ヤマトタケルは成務天皇か

(常陸の倭武天皇)

常陸の出雲族

稲田神社

茨城県笠間市の「稲田神社」。


今は寂しい佇まいだが、こちら古代には「名神大社」に列し、「新治(にいはり)国造」から直接の奉斎を受けていたそうだ。

「名神大社」は要はランクAの神社で、千葉県3社、埼玉2社、神奈川1社、東京ゼロに対し、茨城には7社もあって、当時の朝廷の重要度がよく見える(蝦夷との最前線だ)。


稲田神社の祭神は、(日本書紀だと)スサノオと結婚して大己貴命(オオクニヌシ)を産んだ「奇稲田姫(くしなだひめ)」。


でも何で出雲の神さまが茨城に?といえば、こちら新治国造の祖は「アメノホヒ」で、出雲国造とは同祖関係なんだそうだ。

常陸の「倭武天皇」

ところで「常陸」という国名は、新治を巡視中のヤマトタケルが井戸の水に袖を「ひたした」ことが由来だと、「常陸国風土記」には書いてある。


よく知られることだが、このとき風土記はヤマトタケルを「倭武天皇」と呼んでいる。


常陸の風土記の主役はこの「倭武天皇」だと言っても過言ではなく、活躍するエピソードは13本もある上、その内3本には亡くなったはずのオトタチバナが「皇后」として登場する。

二人のファンには嬉しい、パラレルワールドが展開されているのだ。


でもこれって、中央の貴族に憧れた茨城県民が作り出した、はかない妄想なんだろうか。


先に一つ確認しておくと、ヤマトタケルが茨城で「天皇」として根付くだけの時間は、十分にあったようだ。

日本書紀によれば、ヤマトタケルが東征に出たのは景行天皇40年10月で、能褒野で没したのが同43年。

長浜浩明さんの計算でも、1年から1年半、ヤマトタケルは東国にいられたようだ。

「倭武天皇」の可能性

日本神話の謎がよくわかる本

さて、神話学者の松前健さんが、ヤマトタケルが「天皇」だった可能性について、コンパクトに整理されているので紹介したい。

(『日本神話の謎がよくわかる本』)

(その1)

古事記はヤマトタケルの行為について、「幸(いでます)」「崩(かむあがり)」「大御食(おおみけ)」「仕奉(つかえまつる)」「詔(みことのり)」といった、天皇か皇太后にしか使われない用語を使っている(福田良輔の説)。


(その2)

記紀における「系譜」の記述が、ヤマトタケルには天皇と同じ形式が用いられている(吉井巌の説)。


(その3)

ヤマトタケルの行為には、国造の指名など、天皇の大権と結びついているものが多い。


(その4)

古事記で、亡くなったヤマトタケルに対して捧げられた歌が、その後、歴代天皇の「御大葬の歌」として歌われた。


・・・という感じで、学者の目から見ても、ヤマトタケルが「天皇」だった可能性はかなりあったようだ。でも本当に「天皇」だったとしたら、いったい誰だったんだろう。


そりゃヤマトタケルの異母弟とされる、第13代成務天皇しかいないだろう。

成務天皇という天皇

吉田神社(水戸市)

記紀をぜんぶ読んだぜ!という強者でも、成務天皇の印象は心に深く刻まれてるぜ!という人は少ないと思う。

30年もの在位で、事績は国造(国境)の制定と、甥の仲哀天皇(ヤマトタケルの次男)を皇太子にした2点ぐらいしかないのが成務天皇だ。


もっとぶっちゃければ、日本書紀(講談社文庫)は崇神天皇に13ページ、垂仁天皇に18ページ、景行天皇には24ページも割くのに、成務天皇は2ページだけ。

古事記(角川文庫)にいたっては、崇神6P、垂仁10P、景行16Pに対し、成務天皇はたったの「6行」だ。


だが不思議なことに、古事記はその「序文」では、神武天皇のあとの4大天皇?として、崇神、仁徳、允恭と並べて、成務天皇の偉業を取り上げてるのだ。でも本文は6行なのだ。


それに、天皇にとってはある意味もっとも重要な記録といえる「系譜」、后妃や皇子女についても、日本書紀は何一つ言及していない。

在位30年で、妻も子もいない天皇って、あり得るんだろうか。


いや、系譜にうるさい古事記には書いてある。

妃は「弟財郎女(おとたからのいらつめ)」で、その父は穗積氏の遠祖「建忍山垂根」・・・って、この人たしか、オトタチバナのお父さんではなかったか?


え?「弟財郎女」には、オトタチバナの姉妹だという説もあるのか。

でもそれならそう書けばいいことで、何で秘密にしてるんだろうか。

仲哀天皇の父親は誰か

日本の誕生

長浜浩明さんが計算した古代天皇の実年換算は、ぼくらの旅の大いなる指針となっているけど、計算が合わない箇所も当然ある。

その一つが、ヤマトタケルと第14代仲哀天皇の親子関係だ。

282年 ヤマトタケル 誕生

297年 成務天皇 誕生

312年 ヤマトタケル 崩御(30才)

320年 成務天皇 即位

329年 仲哀天皇 誕生

350年 成務天皇 崩御(53才)


ざっと年表風にしてみたが、見ての通りで、計算上ヤマトタケルは仲哀天皇の父親にはなり得ない。

なら成務天皇こそが、本当の父親なのか?


いや、この際、成務天皇の「謎」も解消しようとするなら、こうだろう。

成務天皇とヤマトタケルは同一人物で、成務天皇の即位前の呼称がヤマトタケル・・・そう考えるのが、話が一番シンプルだ。


ヤマトタケルは47才で仲哀天皇の父になり、成務天皇として68才まで生きた。

天皇としての在位は西暦320〜350年。

その間に、皇太子時代の知見を元に、国境と国造の制定に尽力したのかも知れない。


ただ後世、何らかの理由で皇太子時代の活躍が英雄譚として分離され、日本統一への「神話」にされた。

それで本人は、事績のないヘンテコな天皇として記録されてしまった・・・そんな感じだろうか。


あ、念のため書いておくと、「成務」とか「仲哀」は奈良時代に贈られた「諡号」なので、風土記の時代に茨城で「倭武天皇」と語り継がれていても、たぶん大きな問題はないはずだ。


西暦319年、景行天皇、近江・高穴穂宮に行幸」につづく