古事記のアメノミナカヌシとタケミカヅチ

古事記のアメノミナカヌシ

千葉神社重層拝殿

JR千葉駅に近い、妙見本宮「千葉神社」。

幕末までは北極星を崇める妙見信仰のお寺だったものが、明治になって「アメノミナカヌシ(天之御中主神)」を祀る神社に改めたという。


アメノミナカヌシといえば、「古事記」では天地が開かれたとき最初に現れた神として知られるが、その実体を専門家である神話学者に聞いてみれば、こう。

神代史の最初に、編纂者らの造作のあることは、たしかである。第一に、いわゆる造化三神の筆頭に位置するアメノミナカヌシなる神名は、神話的な思考としてもっとも高次なものであり、中国の天・天帝の観念に影響されるところが少なくない。


『日本書紀』はこの神を本文にはしるさず、第四の一書につづく「又曰く」のなかでわずかにふれるにすぎない。しかもこの神は記・紀神話においてまったく活躍しないのである。それはタカミムスヒ・カミムスヒの両神の活躍ぶりとくらべてきわめて対照的である。


(『日本神話』上田正昭/1970年)

『日本神話』上田正昭/1970年

その名は「天の中央にいます主」を意味する。中国の皇天上帝、天一神、紫微大帝などといった、天の至上神の思想からの借り物で、思弁的・抽象的な産物にすぎないという説が有力である。(中略)


このムスビの二神にアメノミナカヌシを加え三神としたのは、七世紀の後半以後、道教の神学である三尊三清(天上の三つの御殿にいる三人の至上神が一体となって造化を掌るという)の思想に影響された、宮廷の知識人の産物であろう。


(『日本神話の謎がよくわかる本』松前健/1994年)

なるほど、そういえば千葉神社の社殿などは、神社というより「道教」の寺院?って印象があったな、ぼくらには。

千葉神社・尊星殿

(千葉神社・尊星殿)

アメノミナカヌシが「思弁的・抽象的」な神である証拠として、『延喜式』や「六国史」にこの神を祀った神社が見当たらないことが挙げられる。


また、平安時代の宮中で祀られた「御膳(みけつ)八神」や「宮中八神」のなかにも、アメノミナカヌシの姿はない。


皇室の正史「日本書紀」の本文(正伝)では、天地開闢で最初に現れたのは「国常立尊(くにのとこたち)」という神で、アメノミナカヌシは参考文(一書)に「また別の伝」として一回だけ名前を挙げられるのみ。


それを別名を含めた「のべ」で数えるなら、何と後ろのほうの23番目だ。


古事記が神々の筆頭にあげるアメノミナカヌシを、正史はオマケ程度にしか扱っていないのだった。

妖怪ハンター「黒い探求者」より

(妖怪ハンター「黒い探求者」より)

だが、古事記だけが正史に逆らって勝手な意見を述べているのかといえば、そうでもない。


古代史好きには馴染みのある『古語拾遺』『先代旧事本紀』それに『住吉大社神代記』なども、わが国最初の神はアメノミナカヌシだと書いている。


ただ問題なのは、それらの史書が成立したのが、軒並み平安時代以降だということだ。


日本書紀が天地開闢の神について、本文(正伝)以外にも6本の一書(異伝)を併記している点からみて、奈良時代初頭にはその件はまだ曖昧なものだったと思われる。


しかし日本書紀より早く成立したと、その序文で主張している古事記の方は、平安時代の史書と同じ神々を「造化三神」に挙げて、一切の迷いがない・・・。


こうした古事記の姿勢から、古代史家の大和岩雄さんなどは、古事記が現在の形で完成したのは平安時代初頭ではないかと推察されていたようだ。

(『古事記成立考』1975年)

『古事記成立考』1975年

日本書紀の武甕槌神

アメノミナカヌシと同じように、古事記が異様に持ち上げるのが、「国譲り」の段で大国主神を降伏させたタケミカヅチだ。


あくまで抵抗しようとするタケミナカタとの力比べで腕をへし折り、諏訪まで追いかけて幽閉したシーンは有名だ。


だが、正史・日本書紀には、そんなタケミカヅチの剛力は出てこない。


日本書紀の本文(正伝)で、皇祖タカミムスビ(高皇産霊尊)が選んだ使者はフツヌシ(経津主神)だけだったが、そこに無理矢理に割って入り、副将に収まったのがタケミカヅチなのだった。

御神像 出典『新鹿島神宮誌』

(御神像 出典『新鹿島神宮誌』)

しかしまぁ、この「国譲り」の原型は、フツヌシだけが使者だったんだろうなぁと思わせるのが、日本書紀第9段第2の一書。


そこでは「国譲り」を受け入れた大己貴神(オオクニヌシ)が、「岐神」を案内役に残して出雲を退去するシーンが描かれているが、つづく地上の平定を行ったのはフツヌシだけと書かれている。

そこで岐神(ふなとのかみ)を二神に勧めていわれるのに、「これが私に代ってお仕え申し上げるでしょう。私は今ここから退去します」といって、体に八尺瓊の大きな玉をつけて、永久にお隠れになった。

だから経津主神は、岐神を先導役として、方々をめぐり歩き平定した。従わない者があると斬り殺した。帰順する者には褒美を与えた。この時に帰順した首長は、大物主神と事代主神である。

そこで八十万神を天高市に集めて、この神々を率いて天に上って、その誠の心を披歴された。


(『日本書紀(上)』講談社学術文庫)

常陸国風土記の「普都大神」

楯縫神社

このフツヌシによる地上掃討戦と、同じものを記していると思われるのが「常陸国風土記」だ。


もとは「日高見国」といったという「信太郡」の条に、「天から下ってきた神」として「普都大神」が登場する。

古老の言うには、天地の始、草木までがものを言いざわめいていた時に、天から降って来た神、名を普都大神と称し上げる。

(大神は)葦原の中つ国を巡行されて、山河の荒れすさぶ神どもを平定された。

大神は神たちを説き同意させることを完全にし終えて、天に帰ろうとお思いになった。

そのとき、身に着けておいでの武器(当地の人は「いつの」という)の甲・戈・楯・剣と手に着けておいでの玉のすべてを取りはずしてこの地に留め置き、白雲に乗って天に還り昇っておいでになった(以下省略)。


(『風土記・上』角川ソフィア文庫)

上の写真は「普都大神」が武装を解いた場所だという、茨城県美浦村の信太郡一の宮「楯縫神社」。


鹿島神宮の地元で書かれた「常陸国風土記」には、肝心のタケミカヅチは出てこない。

「出雲国造神賀詞」のフツヌシ

フツヌシを祀る「美談神社」出雲市

(フツヌシを祀る出雲市の美談神社」)

もう一つ、日本書紀・常陸国風土記と同じく8世紀前半に成立し、「国譲り」に言及しているのが「出雲国造神賀詞」。


奈良・平安の出雲国造が代替わりの際に上洛し、天皇に奏上したという祝詞のなかで、タカミムスビ(高御魂命)の命を受けて地上を偵察したアメノホヒが、わが子「天夷鳥命」に副えて遣わしたのが「布都怒志命」。


出雲ではこの二神が地上を平定し、大穴持(オオクニヌシ)に国譲りを誓わせたとされたようだが、この国譲りにもタケミカヅチは出てこない。

古事記の建御雷神

『日本神話の謎がよくわかる本』松前健/1994年

んで、同じく8世紀の前半に成立したと主張しながら、日本書紀・風土記・神賀詞とまったく異なる立場をとるのが、古事記だ。


なんと古事記は、フツヌシの方を全カットしてしまっているのだ。古事記の国譲りの使者はタケミカヅチと「天鳥船神」だ。

フツヌシの名は、「建御雷之男神」の別名「建布都神」に吸収されているのだという。


だがフツヌシの本来の姿は、そうやって神名だけを取り込めばOKというようなものではないようだ。

フツヌシという神は、もともと中臣氏や出雲氏とは関係ない。じつは物部氏の奉じた霊剣フツノミタマの神格化なのである。(中略)


直木孝次郎も論じているように、物部氏は五、六世紀の頃、大和朝廷の軍事・警察方面を担当し、モノノフの軍団を率いて各地を征討した。

そのとき「平国剣(くにむけのたち)」すなわち国土鎮定の呪宝として奉じていたのが、フツノミタマであり、これを神格化したのがフツヌシであった。


このフツノミタマは決して固有名詞ではなく、鎮魂(たまふり)の霊剣の普通名詞であり、いくつあってもよいもので、物部氏は征討した地に、これをまつったのである。


(『日本神話の謎がよくわかる本』松前健/1994年)

物部氏の霊剣「韴霊(ふつのみたま)」の神格化がフツヌシ———。


フツノミタマといえば、日本書紀では熊野で苦境に陥った神武天皇を助けるために、アマテラスがタケミカヅチに命じて地上に降ろしたという剣だ。


しかし、地上でその剣を受け取ったのは、物部氏の史書『先代旧事本紀』がニギハヤヒの子だという「高倉下(たかくらじ)」。

ニギハヤヒは物部氏の祖だ。


その後フツノミタマは、同じくニギハヤヒの子だという「ウマシマジ」の手に渡り、現在も物部氏の氏神「石上神宮」の主祭神にしてご神体として、祀られているという。

石上神宮回廊

(石上神宮)

要はフツノミタマは(高倉下が見た「夢」を除けば)徹頭徹尾、隅から隅まで物部氏の神剣であって、タケミカヅチとは無縁の存在だというわけだ。


すると一つ面白い話があって、常陸に初めて天から降臨したという「普都大神」こそが、鹿島信仰の最古の祭神だという説がある。


その根拠は、鹿島神宮に伝わる国宝で、刀身2mを越える直刀を、神宮では「韴霊剣(ふつのみたまのつるぎ)」と呼び習わしていることだ。


もしも鹿島神宮のフツノミタマが最古の「ご神体」なのだとしたら、祀られた神はタケミカヅチではなく、フツヌシではなかったか、と『房総の古社』(菱沼勇・1975年)には書いてある。

常陸国風土記への違和感

鹿島神宮の国宝 出典『神社の至宝』

(鹿島神宮の国宝 出典『神社の至宝』2017年)

神武紀のフツノミタマのシーンは、シンプルに考えれば物部の氏神フツヌシが、物部の子孫タカクラジに「伝家の宝刀」を与えただけ・・・。


そこにタケミカヅチを割り込ませて利益のある人といえば、そりゃタケミカヅチを氏神にしている藤原(中臣)氏だろう。


実は「常陸国風土記」には、誰が読んでも「ん?」と矛盾に気が付く箇所があって、それは「香島郡」の冒頭部分。


そこではまず、「大乙上中臣子」と「大乙下中臣部兎子」なる人物の請願で、649年に香島に「神郡」が設置されたことと、その地に鎮座する「天の大神社・坂戸社・沼尾社」の三社を総称して「香島天の大神」と呼ぶようになったことが書かれている。


ところがその直後の文では、皇孫降臨の際に高天原から下ってきた神の名を「香島天之大神」だといっているのだ。これは時系列がメチャクチャだ。


それで改めて時系列を整理してみれば、常陸国風土記では、ヤマトタケルから飛鳥時代までは(三社の一つである)「天の大神」の呼称が使われて、神郡の設置から奈良時代では「香島の神」「香島の大神」が使われていると分かった。


「皇孫降臨」の箇所だけが、明らかにおかしい。

しかもその件りがあるせいで、普都大神=香島天之大神という読み方もできてしまう。


もしもそれが、何者かによる書き換えとか挿入とかだとしたら、それが可能なのは編纂の最終責任者、藤原宇合だろうなあと、ぼくは思う。

藤原氏 vs 物部氏

阿彌神社

(信太郡二の宮「阿彌神社」)

日本書紀や風土記が編纂された時代、中央では藤原不比等と石上(物部)麻呂の権力争いが、最終局面を迎えていたという。


そしてその結果は、官位においては石上(物部)麻呂が上をいったが、平城京への遷都で天皇に随伴したのは藤原不比等。

物部は旧都の「留守」を命じられたのだという。


物部フツヌシの活躍を、藤原タケミカヅチで上書きする絶好のチャンスが転がり込んできた・・・といったら、うがち過ぎか。