伊勢と志摩のサルタヒコ神社

〜太陽神か魔除けの神か〜

夫婦岩

夫婦岩

伊勢を代表する名勝のひとつ、二見の「夫婦岩」。 

今は江戸時代の地震の影響で水没して見えないが、サルタヒコの生誕地とも降臨地ともいわれて信仰を集めてきた巨岩「興玉神石」の、天然の鳥居の役目を果たしていたのだという。


思ってたより岸に近くて、すげー迫力だったな。

サルタヒコ考

伊勢を歩けばサルタヒコに当たる。

日本神話では天孫降臨に登場して、ニニギを地上に導いたとされるサルタヒコは、今では「道開きの神」として広く信仰されているが、実はかなり複雑な神さまらしい。


一冊丸ごとをサルタヒコの考察に費やした『サルタヒコ考 』(飯田道夫/1998年)の冒頭に、こんな引用がある。

室町時代に成った卜部兼邦の「兼邦百首歌抄」は猿田彦について、「神宮にては興玉神、山王にては早尾、熱田にては源太夫道祖神とも言い、衢の神ともいへり。幸神ともいへり。船にて船玉ともいへり。又、幸魂ともいへり。蹴鞠の坪においては鞠の明神とあらはる」と述べ、別の個所では、「出雲にては手なづち足なづち、打おろしにては白鬚の明神」と追記する。

見ての通りの異名の数々で、「地主神」として祀られている神社も、上記の他に春日大社、住吉大社、多賀大社など、数えるのが面倒くさくなるほどだ。

サルタヒコを「導きの神」とだけ捉えてては、その正体は見えてこないと飯田さんはいう。

猿田彦神社

猿田彦神社

皇大神宮の前にドーンと鎮座する「猿田彦神社」。

こちらの猿田彦は、元は長らく伊勢神宮で禰冝につぐ重職をつとめてきた宇治土公(うじとこ)氏が、家内神として祀ってきた神だそうだ。


明治維新の神祇制度の改革で神官の世襲制が廃止されて、神宮を離れた宇治土公さんが明治初年に創建したのがこの猿田彦神社。

サルタヒコは宇治土公さんのご先祖に当たるのだとか。

伊雑宮

伊雑宮

皇大神宮の別宮にして、志摩国一の宮でもある「伊雑宮(いざわのみや)」。

この界隈は宇治土公さんの出身地でもあるそうだ。


宇治土公さんは昔の名を「磯部」といい、志摩半島・伊雑浦の「海人」だったのだろうと、飯田さんは推測している。

そこで祀られていたサルタヒコは、伊雑神の「神田」の神だったのだろうという話だ。

二見興玉神社

二見興玉神社

伊勢市の「二見興玉神社」。

やがて伊雑を離れた宇治土公さんは、二見の地でサルタヒコとともに「興玉神」を祀るようになった。「興玉」は「沖魂」で、海人の神だ。

ところが次第にこの二神は混同され、習合してしまった。


今も皇大神宮の御垣内には、ぼくら一般人から見えない場所で「興玉神」が祀られてる。 

それは地主神サルタヒコの異名として祀られているわけだが、本来「興玉」は伊勢の海人の神で、サルタヒコは「稲田の神」。

両者は別物だったと飯田さんは書いている。

椿大神社と都波岐神社

椿大神社

ここで宇治土公さんとはお別れして、クルマを北に走らせる。


鈴鹿市の、入道ヶ岳の山麓に鎮座する伊勢国一の宮「椿大神社(つばきおおかみやしろ)」もサルタヒコを祀る。社伝によれば、こちらの世襲神主・山本家もサルタヒコの神裔なんだそうだ。


境内は隅々まで浄められていて、深い森には滝があったり、岸信介総理の植樹があったり、神前式の花嫁行列をながめたりと、まー絵に描いたようないい神社だった。

都波岐神社

実は、伊勢国一の宮を名乗る神社はもう一社あって、同じく鈴鹿市の「都波岐神社(つばきじんじゃ)」。


こちらも歴史の古さでは椿大神社に引けを取らないんだが、いかんせん、国道から近い住宅地の真ん中のコンクリート造りの拝殿ということで、見劣りするのは仕方がない。


ところでぼくらの旅の目的のひとつに、一の宮巡詣コンプリートがあって、古代史が趣味なら当然のことと意気込んでいるんだが、例えば伊勢の場合なら、椿大神社だけでもOKがマイルールだ。

御朱印も集めているので、確実に授与所が開いている「別表神社」であることは、第一条件なのだ。

ふたつの阿射加神社

小阿坂の阿射加神社

(小阿坂の阿射加神社)

鈴鹿市から南に戻って、松阪市へ。 

阿阪山のふもとに南北1キロに満たない間隔で、同名の「阿射加神社」が二社、鎮座している。


伊勢国の「名神大社」は(伊勢神宮を除いて)桑名の「多度大社」とこちら「阿射賀神社」だけなので、ここらがかつては伊勢中部の中心地だったことは間違いない。

それは、4世紀築造の王墓(前方後方墳)が、阿射加神社の北側に集中していることからも、確認できる。

大阿坂の阿射加神社

阿坂の阿射加神社)

両社ともに祭神は三座で、サルタヒコの他に二神を祀っているが、元は三座ともにサルタヒコだったという説もある。

「古事記」に記された、サルタヒコの「最期」はこうだ。

その猿田毗古神であるが、阿邪訶においでになったとき、漁をしていて比良夫貝に自分の手を噛み挟まれて、海水に沈み溺れた。

そして、海底に沈んでいた間の名前を、底に着く御魂といい、海水がつぶつぶに泡と立つ時の名前を、粒立つ御魂といい、その泡が海面にはじけた時の名前を、泡咲く御魂という。

(新版『古事記』/角川ソフィア文庫)

地元、松阪出身の本居宣長は、このサルタヒコの三つの「御魂」が阿射加神社の三座の祭神だと説いているそうで、つまりはここで祀られているのはサルタヒコただ一人・・・。


一人の神を三座にしてまで祀るのには、深い理由がありそうだ。

 『伊勢国風土記』の「逸文」に「安佐賀社・阿佐賀の荒神」という記事があって、内容はこう。


天照大神の遷座地を探して、ついに伊勢に辿り着いた倭姫(やまとひめ)。 

しかしその頃、安佐賀山に荒ぶる神がいて、通行人100人のうち50人を殺し、40人のうち20人を殺していた。


先に進めなくなった倭姫は事情を天皇に奏上し、最初に伊勢を平定した天日別命の子孫(大若子命)が祭祀をするようにと、勅命が下された。 

そうして荒ぶる神はようやく鎮められ、安佐賀の社に祀られたという・・・。

大阿坂の阿射加神社

ヒラブ貝に手を挟まれて溺死したサルタヒコは、殺人鬼と化して荒れ狂ったが、魂を三つに切り分けられて阿射加神社に鎮められた・・・。

・・・こ、こわい。 

そういう目で見ると、本殿につながる扉とか、ふいにギーと開いて何か出てきそうで、怖すぎる(笑)。

長い参道も薄暗く静まりかえっていて、マジでめっちゃ怖いんですよ、この神社。

サルタヒコは太陽神か

阿坂エリア関連遺跡地図

出典『伊勢神宮の考古学』

ところで神社を訪れる度に、いつも何となく社殿の向きを気にするぼくらだが、今回もさすがに伊勢だけあって、面白い傾向が見られた。


まず、明治初年創建の猿田彦神社とコンクリ製の都波岐神社は、南面。

いかにもフツーだ。

二見興玉神社は南西を向いていて、これは北東の方向にある二見沖の「興玉神石」の遙拝所とすれば、納得の向き。 

椿大神社は南東向きで、やはり背後の北西にそびえる「入道ヶ岳」を遙拝するのに都合がいい。

実際、その方向には「奥宮」も鎮座する。


では阿射加神社はというと二社ともに東向きで、西方背後の阿阪山の遙拝所と考えられる一方で、真東は神が飛来してくる聖なる方向だという大和(おおわ)岩雄さんの説も、頭に浮かんでくる。

阿射加神社は、東から来るサルタヒコを迎えるために東面しているという理屈だ。


そして東から来る、聖なるものといえば「太陽」というわけで、サルタヒコを太陽神だと見る説もある。

上の地図の引用元『伊勢神宮の考古学』(穗積裕晶/2013年)でも、4世紀の松阪の王墓が、阿阪山と阿射加神社の周辺を「避ける」ように築造されている点から、山と神社は初期の太陽崇拝の「聖地」だったのではないか、と推測している。

伊勢神宮の考古学

んーでも何か、ピンと来ないんだよな、太陽神サルタヒコ。


ここまで見てきたように、サルタヒコの神裔を称する猿田彦神社にも椿大神社にも、太陽信仰があるようには見えなかったし、近畿一帯に広がる「地主神」としてのサルタヒコ信仰にも太陽の要素はない。


もちろん『古事記外伝』(藤巻一保/2011年)で論じられてるように、天照大神が伊勢に遷座してサルタヒコから太陽神の座を奪ったという可能性もあるが、それは想像の範囲を超えていないような気もする。


強いて根拠をあげるなら、「古事記」のサルタヒコが「上は高天原を照らし、下は葦原中国を照らし」て登場した点があるが、これだって正史の日本書紀「一書」では「口のわきと目が光っていた」としか書かれてなくて、その時の呼ばれ方も「 衢(ちまた)の神」、要は単なる「分かれ道の神」だ。

太陽を意味するものは何もないし、そもそも日本書紀の「正伝(本文)」にはサルタヒコは出てこない。


じゃあサルタヒコとは何なのか。 


様々な異名で、様々な土地の「地主神」として祀られるサルタヒコの神性を追いかけた飯田さんが、ノイズを取り払って最小単位にまでそれらを分解していった結果、残ったものはこれだった。

辟邪のサルタヒコ

導き鉾守

写真は、椿大神社でいただいた「御守り」。 

この「鉾(ほこ)」こそが、サルタヒコの原像なんじゃないかと飯田さんはいう。

さらに、もっと前は、鉾から金属部分を取り去った「棒(ぼう)」。


伊雑の神田に立てられた「棒」から、平安京の四角四境に立てられた「棒」まで、サルタヒコの神性は「辟邪」つまりは「魔除け」に集約されるんじゃないか。


これを古事記にならって「導きの神」と捉えては、サルタヒコの数多の異名も、地主神としての役目も理解できなくなってしまう———というようなことが『サルタヒコ考』には書いてあったが、その正誤はぼくには分からない。


ただ、「境界の神」サルタヒコが受け入れたことで、天孫ニニギが「邪」でも「魔」でもないことが証明されたのだと考えると、「導きの神」より高次な存在をイメージさせているような気はしないでもない。