常陸のタケカシマと大祓祝詞の「大倭日高見国」

タケカシマ(建借間命)と姫塚古墳

姫塚古墳

茨城県大洗町の「姫塚古墳」。

3世紀中ごろに築造された、墳丘長29mの前方後「方」墳で、この地域に4世紀後半まで造営された「磯浜古墳群」の中では、最も古い墳墓だそうだ。


古墳時代の茨城県東部には「仲(那珂)」という国があって、そこの初代国造を「建借間命(タケカシマ)」という。


第10代崇神天皇の御代というから、長浜浩明さんの計算だと西暦207〜241年のどこかで、タケカシマは東国の平定に赴任したと「常陸国風土記」には書いてある。

姫塚古墳

素直に考えるなら、タイミング的には「姫塚古墳」はタケカシマのお墓だろう。

その後も「磯浜古墳群」には続けて6基が築造されて、4C中ごろの前方後「円」墳は全長100mを超える規模だ。


やがて4C後半には、タケカシマの一族は南の鹿嶋市に本拠地を移したようで、「磯浜古墳群」の終焉とほぼ時を同じくして、鹿嶋市に「宮中野古墳群」の造営が始まっている。


タケカシマの一族を「多(おお)氏」という。

古代史家の大和岩雄さんは、(のちの)鹿島神宮を最初に奉斎したのは多氏だろうと、『日本の神々 神社と聖地11』に書かれている。

黒坂命と日高見国

大杉神社

大杉神社

「常陸国風土記」によれば、常陸に赴任したタケカシマが宿営した場所が「安婆の嶋」で、現在その地に鎮座するのが「大杉神社(あんばさま)」だ。


風土記は、ここで戦ったタケカシマの知勇を謳い上げるが、彼の活躍はまだ霞ヶ浦東岸の行方郡に限られたようだ。


タケカシマの後を継いだのは、同じ多氏の「黒坂命」。

風土記によれば、黒坂命は蝦夷を追って奥州まで進軍して、見事に勝利を収めたそうだ。


だが残念なことに、黒坂命は凱旋の帰路、多珂郡(日立市)で病没してしまい、棺は車に乗せられ紅白の旗をなびかせて、本拠地の「日高見国」まで帰還したのだという。


日高見国はのちの「信太(しだ)郡」。

今はJRAの関東トレセンで知られる美浦(みほ)村のあたりのことだ。

移動する日高見国

大井神社

タケカシマを祀る「大井神社」

ところで、黒坂命の時代には霞ヶ浦の西岸にあった「日高見国」だが、ヤマトタケル東征(310年頃)の時代には、常陸国よりずっと北にあったようだ。


日本書紀には、蝦夷を平定したヤマトタケルは「日高見国」から常陸(新治、筑波)を経て、甲斐に向かったと書いてある。


日本書紀に記された方角から考えれば、この時の「日高見国」は常陸の北東、今の福島県いわき市あたりになりそうだ。

(蝦夷既平、自日高見國還之、西南歷常陸、至甲斐國、居于酒折宮)


でもその移動する日高見国って、一体なんなんだ?

『延喜式』大祓祝詞の「大倭日高見国」

延喜式

日高見国が出てくる文献は、日本書紀と風土記だけじゃない。

927年に完成した平安時代の法令集、『延喜式』におさめられている祝詞『大祓(おおはらえ)』にも、「大倭日高見之国」の名を見ることができる。

ただ、ぼくもニワカなのでニワカを論いたくはないんだが、ネットで見かけるニワカさんの中には、この「大倭日高見之国」を「大倭」と「日高見国」という二つの別の国を合わせた表現だという人がいるようだが、それはちょっと違うんじゃないかと思う。

延喜式大祓

上はAmazonで、¥330でダウンロードできる延喜式『大祓』。


真ん中に「大倭日高見之国」が見えるが、そこには続けて「安国」という文字がある。

そこは、天孫ニニギの降臨に際して「大倭日高見之国」を「安国」として定めたと、歴史を説明している箇所だ。


ところがちょっと前の9行目を見ると、ここにも「安国」と書かれている。

そこでは、「豊葦原水穂之国」を「安国」として治めなさいと、ニニギが天つ神に言われている。


でも「豊葦原水穂之国」を、「豊葦原」と「水穂之国」に分けて考える人はいないだろう。どっちも単に、日本という国への美称だからだ。

だったら「大倭日高見之国」も、同じように考えた方がいいんじゃないか?

日高見はヒノカミ(日ノ上)に由来するという松村武雄の説がもっとも納得がいく。すなわち日高見(日の上)は太陽の出る方向で、東方の地を指す。

天孫の降臨した日向からみて東方にあたる大和の国をほめたたえて、大倭日高見国と称したのである。

日高見はいつしか大和よりさらに東方に移動し、常陸信太郡の別称となり、さいごには陸奥国の北上川の流域の呼称となったのである。

(『白鳥伝説』谷川健一/1986年)

白鳥伝説

一つの祝詞の中で、「安国」という単語で等式にされる「大倭日高見之国」と「豊葦原水穂之国」。

いずれも日本という国への美称に過ぎないのに、その片方だけを取り上げて論じる行為は、「つまみ食い」とか「切り取り」というんじゃないかと、ぼくには思える。

余談

鹿島神宮

鹿島神宮の東実(とうみのる)宮司が、昭和43年に書かれた名著に『鹿島神宮』(学生社)がある。

宮司さんはこの中で大変ユニークな古代史論を展開されていて、ちょっと紹介すると、まず高天原は東国にあったと始まり、イザナギ・イザナミの「おのころ島」は筑波山のことで、そこから霞ヶ浦を通って「海(あま)降り」した天孫ニニギは、鹿児島の地に降臨(渡海)したのだそうだ。


と、聞けば誰でも荒唐無稽だと感じるだろうが、執筆当時の宮司さんには、世間を席巻する「騎馬民族征服王朝」説へのカウンターの意識があったようで、なるほど暴論には暴論だったのか!と理解すれば、宮司さんを笑うことは誰にもできない。


ただ、「常陸国風土記」を論拠にするのなら、"いいとこ取り"は問題だったんじゃないかと、少し残念に思う点もある。

というのも常陸国風土記には、天孫ニニギに付き従って天降った「綺日女命(かんはたひめ)」は、はじめ「筑紫の日向の二折の峰」に降りたと、はっきり書いてあるのだ。

それを知らんぷりするのは、どんなもんか。


もちろん、学者ではない宮司さんに全ての根拠とか整合性を求めるのは野暮天では!!という意見にも、ほとんど同意できる。


高天原」は東国・茨城県か?につづく