生島足島神社のタケミナカタと諏訪大社の「御頭祭」(イサクの燔祭?)

上田市のタケミナカタ

生島足島神社

2024年春に参詣した、長野県上田市に鎮座する名神大社で、「生島足島(いくしまたるしま)神社」。


祭神は宮中で祀られた22座のうちの、国魂の神である「生島神・足島神」を、信濃国造の「金刺(かなさし)氏」が勧請したもの、と『日本の神々 9』に書いてある。


御本社(上宮)は、周囲に池を巡らす「池心の宮」なるスタイルで、池には一般人が渡るフツーの橋と、神が渡る「御神橋」の二本が掛かっている。

「御神橋」を渡るのは、諏訪明神ことタケミナカタ(建御名方神)だ。

諏訪神社(下宮)

こちらの社殿は、御神橋をはさんで上宮と正対する、摂社の「諏訪神社(下宮)」。


毎年11月3日の夜、下宮のタケミナカタが上宮に渡って、生島神・足島神に「献飯」する儀式「御籠祭(おこもりさい)」が有名なんだそうだが、天照大神に命じられて信濃統治に訪れたタケミナカタが当地にとどまり、地主の神に奉仕したのち諏訪に向かった、という伝承が由来なんだとか。

『古諏訪の祭祀と氏族』

ただその伝承だと、生島神・足島神を奉じた信濃国造(金刺氏)の方が、タケミナカタを奉じた諏訪氏(神氏)より先に信濃に定住していたことになるので、順番が逆だという説もある。


昭和の諏訪ブームに火を付けたといわれる古部族研究会の『古諏訪の祭祀と氏族』(1977年)によれば、「御室(みむろ)」にご神体を遷して行われる当社の「御籠祭」の根本理念は、諏訪大社・上社の「御室入り神事」と相似しており、元々この地には諏訪社の古信仰が根付いていたと考えられるという。


そこに後からヤマト(金刺氏)の生島神・足島神が覆いかぶさり、タケミナカタが献飯する「服属儀礼」として御籠祭が続けられているのではないか———という話だが、こっちの説の方が全体の筋が通っているような気がする。

御神橋

・・・話が逸れるが、そういえば九州の鹿児島県は、西日本ではダントツ、全国でも9位となる「諏訪神社」の多い県として知られるが、その理由はここ生島足島神社のある小県郡(上田市)の地頭職だった島津忠久が、薩摩国の守護に任じられたときに大々的に広めたからだそうだ。

何にでも理由があるものだ。

長野市のタケミナカタ

健御名方富命彦神別神社の鳥居

牛に引かれて善光寺〜のお隣に鎮座する、長野市の名神大社で「健御名方富命彦神別(たけみなかたとみのみことひこかみわけ)神社」。


信濃国には41社の式内社があって、うちランクAの名神大社は諏訪大社、穂高神社、武水別神社、生島足島神社とコチラだけなので、格の高さは半端ない。


日本書紀にも、持統天皇が竜田の風神(龍田大社)とともに「信濃の須波、水内等の神を祭らしむ」とあって、当時の信濃国水内郡で唯一の大社であるコチラには、あの諏訪大社と同じ神威が期待されていたようだ。


善光寺平は信濃国造(金刺氏)の有力な拠点で、金刺氏は善光寺そのものの創建にも関わったそうだが、上田市と長野市の他、もう一カ所の有力な拠点が、諏訪大社「下社」だったようだ。


諏訪大社「下社」は金刺氏が創建し、神官トップの「大祝(おおほうり)」も務めたんだそうだ。

諏訪の古墳史

古墳時代の諏訪湖と古墳の分布

(出典『フネ古墳・片山古墳・一時坂古墳 解説資料集』2006年)

上の図は、諏訪市博物館が作成した諏訪湖周辺の古墳の分布を表す地図で、古墳時代の諏訪大社が上社・下社ともに今よりずっと水辺にあったことに驚かされる。

古墳も限られたスペースをやりくりして造営されていたようだ。


上掲の『古諏訪の祭祀と氏族』によれば、諏訪で最も古い古墳は上図9番の「フネ古墳」。

5世紀前半に築造された15x25mの方墳(か?)で、上社「本宮」からは西に200mほど。


フネ古墳は珍しい「蛇行剣」の出土で知られるが、『古諏訪の祭祀と氏族』によれば「きわめて反大和的な色彩が強烈」とのことで、言外に上諏訪の統轄をなしとげた在地族長、つまりは「守矢氏」のお墓であることを匂わせている印象。

小丸山古墳

(小丸山古墳    諏訪市公式サイト)

そこに6世紀末、フネ古墳の系譜とは全く異なる副葬品や横穴式石室をもって造られたのが、上図11番の「小丸山古墳」。


サイズ的には直径20mの円墳に過ぎないが、『古諏訪の祭祀と氏族』によれば、畿内勢力が進入し「在地在来の祭政的統一者と交替した」ことを示しているという。


6C末というと(偽書といわれる)『神氏系図(大祝家本)』に、初めて諏訪湖の南に社檀が設けられたとある用明天皇二年(587年)が含まれる時期で、ヤマトから諏訪に来て「上社・前宮」を創建した人物のお墓には丁度いいタイミング。


もちろんタケミナカタの神裔を称し、土着の守矢氏から祭政権を奪ったという諏訪氏(神氏)のうちの、どなたかのお墓なんだろう。

青塚古墳

(青塚古墳    下諏訪町公式サイト)

一方、金刺氏の「下社・秋宮」に隣接するのが、上図3番の「青塚古墳」。

諏訪地方では唯一の前方後円墳(全長59m)で、埴輪なども出土したフツーのヤマト式。


『古諏訪の祭祀と氏族』では、7C後半の「壬申の乱」に功績のあった金刺氏が、天武天皇のバックアップの元で「上社」を飲み込むべく、「下社」と併せて築いたのが青塚古墳だったんじゃないかと推察している。


なるほど!という説明だが、長野県の教育委員会や県立歴史館の見解では、青塚古墳の築造は100年前倒しした6C後半となっていて、それだと下社は上社とほぼ同じ時代に創建されたことになる。


もちろん、どちらが正しいのかは、ぼくには分からないが、生島足島神社で諏訪氏から金刺氏に祭祀権が移ったのが真実なら、上社と下社にもタイムラグがあった方が整合性は取れることになる。


ちなみに下社のある地元・下諏訪町は、7C末築造のお立場のようだ(公式サイト)。

諏訪大社とイサクの燔祭

諏訪湖

(諏訪湖)

ここからは余談。


2020年発売、日ユ同祖論をベースにした冒険小説『アマテラスの暗号』が文庫化されたので、読んでみた。

ベストセラーだというし、「事実にもとづく」というので期待していたが、一匹の古代史好きとしてはチト気になる点も・・・。


伊勢についてはコチラに書いたので、今回は諏訪の件。


『アマテラスの暗号』では、諏訪大社の第78代宮司という人物が登場し、上社・前宮の「十間廊」で行われる「御頭祭(おんとうさい)」の"真実"が語られる。


それは8才の少年が「ミサクチ神」への生け贄として捧げられる(殺される)儀式だったとされ、その起源は『旧約聖書』で、聖地「モレヤ山」でアブラハムが我が子イサクを神に捧げた「イサクの燔祭」にあるのだという。


「ミサクチ神」とは「ミ・イサク・チ神」のことで、イサクが信じていた神・・・を意味するのだとも。

守屋山

(守屋山 写真AC)

えーと、まず「守屋山」だが、ぼくが聞いているのは587年に蘇我氏に滅ぼされた「物部守屋」にちなむという説。


諏訪地方には物部守屋が滅んだとき、その実子の「武麿」が信濃まで逃げてきて、神長(守矢氏)の養子になって父・守屋の霊を祀ったという伝承がある。


江戸時代の記録になるが、佐久郡の神官で井出道貞という人が、自分の足で信濃中をまわって丹念に拾い集めた伝承をまとめた『信濃奇勝録』には、守屋山についてこう書かれている。

守屋氏は物部の守屋の一男弟君と号る者、森山に忍び居て、後神長の養子となる。

永禄年中より官の一字添て神長官と云う。

森山に守屋の霊を祀り、今、守屋が岳といふ。

弟君より当神長官まで四十八代と云。

つまり、山頂に物部守屋が祀られるまでは、守屋山は「森山」と呼ばれていたらしいということだ。

現在でも山頂の「守屋神社」では物部守屋を祀っているし、高遠町の「里宮」でも物部守屋を祀っている。

『諏訪信仰の発生と展開』

それと、諏訪大社・上社のすべての神事を掌ってきた「守矢氏」は、代々「一子相伝」かつ口承にて秘法を伝えてきたというが、第76代神長の「実久」氏には子どもがなく、急ぎ文字記録化をはかるものの、『実久系譜』を完成させたところで亡くなってしまったのだという。


それが明治33年7月のことで、以来「神長口伝の御室神事、御射山神事の秘法は、こうして永遠に伝えられることはなくなってしまった」(『諏訪信仰の発生と展開』1978年)のだそうだ。


つまりは、『暗号』にでてくる「第78代宮司」なる人物は存在しないということ。

諏訪大社のミ・イサク・チ神

上社・前宮

(上社・前宮)

というわけで、「上社」古来の神事は永遠の謎になってしまっているわけだが、それでも地元の研究者を中心に、なんとか古文献から再構築した式次第は存在する。


そうしたものによると、 『暗号』で少年が生け贄にされたという「御頭祭」とは、12月から翌年3月の長きにわたる「御室神事」のフィナーレを飾る祭りということで、そこから御頭祭だけ抜き出して語ることは、一種の「切り取り」と言ってしまってもいい話のようだ。


じゃーその「御室神事」の流れだが、まず12月末の前宮に12坪ほどの竪穴住居をつくり、「大祝の座」をもうける。


ご存じのように諏訪大社・上社の「ご神体」は生きた人間で、タケミナカタの子孫と称する「諏訪氏(神氏)」の当主「大祝(おおほうり)」。


この大祝が「御室」なる竪穴住居に100日間籠もるのが「御室神事」で、このとき諏訪の本源的な神で、天空から降りてくるという精霊「御左口神(ミシャグジ)」と、諏訪湖を渡ってくる大地の神で、蛇体をしているという「ソソウ神」の「御正体」を御室にいれ、聖なる結婚が行われるという。


そして100日後、春の訪れとともに「聖婚」から誕生した大祝が御室を出て、地上に現れる———。

ざっとこんな流れが「御室神事」だと、ぼくは理解している。


※ちなみに縄文以来ともいわれる諏訪信仰の中心「ミシャグジ神」は、漢字で書くと「社宮司、石護神、石神、石神井、尺神、赤日神、杓子、三口神、佐久神、左口神、作神、守公神、守宮神」などで、決して「ミ・イサク・チ」とは読めない。

また諏訪の神がしばしば「蛇神」といわれるのは、大地の女神「ソソウ神」のことを指しているようだ。

十間廊

(十間廊)

んで、御室神事につづいては、御室から出て生まれ変わった大祝を中心に、十間廊で盛大な饗宴が開かれる(これが御頭祭)。有名な鹿の生首75頭ぶんが登場するのも、この時だそうだ。


するとそこに30日間の精進をクリアした6人の少年、「オコウさま(神使)」が現れて、大祝から与えられる「御杖」を背負い、「御宝(鉄鐸)」を首にかけると馬に乗り、二人一組で諏訪各地の村々へと出発。

大祝の代行として「廻湛神事」を行う。


村々をまわったオコウさまが帰着すると御室は撤去され、御宮内のミシャグジの御正体が前宮の「御左口神社」に遷されると、御頭祭を含む「大御立座神事」がすべて完了する。


※以上は、ぼくなりに理解した上社の祭りを要約したもんだが、用語が複雑なうえ、文献の年代によって伝承もマチマチで、残念ながら、ところどころ間違っている可能性がかなり高い。正確にマスターしたい方は『諏訪神社七つの謎』(皆神山すさ/2015年)に詳細に論じられているので、是非そちらで確認してください。

諏訪で「神殺し」はあったのか

『諏訪神社七つの謎』

んでは最後に、『暗号』に書かれているように、「御頭祭」で神への生け贄として少年が「弑殺」されたのは真実か———といえば、たしかに文献上で、オコウさま(神使)が馬から突き落とされたり、藤で縛られたり、乗っている馬を驚かせて暴走させたりの「虐待」は、確認できるんだそうだ。


また、本来オコウさまには諏訪氏(神氏)の傍流の少年が選ばれたものが、次第に「乞食の子」を使うようになったことも、「神殺し」の存在を裏付けているという説もある。

『古代諏訪とミシャグジ祭政体の研究』

ただ、(おそらく殺害説の言い出しっぺと思われる)『古代諏訪とミシャグジ祭政体の研究』(1975年)においても、神殺しは鎌倉時代まで行われていた「ふし」があるとか、虐殺は「十分予測される」とか、確実な証拠はないようで、「証言」として取り上げられている郷土史家の今井野菊さんも「(オコウさまは)神に召されてゆく」と詩的な表現にとどめている。


まぁ、あったかも知れないし、なかったかも知れないが、いずれにしても細かく検討してみれば、旧約聖書の「イサクの燔祭」とは、似ても似つかない「神殺し」であることは確かだろう。


諏訪の「神殺し」は「人身御供」ではなく、神を殺して埋めたところから新たな生命(稲魂)が誕生する「原始農耕儀礼」だったのだろうと、古部族研究会は結論づけている。