西暦254年頃、出雲、ヤマトに降伏か

〜山代二子塚古墳と今市大念寺古墳〜

出雲、神宝を奪われる

石上神宮

(物部氏の武器庫といわれる「石上神宮」)

垂仁天皇26年、長浜浩明さんの計算だと西暦254年ごろ、ヤマトの物部十千根は勅命で出雲に赴き、「神宝」の検校を行った。

古代において「神宝」を奪われることは、部族の降伏を意味したそうだ(岡田精司)。


しかし、出雲の中でも「出雲郡」の王(族長)だった「出雲振根」は、崇神天皇60年(237年頃)に四道将軍の手で誅殺されているんだから、今回は「出雲郡」には限らないだろう。

出雲国造家の本拠地「意宇郡」を含めた、出雲全域がこのとき降伏したんじゃないか。


その根拠として、歴代の王墓とみられる「四隅突出型墳丘墓」が、3世紀半ばに完全に終焉していることが挙げられると思う。

出雲は、葬礼の独自性も奪われたんだろう。

出雲の弥生墳丘墓の変遷

神原神社古墳

神原神社古墳

さて、次に出雲に"首長墓"と見なせるお墓がつくられたのは、それから100年も経ってからのことだった。


島根県の内陸部、雲南市の「神原神社古墳」は、"卑弥呼の鏡"といわれる「景初三年」銘の三角縁神獣鏡が出土したことで有名で、4C中頃(350年前後)の築造とされる。


ただそのサイズは、一辺30mにも満たない小さな"出雲型方墳"で、同世代の丹後「蛭子山古墳」(145m)や吉備「浦間茶臼山古墳」(138m)といった前方後円墳に比べると、かなり見劣りしてしまうものだった。

大寺一号墳

大寺薬師

4C後半になると、出雲平野にもようやく前方後円墳があらわれた。


現在、出雲大社の前を通っている国道431号線を、東に10キロ行くと「大寺薬師」というお寺があって、そこの裏山が全長52mの「大寺一号墳」という前方後円墳だ。

古代出雲大社の祭儀と神殿

ただし、こいつは地元の研究者には「ヤマトが打ち込んだクサビ」だと言われていて、出雲の首長層のお墓ではないそうだ。

(『古代出雲大社の祭儀と神殿』2005年)

山代二子塚古墳

山代二子塚古墳

そして時は流れて6世紀後半、あの聖徳太子が生まれた頃の話になるが、出雲では突然、地域最大級の前方後「方」墳が松江市に、同じく最大の前方後「円」墳が出雲市に、ほとんど同時につくられた。


「山代二子塚古墳」が松江市の「方」で、全長は92m。

出雲国造家の居館だったといわれる「神魂(かもす)神社」から2kmもない場所で、まぁ当時の国造さんのお墓なんだろう。

今市大念寺古墳

今市大念寺古墳

一方、こちら「今市大念寺古墳」が出雲市の「円」で、やはり全長は92m。

JR出雲市駅からはわずか500mという好立地で、お墓参りも楽チンだったことだろう(むろん冗談)。


この両者は、フツーに考えれば対立する地域豪族によるものと思ってしまうところだが、墓室なんかは良く似た作りで「イデオロギー的親縁性」があると、古墳の専門家は書いている。

(『前方後円墳とはなにか』広瀬和雄)


つまり、対立してたのは出雲の人たちではなかった、ってことか。

6世紀の出雲 vs 意宇

出雲の古墳の変遷

古墳時代の後期、上級国民が身につけるもので最も権威があり、即ランキングに繋がったのが「装飾付大刀」なるアクセサリー。

これは中央貴族から地方豪族へのプレゼントにも使われて、グループの拡大と結束に役立てられたそうだ。


辺境の出雲にもそんな流行は押し寄せていて、西部の出雲市では「倭風大刀」が、中部の松江市では「舶載系大刀」が所有されていたという。

つまり、出雲市の豪族と、松江市の豪族(=出雲国造)は、異なる中央貴族にくっついていたわけだ。


んで6世紀後半の中央といえば、「蘇我氏」と「物部氏」が激しくバトっていた時代だった。

出雲出土の装飾大刀を検討すると、西部出雲出土のものはねじり環頭、くさび形柄頭などの伝統的倭風大刀で中央豪族の物部氏との関わり、東部出雲出土のものは単龍・三葉・獅噛・双龍など各種図像の環頭でつくられた大陸風飾り大刀で蘇我氏との結びつきで配布を受けていたが、物部氏滅亡後は出雲全体が同じような装飾大刀になるという。

(『出雲国風土記と古代遺跡』勝部昭/2002年)

出雲と物部、意宇と蘇我

おお!山川出版社の本はつねづね、教科書的で(笑)詰まらない記述ばかりと偏見を持っていたが、このリブレットは踏み込んでるな。

出雲国風土記と古代遺跡

西部(出雲市)が物部グループに属し、東部(松江市=意宇)が蘇我グループに属していたってことになると、その頃の出雲地域に忽然と現れた、出雲では史上最大級で、何故かほぼ同じサイズの「円」と「方」って、物部 vs 蘇我の場外乱闘ってことにならないだろうか。


なにしろ山代二子塚と今市大念寺の登場はあまりに唐突な印象で、そもそも出雲の人たちに100m近い古墳をつくるカネや技術ってあったんだろうか。

中央に当時最強のスポンサーがいたと考えれば、それも余裕だろうが。

さてそうなると当然気になるのが、物部氏の没落で出雲西部の権益を失った、今市大念寺古墳の被葬者一族は誰なのか、だ。


だが、手持ちの本だと出雲国造と同族の「神門(かんど)氏」の名前を見かけたものの、根拠とか裏付けが書いてなくて詳細は不明。


また、出雲国造家に出雲を追い出されたとなると、「神門氏」こそがオオクニヌシかって話もありそうなもんだが、そういう話も聞かず。

古事記外伝

ただ、蘇我氏に付いて勝者となった(?)出雲国造家も安泰ではなかったようで、大化の改新のあと制定された「国司」が中央から赴任してきて松江に「国府」をつくると、居場所を失ったか第25代出雲果安(708〜721)のとき、国造家は本拠地を現在の出雲大社がある「杵築」に移したと、『古事記外伝』(藤巻一保)などには書いてある。


西暦291年、景行天皇美濃に行幸 〜美濃の前方後方墳〜につづく