纒向遺跡は邪馬台国の女王、卑弥呼の宮殿か

『考古学から見た邪馬台国大和説』

纒向遺跡

(写真AC)

邪馬台国はどこにあったんだろうか。

その候補の一つが、奈良県桜井市の「纒向(まきむく)遺跡」だ。


三輪山から大和川にかけて東西2キロ、南北2キロの大遺跡で、2009年には(上の写真の)「神殿」とも「宮殿」とも言われる大型建造物も見つかって、人口7万戸を擁する卑弥呼の都はここで決まり!と盛り上がったそうだ。


問題としては奈良県が、「倭国」の交易センターの「伊都国」や、大工業地帯の「奴国」からは遠すぎるところか。

伊都国が神戸市、奴国が堺市にあるって言うんなら、話は簡単なんだが。

 纒向遺跡は、180年から350年にかけて突然あらわれ、そして突然に消滅した。自然発生の集落ではない。人工的につくられた政治都市である。

(『邪馬台国の候補地 纒向遺跡』石野博信/2008年)

纒向遺跡、発掘の責任者の一人が、当時橿原考古学研究所」の所員だった関川尚功さん。


地元、奈良県の学者さんだし、邪馬台国=畿内説の論者かと思いきや、2020年の著書『考古学から見た邪馬台国大和説』では、邪馬台国の所在は大和(畿内)ではあり得ない、と断言されている。

考古学から見た邪馬台国大和説

むろん論点は多岐にわたるが、ぼくら一般人でも分かりやすいファクトを挙げると、次の3点か。


纒向には「環濠」がなく開放的で、魏志倭人伝の卑弥呼の宮殿の描写とはマッチしない。

纒向から出土した外来の土器は東海系が多く、九州北部の土器は出てこない。

「漢鏡」など大陸産の青銅器が出土しない。


つまり、纒向は卑弥呼が朝貢していた「魏(ぎ)」とも、「倭国」の中核をなす「伊都国」「奴国」とも、丸っきり縁がない場所ってことのようだ。

土器を見るかぎり、纒向の勢力圏は、西は出雲・吉備まで、東は東海まで、ということらしい。

箱式石棺から見る二つの日本

県別弥生時代後期箱式石棺の出土数

(出典『邪馬台国は福岡県朝倉市にあった!!』安本美典)

これを九州側から見ると、こんなグラフが参考になる。


卑弥呼の時代、九州では上級国民の遺体を「箱式石棺」で埋葬したが、それが多く出土するのは山口、広島まで。

岡山からフェードアウトが始まって、兵庫で消滅する。グラフに出てない県は、みなゼロ個だ。


こうしてみると卑弥呼の時代には、「九州北部+山口+広島」というグループと、「出雲+吉備+近畿+東海」というグループと、大きく二つの勢力が存在していたように思える。


また、魏志倭人伝には、「倭人」は遺体を「棺」には収めるが、その外箱の「槨」は使わないと書いてある(其死、有棺無槨)。

だが、「槨」が墳丘墓から検出された地域もあって、それが出雲・吉備・讃岐・大和・近江などだ。


素直に考えれば、魏の使者が知っていた「倭」には、出雲・吉備・讃岐・大和・近江あたりは含まれていないってことになるんじゃないか。


※「槨」についてはこちら「邪馬台国への道(3)不弥国」

纒向の土器から見る日本

纒向の外来系土器の比率

(出典『邪馬台国の候補地 纒向遺跡』2010年)

纒向遺跡、発掘のもう一人の責任者が、関川さんの同僚だった石野博信さん。

面白いことに、ずっと関川さんと机を並べていた?のに、石野さんは邪馬台国=畿内説の支持者だ。


ただしプロの学者なので、もちろんファクトは共有されている。

「図13」は石野さんの本が出典だが、たしかに、纒向から九州の土器は出土していない。

ならば九州にある伊都国や奴国は、大陸との交易品を何に入れて、「邪馬台国」まで運んだんだろう。


石野さんによれば、纒向が九州と繋がるのは3世紀も終わりの頃だ。

その時代に博多遺跡で使われていた鉄器製造の道具が、纒向遺跡からも出土しているんだそうだ。


ただし、3世紀末といえば卑弥呼は50年も前に死んでいて、13才で後を継いだトヨ(イヨ)がヨボヨボの老人になってる時代の話になる。

弥生興亡 女王・卑弥呼の登場

実はぼくは、石野さんが畿内説を支持するのは、家庭の事情とかお家の事情とか、何か訳ありの支持なんじゃないかと疑っていたりする。

著書を読んでいると、畿内説の論者だと自称する割りには、挙げられてるファクトからは逆の主張(九州説)が感じられて仕方ないからだ。


2010年の『弥生興亡 女王・卑弥呼の登場』(文英堂)から、いくつかファクトを挙げてみると、こうだ。

●2C〜3C中葉の鉄器の出土数は、北部九州の4002個に対して、近畿南部は308個で、10倍以上の開きがある(※九州が最強)。

●倭人伝によれば、邪馬台国は「ヒメヒコ制」の政体だったが、他にも糸島市や行橋市、日田市の遺跡からもヒメヒコ制が確認できる(※ぜんぶ九州)。

●大和の土器は、3C後半になって福岡市や糸島市から出はじめるが、朝鮮半島からは出てこない(※大和は大陸と縁がない)。


要は、3世紀半ばに大陸と深いつながりを持ち、最新の鉄器をガンガン利用できた大国は、九州北部にあったということだろう。

『大集結・邪馬台国時代のクニグニ』

ちなみに、魏志倭人伝には「倭人」は「竹の矢には鉄のやじり」を使うとあるが、松木武彦さんの調べによると、近畿では鉄ではなく「銅」のやじりが使われたそうだ。


たしかに近畿界隈の「鉄鏃」は貧弱だが、銅をかき集めれば九州の鉄鏃の数を超えるんだそうだ。

(『大集結・邪馬台国時代のクニグニ』2015年)

ところで石野さんの本は、後半が3人の学者の鼎談になっていて、最後の最後、奈良のホケノ山古墳の話題で盛り上がったとき、石野さんはこんなことを言い出した。


「だから邪馬台国が九州にあったとしても、それとは無関係に大和には同時期に、列島最大の墓を作る一族がいたというのは事実です」


司会者が、だけど石野さんは「畿内ー大和」論者ですよね、と聞くと

「そうですね、心情としては大和説ですが、いつも講演では"今日は大和説です"といってます(笑)」

《追記》『ヤマト王権の古代学』坂靖

『ヤマト王権の古代学』坂靖

実は、纒向遺跡が東西2キロ、南北2キロまで拡大したのは「布留式期」、ざっくり西暦でいえば290〜350年のことらしい。

やはり橿原考古学研究所に勤務された、考古学者の坂靖さんはこう書かれている

纏向遺跡は近年、邪馬台国の所在地論争においても欠かせないものとなっているが、邪馬台国の時代(庄内式期)の遺跡範囲は狭く、大阪平野や北部九州のそれにおよばない

纏向遺跡は、「おおやまと」古墳群が形成される時期(布留式期)に集落の規模が大きく拡大する。

(『ヤマト王権の古代学』2020年)

卑弥呼の時代の纒向遺跡は、せいぜい1平方キロほどの規模で、近畿地方でも最大とは言えなかったそうだ。

それじゃ、当時の畿内最大の集落はどこかというと、「河内」にあった。

大阪市平野区から八尾市にかけて、南北3.5キロ、東西1キロにわたって広がっていたという「中田遺跡群」がそれだ。

現状では、上の地図のように「萱振遺跡」「東郷遺跡」「小阪合遺跡」などとバラバラに把握されているが、坂さんは「一括して中田遺跡群と称されるべき」だといわれる。

西にある「加美遺跡」「久宝寺遺跡」も同じく庄内式期の遺跡だ。


さて、仮に纒向遺跡が「邪馬台国」で卑弥呼の宮都だとした場合、それを遙かに凌ぐ規模の「中田遺跡群」は、魏志倭人伝の何という国にあたるんだろうか。


箸墓古墳は邪馬台国の女王・卑弥呼のお墓かにつづく