葛城と山城の「賀茂氏」と「秦氏」
賀茂別雷神社と賀茂御祖神社
京都市北区に鎮座する、山城国一の宮「賀茂別雷(わけいかづち)神社」(上賀茂神社)。
古来、最上位の社格のカテゴリーとしては「名神大社」「一宮」「二十二社」「四方拝」「官幣大社」「勅祭社」あたりが挙げられると思うが、その全てに該当する唯一の神社が、こちら「賀茂別雷神社」と「賀茂御祖神社」。
二社合わせて「賀茂神社」と総称する。
別格である伊勢神宮を除けば、ずっと日本最高の社格を維持してきたという感じか(2023春参詣)。
祭神は、社名のとおり「別雷大神」。
学生社の『上賀茂神社』(建内光儀/2003年)によると、茨城県東海村に日本ではじめて運用された原子力発電所の守護神は、「別雷大神」なんだそうだ。
もともと関東では鎌倉時代から「雷除け」としての雷神信仰が広まっていたが、いつしかそれは電気産業の守り神に変わっていたのだとか。
こっちの楼門は、別雷大神の母「玉依姫(たまよりひめ)命」と祖父「賀茂建角身(たけつのみ)命」を祀る、京都市左京区の「賀茂御祖(みおや)神社」(下鴨神社)のもの。
「山城国風土記」の「逸文」によると、ワケイカヅチの祖父・タケツノミは神武天皇の先導役として日向に降臨し、はじめは大倭の「葛木山」の峯に、つづいて北上して山代の「岡田の賀茂」に移り、さらに鴨川を遡上して現在の場所に鎮座したのだという。
葛城の鴨氏の北上
この大和「葛木」から南山城「岡田」、山城「賀茂」へのタケツノミの移動は、5世紀半ば、大豪族の葛城氏が滅亡したあと、それまで葛木に居住していた「鴨氏」が実際に移住を重ねたルートそのものだと考えられているらしい。
歴史学者の平林章仁さんによれば、5世紀前半の鴨氏は葛城氏の下で「水運・海運業の維持、経営の実務に従事」していて、「金属加工に不可欠な良質の木炭生産」なども担っていたんだそうだ。
ところが鴨氏の盟主である大豪族・葛城氏は、安康天皇3年(長浜浩明さんの計算で457年ごろ)、即位前の雄略天皇に攻められて、当主の「円(つぶら)大臣」が焼き殺されてしまう。
するとその事件を境にして、葛城氏の拠点集落である「南郷遺跡群」には大きな変化が起こったことが確認できるのだとか。
(葛城氏の居館・復原模型 『大和の考古学』より)
「橿原考古学研究所附属博物館」の公式サイトによれば、5世紀中葉までの南郷遺跡群は「韓半島系渡来人が推進する鉄器生産を核とした手工業生産を経済基盤」としていたという。
ところが葛城氏が滅亡した5世紀後半は「大壁建物が各所に樹立されて、技術者系ではなく知識人系渡来人が主導する集落へと大きく変貌した」んだそうだ。
じゃあ葛城氏の繁栄と権勢を支えた「技術者系」の渡来人たちはどこへ行ってしまったのか。
彼らは鴨氏とともに葛城を離れて、北を目指した。
それがのちに「秦(はた)氏」といわれるようになる、渡来系集団だったそうだ。
秦氏の登場
日本書紀によると応神天皇の14年(396年ごろ)、百済の「弓月君」が帰化してきたが、その人夫(たみ)は新羅の妨害で加羅国に留め置かれていた。
天皇は「葛城襲津彦」を派遣するが、三年経っても帰還しないので、あらためて平群宿禰らを派兵して、襲津彦と弓月の民を奪還したという。
日本書紀に書いてあるのはここまでだが、平安時代の貴族名鑑『新撰姓氏録』には続きがあって、応神天皇は弓月君とその配下の民に「大和の朝津間の腋上の地」を下賜して居住させたという。
これが山城国諸蕃の筆頭「秦 忌寸(いみき)」のルーツだ。
下賜された「腋上の地」は現在の奈良県御所市で、山城秦氏の前身となる集団は、その地で「葛城氏の手で私的に掌握されていた」と、歴史学者の加藤謙吉さんは推察されている。
岡田鴨神社と葛城氏の権益
(岡田鴨神社 木津川市観光協会)
上の写真は葛城氏滅亡後、葛木の地を離れた鴨氏と秦氏が、最初に移住した場所だという京都府木津川市で、タケツノミを祀る「岡田鴨神社」。
『日本の神々5 山城・近江』(1985年)に収録された古代史研究家・大和岩雄さんの論考によると、「岡田の賀茂」のあたりは古代の交通の要衝で、鴨氏と秦氏の移住について「それが一氏族の単なる恣意的移動を意味するものではない」「国家権力によって強制的にその地に定住せしめられた」ということだ。
つまり移住の実態は、近江から紀伊にかけての「水運」を牛耳っていた「葛城氏の権益を王権の支配下に置くための移住であった」。
平林さんによれば、鴨氏は「㈱葛城水運」の実務者なんだから、その権益の全てを知り尽くしていたことだろう。まさに打ってつけの人材だ。
賀茂のタケツノミが神武天皇を先導したという伝承は、そうやって鴨氏が山城においてヤマトの尖兵的役割を果たしたことの、神話的表現だろうと大和さんは書かれている。
(木津川 写真AC)
賀茂氏と秦氏の深い関係
賀茂氏と秦氏は、姻戚関係を結んでいたという伝承もあるそうだ。
秦氏の氏神「伏見稲荷大社」に残る系図によれば、稲荷大社を創始した秦伊侶具(いろぐ)は「鴨県主久治良」の子で、同じく氏神「松尾大社」創始者・秦都理(とり)は「鴨禰冝板持」と兄弟なのだという(『日本の神々』)。
まぁ今いち良く分からない系譜だが、とにかく「両者」には深い繋がりがあることを主張しているもののようだ。
(三柱鳥居 写真AC)
ところで大和岩雄さんによれば、5世紀後半に始まっている上賀茂神社の祭祀に対し、下鴨神社の方は「風土記」に言及がないことから、奈良時代中期の8世紀半ばの創始が考えられるとのことだ。
そしてそのころには、賀茂氏と秦氏の関係が「さらに深まった」といえるのが、大和さん作成のこの図。
(出典『日本の神々 神社と聖地5』)
珍しい「三柱鳥居」で知られる秦氏の氏神「木嶋坐天照御魂神社」。
この鳥居からは「比叡山」の最高峰「四明岳(しめいがたけ)」を遙拝できるが、そのラインを伸ばした先にあるのが、同じく秦氏の氏神「松尾大社」。
そしてもう一つ、この遙拝線上に鎮座するのが下鴨神社(賀茂御祖神社)と来れば、大和さんいわく「下社がこの地に創始された理由が推察できる」というわけ。
(日吉大社 写真AC)
なお、比叡山の地主の神「大山咋(おおやまくい)神」を祀るのが、滋賀県大津市の「日吉大社」だが、こちらは元々は「日枝山」の山頂に鎮座していたのだという。
んで、日吉大社の創始以来の禰冝(祠官)である「祝部氏」が、実は賀茂氏の出身だと聞けば、上のレイラインの全てが賀茂氏と秦氏の祭祀をつなぐ直線だったのだと、完全な理解に至るという話。
「秦氏はユダヤ人か(八幡神と京都の神社)」につづく