西暦151年頃までに、第8代孝元天皇、河内の姫をお妃に

(五斗長垣内遺跡)

淡路島の「五斗長垣内遺跡」

五斗長垣内遺跡

日本書紀によれば、第8代孝元天皇は7年までに、河内の青玉繁(あおたまかけ)の娘、「埴安媛(はにやすひめ)」を妃にして、一児をもうけたという。

長浜浩明さんの計算では、孝元天皇7年は西暦151年頃のことになる。


奈良時代に和泉国が分割されるまで、河内国は大阪湾に面していた。

大阪湾には淡路島が浮かんでいて、そこに弥生時代後期では国内最大級といわれる「鉄器」の製造工房ムラ、「五斗長垣内(ごっさかいと)遺跡」があった。

五斗長垣内遺跡

発見された23棟の竪穴建物跡のうち、12棟で鉄器製造の炉跡が見つかっていて、中には一棟で10基もの鍛冶炉をもつ建物まであったという。

むろん、鉄鏃(鉄のやじり)などの武器も出土していて、住居跡の少なさからは、鉄器製作に特化した特殊な場所だと考えられるそうだ。


ただ不思議なことに、西暦100年ごろから100年間ほど続いた五斗長垣内ムラは、西暦200年ごろに忽然とその姿を消したのだという。

素直に考えれば、何らかの理由でムラごと移住して行ったんだろうが、彼らの行き先は今のところ不明のようだ。

畿内に少ない鉄器の出土

県別 弥生時代の鉄鏃の数

さらに不思議なのは、淡路島に「国内最大級」の鉄器製造拠点があった割りには、畿内から出土した弥生時代の鉄器が少ないことだ。


上の「図5」は、古代史研究家として有名な安本美典さんが作成された「県別 弥生時代の鉄鏃の数」というグラフ。

一目見て、近畿、東海の鉄鏃(鉄のやじり)が少ないことが分かる。

京都府と兵庫県はソコソコ出てるが、当時は日本海側の丹後と但馬が含まれているので、「畿内から」とは言い切れないだろう。


だが「魏志倭人伝」によれば、卑弥呼が擁立される前の「倭国」は内戦状態にあったというし、「倭人」は「竹の矢には鉄のやじり」を使う、ともある。

ならば「鉄のやじり」が多く出土する九州北部こそが、邪馬台国の場所なんだろうか・・・。


って白々しいが(笑)、もちろん安本美典さんはこの表を根拠にして、邪馬台国が九州北部に存在したことは疑いようがない!!と断言されている。

西の鉄鏃、東の銅鏃

大集結・邪馬台国時代のクニグニ

さてこのデータだけだと弥生時代の奈良県なんか、鄙びた過疎地域にしか思えないが、実は別の「やじり」が大量に出土しているらしい。

それは青銅のやじり、「銅鏃(どうぞく)」だ。


考古学者の松木武彦氏によれば、「西(九州)の鉄鏃、東(瀬戸内東部、近畿、東海)の銅鏃といった構図」が見えているそうだ。


近畿と東海の銅鏃の数を足せば、九州の鉄鏃の数をはるかに凌駕します」。

しかもその「断面が菱形で分厚く、比較的精悍で、いずれかといえば対人用」。

(『大集結・邪馬台国時代のクニグニ』2015年)


なるほど、ヤマトの武器は銅鏃だったのか。

斬るんじゃなくて突き刺すんだから、鉄の固さより銅の鋭さの方が殺傷能力が高かったか。


んで繰り返しになるが、魏志倭人伝には「倭人」は「鉄のやじり」を使うと書いてあるのだ。

んで畿内は「銅のやじり」だ。


西暦180頃、倭国大乱と鳥取の遺跡(妻木晩田・青谷上寺地)につづく