(焼津市街 写真AC)
日本書紀によれば、駿河に着いたヤマトタケルは、「賊」に「大鹿」の狩猟を勧められて野に入ったところ、放たれた火に囲まれて窮地に陥ったという。
ヤマトタケルは「燧(ひうち)」で迎え火をつけて脱出し、賊をことごとく焼き滅ぼしたので、その地は「焼津」と名付けられたという。
なお一説によれば、ヤマトタケルが身につけていた「叢雲の剣」が自然に抜けて草を薙ぎ払ったので、それ以来「草薙の剣」と呼ばれたという。
(厚木市 写真AC)
この件、古事記には異伝が載っていて、ヤマトタケルは相模国の「国造」から、野の中の大きい沼に凶暴な神がいると聞かされて、見物に出かけたところに火を放たれたという。
ヤマトタケルが伊勢でおばのヤマトヒメから貰った袋を開いてみると火打ち石が入っていたので、まず草薙剣で周囲を刈ってから、その火打ち石で向い火を起こして脱出。「国造」らを斬り殺して火で焼いたので、今もその地を「焼津」という———とある。
(厚木市街空撮 写真AC)
一見すると似たようなエピソードだが、古事記がヤマトヒメの火打ち石という「伊勢神宮の神威」を強調しているのに対し、日本書紀の本文では伊勢どころか草薙剣さえ出てこない。
ただ「一云」で、この事件が「叢雲の剣」が「草薙の剣」に名前を変えたきっかけだというのは、「語るにおつ」だと歴史学者の吉井巌さんは書かれている。
いわく「草薙の剣名によってこの話の発想が思いつかれたことを暴露している」とのことで、要は「作り話」ということだろう(『ヤマトタケル』1977年)。
まぁその是非はともかくとして、両者を比べてみると、主張(テーマ)のはっきりしない日本書紀の記述のほうが単純で、より古い時代のものという気がぼくにはするが、それもさておき、じゃあどっちのエピソードが破綻がないかといえば、ぼく個人は日本書紀の方だと思っている。
(相模国造が奉斎した「寒川神社」2020夏参詣)
ぼくが古事記の記述に感じる違和感は、まず犯人が「相武(相模)国造」だという点だ。国造はヤマトが派遣した代官、または承認した現地の有力者なんだから、ヤマトに逆らったらどんな目に遭わされるかは十分承知しているはず。
「国造本紀」によれば、相模の国造は「成務朝に、武刺国造の祖・伊勢都彦命の三世孫の弟武彦命を国造に定められた」のだという。
その武刺(武蔵)国造は出雲族の「兄多毛比(エタモヒ)」で、相模国造はその「同族」ということのようだ。
エタモヒといえば、『高橋氏文』によれば景行天皇の上総行幸には馳せ参じて料理を献上した———とある人物で、もしも同族の相模国造(弟武彦)がヤマトタケルの命を狙ったという事実があったなら、その場で景行天皇に斬り殺されたことだろう。
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つまりは相模国造にはヤマトタケルを襲う理由がないし、そもそも弟武彦が相模の国造に承認されたのは、景行天皇の次の成務天皇の御世なので、その時点ではまだ相模に国造はいなかったはず。
なお「国造本紀」には、弟武彦は「伊勢都彦命の三世孫」とあるが、「伊勢都彦命」が伊勢国風土記の逸文に出てくる「伊勢津彦」と同一人物だとしたら、世代が全く合ってない。
風土記の「伊勢津彦」が生きたのは神武天皇の時代で、その三世孫だと第4代懿徳天皇と同世代。第12代景行天皇とは数百年のタイムラグがあるわけで、ここまでズレていると「伊勢都彦」と「伊勢津彦」はまったくの別人と考えるか、あるいはテキトーな作り話と見るしかないと思う。
ただ「国造本紀」の記述には「拠るべき原資料が存在したとみられている」と専門家も書いていて、悩ましいところではある(『国造』篠川賢/2021年)。
(「岡田遺跡」2020夏見物)
話を戻すと、歴代の相模国造が奉斎したとされる神社が、名神大社で相模国一の宮の「寒川神社」。
こちらは縄文時代から聖地とされ、すぐ近くの「岡田遺跡」は住居阯が1500軒近く推定される日本屈指の縄文集落だったようだ(現地案内板)。弥生後期の住居阯や方形周溝墓もみつかっていて、途切れることなく営まれた相模の中心地だったそうだ。
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んで、今でこそ湘南海岸からは相模川を7kmほど遡上した立地にある寒川神社は、古墳時代には海っペリにあったと分かるのが、下の「図3−4」。
(出典『日本の聖地文化』鎌田東二/2012年)
仮にヤマトタケルが補給かなにかの理由で相模国造と接触したとすると、ここまで湾の奥まで船で入ったことになるわけで、そうなると俄然シンクロしてくるのが、そこからさらに相模川を北上した海老名市に展開する墓域「秋葉山古墳群」の存在だ。
ここは3世紀後半の築造とされる前方後円形の「3号墳」(51m)や前方後方形の「4号墳」(37.5m)、そして3世紀末の本格的な前方後円墳「2号墳」(50.5m)と、連続して首長墓が造営されていた地域で、まさに相模国造家の「奥津城」にふさわしい印象がある。
もしも国造の拠点が湘南のビーチあたりだとすると、なんでまたそんな奥地に・・・と訝しくもなるが、寒川神社が相模国への入口にあるなら、むしろ墓域の静謐を守るためにも10kmほど北の海老名市ぐらいが丁度いい・・・とそんな気にさせられる立地という印象あり。
(厚木市「小野神社」2019秋参詣)
古事記が「焼津」を相模だというのに信憑性を与えているのが、それに続くオトタチバナの相聞歌(ラブソング)だ。
佐泥佐斯 佐賀牟能袁怒邇 毛由流肥能 本那迦邇多知弖 斗比斯岐美波母
さねさし 相武の小野に 燃ゆる火の 火中(ほなか)に立ちて 問ひし君はも
ヤマトタケルの身代わりに、東京湾に入水自殺したオトタチバナが歌ったとされる歌謡の中に「相武の小野」と出てくることから、「焼津」はウチだ!と主張?するのが、日本武尊を祀る厚木市の式内社「小野神社」だ。
(小野神社境内の「阿羅波婆枳神社」)
ただ、ぼくも小野神社の境内で祀られる「アラハバキ」に興味があって実際に参詣したことがあるんだが、丘陵地帯に挟まれた小川沿いに鎮座していて、なんだか窮屈な印象を受ける立地だった。
ちなみに日本武尊を祀るようになったのは明治に入ってからで、江戸時代はオモイカネの子神「天下春命」を主祭神にしていたそうだ。
オトタチバナの歌謡については、尾張のミヤズヒメの答歌が実は天武・持統時代のものだったように、その出所は別のところにあったようだ。民俗学者の谷川健一さんによると、それは「野焼きをするときの相模の労働歌」で、要は歌のイメージが物語と一致したから、古事記に採用されたものだそうだ。
この話のなかの弟橘比売命がうたった相聞歌では、相武の小野のこととされている。この歌と合わせるために相武の話としたということはだれしも考えることである。
この歌は弟橘比売命の相聞歌として物語のなかにたくみに組みこまれているが、本来は野焼きをするときの相模の農民の労働歌であったとされている。
(中略)
農民は春さきに火を放って枯草を焼き、その草の灰を肥料として種子をまく。さきの歌はそのときの情景をうたったものである。
このような焼畑耕作のための相模の農民の野焼きの歌がヤマトタケルの焼津の話のなかに混入したために、舞台は相武(相模)となってしまったのである。
(『白鳥伝説』谷川健一/1986年)
そもそもが歌謡ありきだったので、古事記にとって「焼津」の場所は、どこでも良かったってことだろうか。
あともう一点、相模説の不利をあげておくと、古事記の国造はヤマトタケルを「大きい沼」に誘い込んだとあるが、それは相模のどこにあったのか———がある。
その件、駿河説の場合はハッキリしていて、昭和40年代まで静岡市市街近辺には「浅畑沼」なる大沼が存在していたそうだ。
『古事記』のなかには国造がヤマトタケルを欺いて、野のなかにある大沼の沼の神を退治することを勧める部分がある。
太古、安倍川支流の藁科川は静岡浅間神社の前を通って東流し、竜爪山塊と有度山との間に巨大な沼地を形成していた。その終末が旧「浅畑沼」である。
(中略)
浅畑沼の周辺には「南沼上」「北沼上」「長沼」「池ヶ谷」「唐瀬(空瀬)」「瀬名」「水梨(水成)」「上土」「浮島」などの沼地・湿地地名が残っている。
『古事記』に登場する「沼」に太古の浅畑沼が影をおとしていることは確かであろう。
(『日本の神々 神社と聖地 10 東海』1986年)
相模の場合は、国造が騙った「沼の神」がどこにいたのかが定かでないが、駿河の場合ならすでに特定されている———ということになるか。
(静岡市の式内社「久佐奈岐神社」2021冬参詣)
上掲の『日本の神々 東海』によると、焼津市の一帯は膨大な天然ガスの埋蔵地で、古代なら地下から噴出するガスに野焼きの火や落雷の火が燃え移り、長期にわたって海辺で燃えつづけた可能性は、十分に考えられるという。
畏怖すべき神秘の火は、古代人にとっては神意の発現そのものであったであろうということだ。
(静岡市の式内社「草薙神社」2021冬参詣)
国造といえば、駿河国にも当然その人はいるわけで、国造本紀によれば「成務朝の御世に、物部連の祖・大新川命の子の片堅石命を国造に定められた」という。
実は駿河国以外でも、静岡県には物部氏の国造が多くいて「参河(三河)」「遠淡海(遠江)」「久努」「伊豆」なんかが物部系の国造だと、国造本紀には書いてある。
ぼくは個人的に、四道将軍で東海の攻略を担当した「武渟川別」に従軍した物部の軍団が、そのまま現地に留まって屯田した結果が、東海の物部系国造の林立かと思っているんだが、それは【関連記事】にて。
(「高尾山古墳」2022秋見学)
(出典『邪馬台国時代のクニグニ』2015年)
ま、年代はともかく「富士平野」には古くからヤマトの文化を受け入れた物証があって、そこではヤマトを代表する古豪の物部氏が国造を張っていたという話。
だが、富士平野から焼津はチト遠い。その中間の静岡市あたりは、当時どんな状況だったんだろう。
すると「国造本紀」には面白いことが書いてあって、静岡市を本拠地とする「廬原(いおはら)国造」は「成務朝の御代に、池田坂井君の祖・吉備武彦命の子の思加部彦命を国造に定められた」のだという。
文中の「吉備武彦」は、日本書紀によれば東征にゆくヤマトタケルに景行天皇がつけた、副将のうちの一人だ(もう一人は大伴武日)。
(新撰姓氏録の「盧原公」)
815年に成立した朝廷の氏族名鑑『新撰姓氏録』には、景行天皇の時代に吉備武彦が東方に派遣され、毛人やら鬼人やらを伐って「阿倍廬原国」に到り、復命した日に「廬原国」を賜ったとある。
(孫吉備武彦命。景行天皇御世。被遣東方。伐毛人及凶鬼神。到于阿倍廬原国。復命之日以廬原国給之)
その吉備武彦の子(思加部彦)が、初代の廬原国造というんだから、それまで静岡市には国造はいなかったと考えるのが自然だろう。
そしてそんなタイミングで国造が新設されたということは、静岡市に近い焼津の地で、ヤマトタケルが「賊」に襲われる事件があったから———と考えることも、これまた自然な思考の流れなんじゃないかという印象が、ぼくにはある。
(焼津からみた富士山 写真AC)
JR静岡駅のごく近くには、墳丘長110mで県内トップの規模を誇る「谷津山古墳」がある。4世紀の築造というので、文献から考えるなら、初代・廬原国造のオカベヒコのお墓である可能性がありそうだ。
景行天皇(14)につづく
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