常陸のニギハヤヒと茨城県の神社
〜多氏と鹿島神宮〜
常陸国・稲村神社のニギハヤヒ
物部氏の祖神「ニギハヤヒ(饒速日)」を祀る、常陸太田市の式内社「稲村神社」の一の鳥居(2021初夏参詣)。
「式内社」というのは、平安時代に朝廷が公認した官社のリストに掲載されている由緒正しい古社のことで、常陸国には28座が存在する。
その中でニギハヤヒを祀るのは、こちら稲村神社の一社だけだ。
晴れた初夏の昼下がりに参詣したんだが、一言「寂しい」場所だった。
遠くから農家の草刈り機の音が聞こえてくるだけで、それが止むと静寂あるのみ。
オッサンのぼくらでも、少々薄気味悪いほどだった。
それにしても、こんな辺鄙な場所(失礼!)に、なにゆえニギハヤヒ?と不思議になったが、古代にこの辺りを治めていた「久自国造」が物部氏の出身だったからのようだ。
河内国のニギハヤヒ
ニギハヤヒ信仰のメッカといえば、 河内国だろう。
ざっと数えてみたが、河内にはニギハヤヒを祭神として祀る「式内社」が12座もある。
「饒速日山」なんてのもあって、昔その山頂には「 石切劔箭神社」の「上社」が鎮座していたという。
ニギハヤヒは太陽神らしいので、山麓の「日下」という地名にも、深い意味があるようだ。
あー、もちろん「現在の」祭神から古い民間信仰を推し量る愚については、知っているつもりだ。
例えば「タケミナカタ(建御名方)」を祀る「諏訪神社」は、フツーに考えれば本社の「諏訪大社」が鎮座する長野県に多く分布していそうなもんだが、実際には新潟県が一番多い。
1984年の諏訪大社の調査によれば、1位の新潟県は1595社で県内総神社数の 20%近くを占め、2位長野の1152社、3位群馬の451社、4位埼玉の318社、5位富山の225社をぶっちぎっている。
(諏訪大社・下社)
ところで物部氏には『先代旧事本紀』という自作の歴史書があって、ここにはニギハヤヒと一緒に「天孫降臨」した25の物部族のリストが掲載されている。
その物部25族の「出自地」を高名な民俗学者・谷川健一さんの『白鳥伝説』(1986年)から数えてみると、上位は大和11、筑前10、摂津6、河内5、和泉4ということで、物部氏の拠点が九州と畿内にあったことがよく分かる。
谷川さんの主張する、物部氏の九州からの「東遷」の根拠も、こんなところにあるようだ。
※なお、各部族の出自の推測地は複数あるので、合計は25より多い。
しかしそれだと、遙かな東国にポツンと暮らしている常陸太田市の「久自国造」物部氏が寂しそうに思えてくるが、いやいや、物部氏はそんな可愛いタマじゃない。
「国造本紀」によれば、「遠淡海国造」「参河国造」「伊豆国造」など、東海地方の遠州灘に面したエリアは、ほとんど物部氏が国造を張っていたようだ。
(香取神宮)
香取神宮と鹿島神宮
それに、常陸で物部氏が奉斎した式内社が稲村神社だけだとしても、ちょっと南に行けばアレがあるじゃないか。
下総国一の宮「香取神宮」の祭祀氏族が物部氏だったことは、谷川さんはもちろん、大和(おおわ)岩雄さんも『日本の神々11関東』(1985年)で書かれていることだ。
香取の「神郡」が物部氏が建てた匝瑳郡(そうさぐん)と信太郡(しだぐん)に挟まれている点、大禰冝を務めた「香取連」が「物部小事」を祖としている点などから、香取神宮=物部氏というのは間違いのない話らしい。
でも香取=物部は分かったとして、お隣の「鹿島神宮」の方はどうなんだろ。
たしか香取神宮と鹿島神宮は「香取海」を挟んで鎮座して、機能的にもペアで対をなすと神社の入門書などには書いてあるけど、鹿島の方は誰が祀っていた神なんだろうか。
それで手持ちの本をパラパラめくってみたところ、意見は二分していた。
一つは、鹿島も物部氏が奉斎していたという説。
岡田精司さんの『神社の古代史』(1985)によれば、歴史学の丸山二郎、神話学の松前健といった人たちが、鹿島=物部を説かれているそうだ。
ただ、香取も鹿島も物部氏だとすると、なんでわざわざ二つあるのかが分からない気もしてくる。
諏訪大社なんか4つの神社で一つの信仰を形成してたりするし、香取・鹿島も「西社・東社」でも良くね?と若者風に言ってみたくもなる。
それで『白鳥伝説』を開いてみると、鹿島の祭祀氏族は「多氏」で、彼らがまず鹿島神を祀ったところに続いてやってきた物部氏が対抗して、香取に氏神「ふつのみたま」を祀ったのだ、という歴史学者・太田亮さんの説が紹介されていた。
・・・むむ、でもそもそも「多氏」とは誰ぞや。
大井神社のタケカシマ
水戸名物?納豆ラーメンで腹を満たしたぼくらは、その「多氏」が関係するという神社を回ってきた。
まずは水戸市の北部に鎮座する「大井神社」。
こちらの祭神を「タケカシマ(建借馬命)」と言って、崇神天皇の時代(長浜浩明さんの計算で在位207〜241年)に東国を平定したといわれる人物だ。
んでタケカシマはそのまま水戸〜ひたちなか市を治める「仲国造」に就任したとされるんだが、この人の出自が「多氏」だそうだ。
さらに元を辿れば神武天皇の次男(神八井耳命)にさかのぼるということなので、今なら「宮家」に当たるのか、とにかく尊い家柄 だ。
ちなみにタケカシマの軍勢が歌った「杵島曲(きしまぶり)」は『肥前国風土記』にも載るそうで、多氏も(物部氏同様に)やはり九州とは縁が深いらしい。
大生神社と大生古墳群
多氏が元々の鹿島の祭祀氏族だった説の裏付けに、鹿島神宮に近い潮来市に造営された「大生(おおう)古墳群」」の存在がある。
古墳は5世紀のもので、大小さまざまな形で110基以上もあって、往年の多氏の勢力を物語っているんだそうだ。
んでその中心にあるのが「大生神社」で、ここはメッチャ渋い神社だった。
さぞかし格も高いのでは、と歩きながらネットで検索してみると、なんとここは「鹿島の本宮」とも「元鹿島の宮」とも言われる古社で、鹿島神宮とはただならぬ深い関係があるという。
でも、あれれ?
鹿島神宮といえば中臣(藤原)氏と深い関係があって、祭神の「タケミカヅチ(武甕槌)」は奈良の「春日大社」でも中臣(藤原)氏の氏神と一緒に祀られている。
多氏と中臣(藤原)氏、一体どっちがより深い関係なんだ?
春日風の「今の鹿島」?
(鹿島神宮)
ざっくり結論だけ言ってしまえば、鹿島神宮は元々は多氏が奉斎していたが、8世紀に中臣(藤原)氏に乗っ取られた、というのが『日本の神々11』での大和岩雄さんの説だ。
それは西暦746年のことで、中臣部・卜部を「中臣鹿島連」に昇格させて鹿島の祭祀氏族に成り上がらせた上で、768年、鹿島神を奈良の春日大社に遷宮させた、という経緯が正史に記録されている。
大和さんは、タケミカヅチも「藤原氏の氏神」だと断言されているが、なるほど、正史でタケミカヅチが鹿島の祭神だと明記されたのは836年が初出で、たしかに「記紀」には「タケミカヅチ」の活躍が出てくるが、地元の「常陸国風土記」では「鹿島の大神(香島天之大神)」としか呼ばれていない(物部氏のフツヌシの方は"普都大神"と呼ばれて登場している)。
つまりは「記紀」だけだとタケミカヅチが鹿島の神かどうかは不明で、中臣(藤原)氏が河内の「枚岡神社」で祀ってた氏神をフツヌシの相棒役にぶっ込んできて以来、だんだんと鹿島に縁のある神に設定されていった・・・という可能性があるってことか。
※なお、大生神社が「元鹿島」だというのは、乗っ取りとは別の経緯があるんだが、話がゴチャつくので割愛する。
で、とにかくそんなヨソ者の中臣(藤原)氏に好き勝手されて、気分のいい人がいるわけがない。
大和さんはいくつかの古文書を紹介して、それらに「今の鹿島」という表現が残されていることに注目する。むろん「今の鹿島」とは、「春日風鹿島神」のことだ。
昔の鹿島?大洗磯前神社
(大洗磯前神社)
駐車場に停めたクルマを降りた瞬間、ここは只者ではない、と感じる神社があるという。霊感ゼロのぼくらにも、それが分かったのが「大洗磯前神社」だ。
さて大和さんは、「今の鹿島」は藤原氏に「乗っ取られた神」で、「まやかし」「ニセモノ」だという意識を、9世紀の茨城県民は持っていたという。
そして事件が起こる。
多氏や物部氏の活躍で、東北の陸奥国にも鹿島の分社がたくさん建てられていたが、この神々が事もあろうに、本社の鹿島神宮に祟りをなしたのだ。
このときの疫病の猛威は、鹿島神宮の境内にも及ぶものだったという。
それで848年、鹿島神宮の宮司が奉幣に向かったところ、陸奥国の側から拒否されて、関を閉鎖されてしまった。
それで困った宮司が中央政府に対し、陸奥国の関の出入りを許可するよう下知してほしいと請願した内容が、正史の「日本三代実録」にあるそうだ。
鹿島の分社が本社に祟る・・・って、神道の「分霊=コピペ」の観念から考えて、あり得ない話だ。
だがもしも、それがあり得たのだとしたら、それらが実は別の神だった場合だろう。
オオクニヌシ、常陸に現る
(酒列磯前神社)
そんなさなか、大洗海岸に突如として、オオクニヌシとスクナヒコナの神が示現したという報告が上がってきた。そしてこの二神が祀られたのが 名神大社「大洗磯前神社」と同「酒列磯前神社」のコンビ。
まぁ、裏の事情は誰にでも察しがつくところだ。
鹿島神宮を中央の藤原・中臣氏らが強引に氏神にしてしまったため、本来の鹿島神的性格をもつ官社を作ろうとして、那賀国造系の人々と鹿島の神官がしめし合わせて「上言」した。
(『日本の神々11関東』)
大和さんによれば、かつては大洗磯前神社の大祭は鹿島神宮の神官が行ったというし、その内容も鹿島の本来の神事といえるものだったそうだ。
多氏が執り行った"むかしの鹿島"の祭祀は、すべて大洗磯前神社が継承したということか。