(甲府市の「酒折宮」2022春参詣)
日本書紀によると、蝦夷を平定したヤマトタケルは日高見国を出発し、西南方向に進んで常陸を抜け、甲斐の「酒折宮」に滞在したという。
夜になって、ヤマトタケルが長旅に思いを馳せて歌を作ったところ、「火をともす者(秉燭者)」が見事な答歌を返してきたので、その者を厚く褒賞したという。
(酒折宮「拝殿」)
同じ話は古事記にも載っていて、そこでは歌を返したのは「夜警の火をたいている老人」。ヤマトタケルはその「老人」を褒めて「東国造」の称号を与えたという。
この「老人」の正体に言及しているのが、平安初期の史書『先代旧事本紀』の第10巻「国造本紀」。
それによると、甲斐の国造は景行天皇の時代に「狭穂彦王の三世孫の臣知津彦公(おみしりつひこのきみ)と、その子の塩海足尼(しおみのすくね)」が定められたという。
ヤマトタケルが甲斐で「東国造」を任命したのは景行天皇の時代のことなので、大ざっぱに考えれば「東国造=甲斐国造」ということになるんだろう。
(酒折宮寿詞)
ところで、国造本紀の甲斐国造については二つの現代語訳があるようで、ひとつは上のように「臣知津彦公」とその子「塩海足尼」の二人が任命されたというもの。
もう一つが「臣知津彦公」の子である「塩海足尼」、ただひとりが任命されたというもので、ウィキペディアなどでは塩海足尼について、「初代甲斐国造」と断定している。
(塩海足尼が創建した「美和神社」2022春参詣)
ただ国造本紀の原文をみると、誰々の子という場合、国造本紀は「兒(児)」の文字を使っていて、例えば「兄多毛比命兒伊狹知直」とか「景行帝兒神櫛王三世孫須賣保禮命」みたいな表現が、28回も登場する。
んで、子への言及で唯一の例外が甲斐国造で、原文だとこうなる。
甲裴國造。纏向日代朝世、狹穗彥王三世孫知津彥公、此子鹽海足尼、定賜國造。
ぼくは漢文の素養は全くないが、わざわざ特別な言い回しをしてるんだから、甲斐国造の「此子」とそれ以外の「兒」が同じ意味を表しているとは思えない。
(塩海足尼が創建に関与した「金櫻神社」)
なのでぼくは、初代の甲斐国造は父の「臣知津彦公」だったものの、古事記がいうようにその人は「老人」だったので、実際に甲斐の統治や開拓を担ったのは、その子「塩海足尼」だったんじゃないかと思っている。
父は名誉国造で、子が実質的な国造———というイメージで。
塩海足尼は父とともにヤマトタケルの東征軍に従軍し、まだ若い皇族将軍の同世代の腹心として、その覇業を助けたんじゃないだろうか。
(出典『古代望見』山梨県立考古博物館/2014年より抜粋)
興味深いのが甲斐地方の古墳編年で、上の図の通り、甲斐で最も古い首長墓は西暦300年頃に築造された「小平沢古墳」で、全長45mの前方後方墳だ。
甲斐ではこの一基を最初で最後に、その後はヤマト式の前方後円墳に移行している。
この前方後方墳という墳形は、3世紀前半の近江から美濃にかけての地域で発達したものだそうで、例えば滋賀県には3C前半の「神郷亀塚古墳」(36m)、3C半ばの「小松古墳」(60m)、3C後半の「冨波古墳」(42m)なんてのが知られている。
岐阜県だと「象鼻山1号墳」(42m)が有名だ。
(東近江市「神郷亀塚古墳」2022夏見学)
ところで国造本紀や古事記によると、4世紀の近江や美濃の国造の祖として名前が挙げられるのが、「彦坐王」なる人物。「淡海国造」「三野前国造」「本巣国造」などがヒコイマスの子孫だという。
この人は、系譜上は第9代開化天皇の第三皇子で、景行天皇にとっては母方の曽祖父だとされているが、ぼくは個人的に「近江王朝」を率いた”もうひとりの天皇”とでもいう人物で、何らかの事情から開化天皇の「盃」を受けて「子分」になった———つまりはヤマトへの吸収合併を推進した人だったんじゃないかと考えている。
※この件は話すと長くなるので、関連記事(↓)を。
【関連記事】彦坐王(ヒコイマス)の近江王国「伊勢遺跡」〜和珥氏と息長氏〜
んで、シオミスクネとその父の祖とされている「狭穂彦王(サホヒコ)」ってのは、実はそのヒコイマスが春日(奈良市)のお妃とのあいだに儲けた子だという。
つまりシオミスクネ親子は、前方後方墳を主な墳形としていた近江、美濃とは縁が深いヒコイマスの一族に属していたってことになるようだ。
それで、確かにサホヒコ自身は春日(奈良市)で生まれ育ったものの、この人は第11代垂仁天皇の皇后になった妹(狭穂姫)をそそのかしてクーデターを計画し、謀叛が露呈して皇軍に囲まれると自ら城に放火して、皇后もろとも焼死したという曰く付きの人物だ。
いくら皇室に、当人以外には責任を拡げない(=一族郎党を皆殺しにはしない)伝統があるといっても、サホヒコの直系の子孫が畿内でのうのうと暮らしていたとは考えにくい。なのでぼくは、シオミスクネ親子はヒコイマス以来の「祖地」である、近江や美濃で暮らしていた可能性が大きいと思う。
というわけで、近江か美濃からヤマトタケルの東征軍に参加したと思われるシオミスクネの親子のうち、「老人」である父「臣知津彦公」は先祖代々?愛着のある前方後方墳(小平沢古墳)に埋葬され、国造職を継いだ子「塩海足尼」はヤマトへの貢献が評価されて、甲斐では初となるヤマト式の前方後円墳(天神山古墳/132m)の築造を許された・・・。
———なんてところが、ぼくが国造本紀と甲斐の古墳編年をながめながら、ぼんやりと考えたことになる。
菱沼勇著『武蔵の古社』(1972年)によると、酒折宮を発ったヤマトタケルは「雁坂峠」を超えて埼玉県(秩父)に入り、荒川に沿って東に進み、いちど関東平野に出てから群馬県の「碓氷峠」に向かったという。
ここでヤマトタケルは軍勢を二手に分けて、副将の吉備武彦には「越(こし)国」の教化を命じ、自らは信濃に進んでいる。
(碓氷峠 写真AC)
国造本紀によれば、初代の科野(信濃)国造は「神八井耳命の孫の建五百建命(たけいほたつのみこと)」という人で、この人はヤマトタケルの曾祖父、第10代崇神天皇の時代に早くも国造に任命されたという。
ただ、それが本当なら信濃でその子孫がヤマトタケルの道案内をしても良さそうなもんだが、ヤマトタケルは苦労に苦労を重ねて、道なき道?を美濃まで進んでいる。
(阿蘇 写真AC)
同じく崇神天皇に任命されたという「神八井耳命の孫」には、阿蘇国造がいる。
だがこの一族も、景行天皇の九州巡幸には顔を出さず、道案内などはしていない。日本書紀によれば、阿蘇で景行天皇を出迎えたのは「阿蘇都彦」と「阿蘇都姫」と名乗る「神」だったという(しかもヤマトの男系継承とは相容れないヒメヒコ制だ!)。
———といった案配なので、ぼくは国造本紀が崇神天皇が任命したという「神八井耳命の孫」には、少々怪しさを感じていて、冷ややかな目で見ているところ。
「神八井耳命(かむやいみみのみこと)」は神武天皇の皇子で、皇位を弟(綏靖天皇)に譲って祭祀に生きたという人物。その子孫は「多氏」といって、その勢力は古事記によると「阿蘇君」や「科野国造」など19氏族にも及ぶという。
ただ正史・日本書紀は、神八井耳命を「多臣の始祖」とだけサラッと記していて、古事記とは熱量が違う。この理由については、古事記を最終的に今の形に編纂したのが「多氏」の「多人長」だからという説もある。
(森将軍塚古墳 写真AC)
(出典『主張する古墳』長野県立歴史館/2023年より抜粋)
上の編年図をみると、信濃で最も古い首長墓は松本市の「弘法山古墳」のようだ。61mの前方後方墳とのことで、初号基が「方」というのは、甲斐と同じ展開。
ただこの古墳が信濃国造のお墓かというと疑問もあって、やはり前方後円墳が継続的に造営された「北信」、いまの善光寺平の「埴科古墳群」を国造の奥津城だとする説が有力なようだ。
初代国造の「建五百建命」は、崇神天皇(長浜さんの計算で在位207−241年頃)の時代の人なので、ヤマトタケルの時代の信濃国造の名前は分からない。
でも、ま、「高遠山古墳」(55m)か「森将軍塚古墳」(100m)のいずれかの被葬者———ってことでいいんじゃないだろうか(適当w)。
(諏訪大社「下社・秋宮」2019夏参詣)
それはそうと気になったのが、4世紀までの諏訪地方に首長墓らしきものが存在しないこと。
信濃の古墳時代の祭政の中心地といえば「諏訪大社」で、阿蘇国造家に伝わる『阿蘇系図』なる古文書によれば、神八井耳命の子孫にあたる「金弓君」の子「麻背君」は、欽明天皇に仕えて信濃国造となり、「金刺」の姓を賜ったという。
金刺氏は、諏訪大社・下社の祀職の長「大祝(おおほうり)」でもあったので、政治と祭祀、両方のトップだった———ってことになるのだろう。
だが諏訪地方では、6世紀に下社・秋宮に築造された「下諏訪青塚古墳」(67m)の一基だけしか、前方後円墳はつくられなかったのだという(麻背君の墓か)。
その理由として考えられるのが、当時の諏訪地方の平地の少なさだろうか。下の図は「諏訪市博物館」が作成した諏訪湖周辺の古墳の分布を表す地図で、古墳時代、現在の平地はほとんどが湖水の中だったようだ。
諏訪大社も、金刺氏による上社・下社の管理体制が固まったのは、実は平安時代に入ってからのことだそうだ。
(出典『フネ古墳・片山古墳・一時坂古墳 解説資料集』2006年)
景行天皇(16)につづく