出雲神話⑭美保神社のコトシロヌシは出雲の神か

出雲の神ではないコトシロヌシ

美保神社

前回に続いて松江市の「美保神社」。

本当にカッコいい社殿で、どうやらぼくは「霧島神宮」とか「真清田神社とか美保神社とか、前後に長い社殿に魅力を感じるようだ。


んで、それはそうとして、美保神社の祭神「事代主神(コトシロヌシ)」は出雲の神ではないらしい。 

ところがこの神は、出雲系の神とされながら『出雲国風土記』にまったく現われず、現在、出雲の神社に祀られている事代主命は、みな後代からの付会である。 


そして事代主命が大和国の葛城山麓に祀られてきた神(式内名神大社の鴨都波八重事代主神社があり、葛城鴨氏の社といわれる。なお高市郡にも高市御県坐鴨事代主神社がみえる)であることは、詳細は略すが、古代史研究家の間ではすでに定説になっているといってよい。

 

(『日本の神々 神社と聖地3』「長田神社」1984年)

繰り返しになるが、733年の「出雲国風土記」には「美保の神」として「御穂須々美(ミホススミ)命」の名が記されているし、927年の「延喜式神名帳」で美保神社は「小社」と、ごくありふれた存在でしかない。


一方、引用にもでてくる奈良県御所市の「鴨都波(かもつば)神社」は「葛上郡」筆頭の堂々たる「名神大社」。


833年の「令義解」は大神(おおみわ)神社大和(おおやまと)神社と並ぶ代表的な「地祇」として「葛木の鴨」を挙げている。

鴨都波神社

(鴨都波神社)

神武天皇とコトシロヌシ

コトシロヌシとは、いかなる神か。


史実を反映してはいるんだろうが、基本的には作り話である「神代」を除外して、神武天皇以来の「人代」に絞って日本書紀を読むと、コトシロヌシの本質はいたってシンプルなもののようだ。


まずコトシロヌシは、神武天皇の「岳父(舅)」だ。

庚申の年の秋八月の癸丑の朔戊辰(十六日)に、天皇は正妃を立てようと考えられて、 ひろく貴族たちの女子を求められた。

時に、つぎのように奏上する者があった。 

事代主神が、三嶋溝橛耳神の女の玉櫛媛と結婚されて生まれた児を、媛蹈輪五十鈴媛命と申し上げますが、このお方はたいへんな美人でございます」 


天皇は非常によろこばれた。


(『日本書紀・上』中公文庫)

神武天皇の皇居がある橿原から、葛城までは6kmほど。

ヨメの実家には丁度いい距離か?(出雲までは200kmだ)。

橿原神宮

(橿原神宮)

第2代の綏靖天皇も、コトシロヌシの娘と結婚した。なんとお相手は、母親の妹さんだ(五十鈴依媛命)。


さらに第3代の安寧天皇の皇后は、コトシロヌシの孫「鴨王(かものきみ)」の娘だという。


要するにコトシロヌシは、初期皇室の「外戚」というやつで、ヨソ者の皇室の後ろ盾になりうる実力を備えた、大和の有力豪族のトップだったんだろう。

神功皇后とコトシロヌシ

香椎宮

(香椎宮)

コトシロヌシが「神」として現れたのは、300年以上あとの神功皇后の時代だった。


神々の忠告を無視した仲哀天皇が「橿日宮」で急死した後、神功皇后は自ら斎宮で神主になると、祟り神の正体を探った。


このとき現れたのは、順に以下の神。

○神風の伊勢国の百伝う度逢県の拆鈴五十鈴宮におります神、名は撞賢木厳之御魂天疎向津媛命 


○幡荻穂に出し私だが、尾田の吾田節の淡郡におる神 


○天事代虚事代玉籤入彦厳之事代神 


○日向国の橘小門の水底にあって、水葉も稚やかに出でいる神、名は表筒男•中簡男•底筒男の神

最後の「住吉三神」以外、よく分からない神だったが、新羅を征伐してからの帰路、難波をめざす船が動かなくなったので再び問うと、それぞれ「天照大神の荒魂」「稚日女(わかひるめ)尊」「事代主尊」「住吉三神」だと判明した。


このとき神功皇后はコトシロヌシを希望通り「長田国」に祀っているが、注目点は「ミコト」だ。


日本書紀では「尊」は「命」よりランクが上で、皇統の中でもとりわけ重要な人物にだけ付ける敬称だという。この時代のコトシロヌシは、皇統の母方の祖神として相当に重視されていたのだろう。

長田神社

(長田神社 写真AC)

天武天皇とコトシロヌシ

コトシロヌシに守られた天皇は、もう一人いる。

現人神、天武天皇だ。

これよりさき、金綱井に軍勢が集結したさい、高市郡大領の高市県主許梅は、急に口がふさがって、ものを言うことができなくなった。三日後、神がかりのようすになって、

「自分は、高市社(櫃原市高殿町)におる、名は事代主神である。また身狭社(檀原市見瀬町)におる、名は生霊神である」

と言い、神のことばとして、

「神日本磐余彦天皇(神武天皇)の山陵に、馬とさまざまの武器とをたてまつるがよい」

と言った。さらに、

「自分たちは皇御孫命(大海人皇子)の前後に立ち、不破までお送りして帰ってきた。いまもまた、官軍のなかに立ってそれを守護しておる」

と言い、

「西の道から軍勢がやって来る。用心せよ」

と言い、言いおわって神がかりの状態からさめた。


(『日本書紀・下』中公文庫)

あれ? コトシロヌシは神功皇后に摂津の「長田」に祀られたのでは?


ぼくは神道の知識はほとんどないんだが、神道の「分霊」は要は"コピペ"のことなので、鴨都波も長田も高市も、みな同じコトシロヌシになるようだ。もちろん、美保神社のコトシロヌシも同様だ。

古事記外伝

ところで天武天皇の頃に始まったといわれるのが「大嘗祭」だ。


新天皇が即位後の、一代一度の新嘗祭のことだが、実はこのとき天皇が何の神に新穀を供えてきたのかは、まったくの謎なんだそうだ。


ただ有力視される候補はあって「御膳(みけつ)八神」がそうだという。

そのリストを『古事記外伝』(藤巻一保/2011年)から転載すれば、こうだ。

ミトシ(御歳)神 稲米の神

タカミムスヒ(高御魂)神 産霊の神

ニワタカツヒ(庭高日)神 祭の庭や竈の火の神格化 

オオミケツ(大御食)神 神饌の神

オオミヤノメ (大宮女)神  新嘗の準備に奉仕する女神 

コトシロヌシ(事代主)神 言霊の神(祭典の呪詞や神の託宣をつかさどる)

アスハ(阿須波)神 斎場の斎柴の神格化

ハヒキ(波比岐)神 竈の灰に関係した神

大宮売神社

オオミヤノメを祀る京丹後市の「大宮売神社」

もう一例、新嘗祭とならぶ重要な宮中祭祀「月次(つきなみ)祭」で、最初に祈りを捧げられる「宮中八神」のリストを同書から。

カミムスヒ(神魂)神 産霊の神

タカミムスヒ(高御魂)神 産霊の神•皇祖神

イクムスヒ(生魂)神 生命を生み出す霊威をもつ産霊の神

タルムスヒ(足魂)神 生命を充足させる霊威をもつ産霊の神 

タマツメムスヒ(玉留魂)神 生命をしっかりと留め鎮める霊威をもつ産霊の神

オオミヤノメ (大宮女)神 月次の準備に奉仕する女神

ミケツ(御膳)神 神饌の神

コトシロヌシ(辞代主)神 言霊の神(祭典の呪詞や神の託宣をつかさどる)

葛城の託宣神コトシロヌシ

日本神話の謎がよくわかる本

ま、引用にモロに書いてあるとおりで、奈良・平安の宮中においてコトシロヌシは「言霊」の神で、「祭典の呪詞や神の託宣をつかさどる」神だった。


神話学者の松前健氏は、「国ゆずり」で大己貴神の代わりに事代主神が返事をしたのは「オオナムチがヨリマシを通じて託宣したことの神話的表現であろう」といい、さらに踏み込んで、元々は美保の神(ミホススミ)がオオナムチの「コトシロ(託宣を行うヨリマシ)」だった可能性について論じている。

これらの祭りは、海上から神霊を迎え、その呪言をきくという神事で、カモのコトシロヌシとは関係なかったが、その縁起譚として、オオナムチの子の美保の神が、 コトシロを通じてオオナムチの意志を伝えたという神話があって、これが大和朝廷に取り上げられて、葛城の託宣神にきりかえられたのであろう。


(『日本神話の謎がよくわかる本』松前健/2007年)

異論併記でぐちゃぐちゃの「神代」を無視してみれば、コトシロヌシとは皇室の最初の「外戚」で、のちに「尊」の敬称を得た人物。


神になってからは皇室を見守る守護神で、宮中では「言霊」「託宣」を司る神として大切に祀られた。


日本書紀ができた8世紀ごろの上級国民は、コトシロヌシが出てきた瞬間に「お、託宣が始まるぞ」と分かったわけで、例えそれが出雲で行われていても、コトシロヌシを出雲の神だとは思わない共通認識があったんじゃないだろうか。


そして「言霊」の神コトシロヌシがいうんだから、オオクニヌシも逆らえないという・・・。



その⑮アジスキタカヒコネは出雲の神か」につづく