘 常設展示図録』)

さて四隅突出型が消えた西暦250年以降の、出雲地域の「古墳」の歴史を表にまとめたのが上の図。

はじめは四隅突出型の勢いを残した東部(安来市)が優勢で、やがて中央部(松江市)が勢力を増していく。

だがこの間、西部(出雲市)は一貫して非常にお寒い状況だ。

あの西谷墳墓群を造営した一族は、一体どこに消えてしまったのだろう。

関東に跋扈する出雲系国造

神門5号墳

ところかわって、千葉県は市原市。

3世紀半ば(西暦250年前後)に築造されたという、関東最古級の前方後円墳が「神門(ごうど)5号墳」だ。


いわゆる「纒向(まきむく)型」といわれる墳墓で、3C初頭から半ばにかけて、奈良盆地はもちろん、岡山県総社市や兵庫県姫路市、徳島県鳴門市などにも造られて、あの「箸墓(はしはか)古墳」のプロトタイプとなったものの一つらしい。


ところで古墳時代の市原市あたりは「上海上(かみつうなかみ)」と呼ばれた国だったが、不思議なことに国造さんの家系は、遠い山陰の「出雲」の出身なんだという。


それで興味が湧いて、国造に詳しい「先代旧事本紀」を開いてみたところ、出雲系なのは上海上に限らず、武蔵とか相模とか、関東一円に広がっていると書いてあった。


でもなぜ出雲に出自を持つ国造が、関東にウヨウヨいるんだろう。

出雲と意宇(おう)

出雲国の村々

出雲振根の誅殺事件を、もうちょっと詳しく見ればこうだ。

西暦237年頃、出雲はヤマトから神宝の提出を命じられたが、そのとき出雲王の「出雲振根(ふるね)」は筑紫に出張中で、代わりに次男の「飯入根(いいいりね)」が、三男の「甘美韓日狭(うましからひさ)」の親子に命じて神宝を提出させたという。


筑紫から帰国した出雲振根が、これを恨んで次男の「飯入根」を殺害すると、三男の「甘美韓日狭」が事件をヤマトに報告。

出動した四道将軍の手で、振根は葬られたという。


日本書紀は彼らを「兄弟」だというが、本当だろうか。


実は「先代旧事本紀」には、甘美韓日狭の子「鸕濡渟(うかずくぬ)」こそが、初代の出雲国造だと書いてある。

出雲国造の本来の奉斎社といえば、松江市の「熊野大社」。

つまり出雲振根の弟たちは、出雲ではなく「意宇(松江)」の人たちだったってことだ。


実際、5世紀のヤマトに出仕していた出雲臣の祖は「淤宇宿禰(おうのすくね)」という名で日本書紀に記録されている(出雲国造家の系図では「意宇足奴命」)。

出雲族の東遷

日本書紀の景行紀には、ヤマトタケルが東征で捕虜にした蝦夷たちを、伊勢神宮に献上したという記事がある。

そうして段々と近畿以西に移住させられた蝦夷たちは、のちに「佐伯部」という職能集団に編成されたのだという。


同様のことは南の隼人でも行われたし、記紀編纂の時代でも、降伏した蝦夷を「俘囚」と呼んで各地に移住させていたらしい。


この、ごく当たり前で特筆する必要もない移住政策の先駆けが、3世紀後半の出雲に行われたのだとしたら、どうだろう。

とんでん

ヤマトをバックにつけた「意宇」との争いに敗れた「出雲」は降伏し、四道将軍や物部の軍に編入された。

そして彼らは、蝦夷を追い払いながら東国に入植する「屯田」を行い、その忠誠と功績を評価されて、西暦320年頃、入植地の国造に任命された・・・。


そんなような事情でもあれば、関東に出雲系の国造が多い理由の説明になると思うんだが。

(※地図の出典は、いずれも島根県公式サイト)


西暦242年頃、天日槍(アメノヒボコ)来日」につづく