出雲神話⑦播磨国風土記の4人のオオクニヌシ

 〜播磨の伊和神社〜

播磨の4人のオオクニヌシ

伊和神社・境内

兵庫県宍粟(しそう)市で「大己貴神」を祀る、播磨国一の宮の「伊和神社」(2021夏参詣)。


927年に成立した「延喜式神名帳」には「伊和坐大名持御魂(おおなもちみたま)神社」とあって、古くから祭神がオオクニヌシだったことに間違いはないようだ。


ただ「播磨国風土記」では、より現社名に近い「伊和大神」なんて神さまが主役級の活躍を見せていて、こちらを主祭神と同一神とする説があるかと思えば、そのものズバリの「大汝(おおなむち)命」も相棒のスクナヒコナ(少日子根命/少比古尼命)と一緒に活躍したりして、話は簡単じゃない。


さらには記紀において、オオクニヌシの異名とされる「アシハラシコオ(葦原志挙乎命/葦原志許乎命)」も登場すれば、出雲から来たという「御蔭(みかげ)大神」なんて謎の神まで現れて、播磨国風土記にはオオクニヌシの候補が全部で4人もいる。

アシハラシコオと天日槍

伊和神社・鳥居

この件についての解説の中には、4人は同一神で、4人合わせて一人のオオクニヌシ(伊和神社の主祭神)だというものもあるが、そんなにシンプルにまとめちゃっていい話なんだろうか。


キーマンになるのは、伊和大神とアシハラシコヲが「土地争い」を繰り広げたという相手、「天日槍(アメノヒボコ)命」だろう。


日本書紀によれば、垂仁天皇3年、新羅の王子を称する天日槍が来日して播磨国に碇泊、宍粟邑に住んだという。

天皇から宍粟邑(と淡路島の出浅邑)の居住許可を得た天日槍は、まずは諸国を見て回りたいと近江国に住んだあと、若狭国から但馬国にいたり、定住したという。


下の写真は、アメノヒボコを祀る但馬国一の宮の「出石(いずし)神社」(兵庫県豊岡市)。

出石神社・鳥居

去って行く御蔭大神

さて、播磨国風土記では、伊和大神とアシハラシコオがそれぞれ2回ずつ、その天日槍と土地争いをしたことが地名の由来として記録されているが、この時点でオオクニヌシ候補から除外される神が一人いる。


出雲からきた「御蔭(みかげ)大神」だ。

播磨国風土記によれば、御蔭大神が播磨にいたのは「応神天皇の御世」だという。


ならば垂仁天皇(長浜浩明さんの計算で在位241〜290年)の時代を生きたアメノヒボコと、応神天皇(同389〜410年)の時代の御蔭大神は、残念ながら土地争いはできなかっただろう。


また、どうやら御蔭大神は女神だったと思われる。風土記の「揖保郡」の記述からは、そう読める。


※ただ、「讃容郡」の記述だと「筌戸」から出雲の大神は「去って行った」とあるが、「女神」は佐比岡に鎮まっているので、去ったのは「男神」になる。

(揖保郡)

意比川

意比川。応神天皇の御世に出雲の御蔭大神が枚方の里の神尾山におられて、いつも道行く人を遮って、通行人の半分を殺し半分を生かして通した。

その時、伯者の人小保弖と因幡の布久漏と出雲の都伎也の二人がともに悩んで、朝廷に申し上げた。そこで、額田部連久等々を遣わして、祈祷させられた。(中略)


佐比岡

佐比と名づけた理由は、出雲の大神が神尾山にいた。この神は出雲の国人がここを通り過ぎると、十人のうち五人を留め、五人のうち二人を留めて行き来の妨害をした。それで出雲の国人たちが佐比を作ってこの岡に祭ったが、それでも和やかに受け入れられることはなかった。

そうなった理由は、男神が先に来られて、女神が後に来られたからである。

この男神は鎮まることができなくて去って行かれた、そういうわけで、女神は恕み怒っておられるのだ(以下略)


(讃容郡)

筌戸

大神が、出雲の国から来られた時、嶋村の岡を腰かけの床几として座っていらっしゃって、筌をこの川に置かれた。だから、筌戸と名づけた。

魚は入らないで鹿が入った。これを取って鱠に作り、お食べになる時に口に入らないで地に落ちた。

それで、ここを去って他の所にお遷りになった。


(引用は全て『風土記(上)』角川ソフィア文庫)

大汝命と伊和大神

出石神社・神門

(出石神社・神門)

残る三柱のうち、「大汝命」もアメノヒボコとは争っていない。


スクナヒコナと行動しているので、オオクニヌシであることに疑いはないが、伊和大神・アシハラシコオと同一神かといえば、「飾磨(しかま)郡」の「伊和の里」の記述が気にかかる。


播磨国風土記は基本的に、「○○の里」「●●の里」「△△山」・・・というかんじに、地名の由来を順番に紹介していくスタイルだが、一つの地名紹介の中に、オオクニヌシ候補の4神の話題が同時に登場することは一度もない。


ところが「伊和の里」の記事でだけは、伊和大神を信奉する「伊和の君」の一族と、大汝命の神話が同居しているのだ。

伊和の里

船丘・波丘・琴丘・匣丘・箕丘・日女道丘・藤丘・稲丘・冑丘・鹿丘・犬丘・甕丘・筥丘。 

土は中の上。

伊和部と名づけたのは、積幡(しさわ)の郡の伊和の君たちの一族がやってきてここに住んだ。だから、伊和部と名づけた。 

(中略) 

この十四丘は、すでに上文に記した。

昔、大汝命の子である火明命は心もおこないもとても頑なで恐ろしかった。

こういうわけで、父神が悩んで、逃げ捨てようと思われた。

風土記(上)角川ソフィア文庫

漢文の素養がないのでトンチンカンな解釈の可能性もあるが、ぼくには、もともと大汝命の神話があった土地に、後から「伊和の君」の一族が引っ越してきて、「伊和の里」と呼ばれるようになった、と書いてあるように読める。


だとしたら、伊和の君一族が担いできた神と、大汝命は別々の神だろうから、伊和大神はオオクニヌシではないことになる。

なお、播磨国風土記が大汝命を「大神」と呼ぶ箇所は、一つもない。


・・・いや、「託賀の郡・黒田の里」の記事に、「昔、宗形の大神、奥津嶋比売命が伊和大神の子を妊娠して」って記述があるな。


これだと古事記の大国主神の系譜と一致するので、伊和大神=大国主神の可能性も出て来るが、そもそもなんで北九州の胸形(宗像)」の女神が播磨で出産しなくてはならないのか。


編纂した国司が優秀なようで、全体としては整合性の高い播磨国風土記だが、ネタを提供した「託賀郡」の郡司だけは、のっけから「巨人」が出てきたり、唐突に「天目一命(あめのまひとつ)」が出てきたりで、ミーハーというか、他とちょっと違う印象がある。


・・・むむ、宿題だ。

伊和大神とアシハラシコオ

姫路城

最後の問題は、伊和大神とアシハラシコオは同一神なのか、だ。


とりあえず天日槍のおかげで、この二神が垂仁天皇3年(長浜浩明さんの計算で242年頃)に、播磨にいたことだけは分かるが、同一か別々かは決め手がない。


強いていえば、その家族や祭祀氏族までが語られる伊和大神に対して、アシハラシコオには天日槍のライバルという以外、具体像は何一つない。

名前だけの存在だ。


ただ、アシハラシコヲは日本書紀でも、大己貴神の異名として一度「葦原醜男」と名前が挙げられただけで、実体はない。


古事記では、スサノオが(大国主神になる前の)大穴牟遅神をそう呼んでいるが、それは地底の「根の国」から見ての、地上の「葦原中国のクソやろー」という一般名詞だと、どこかで読んだことがある。


・・・とりあえず、同一神なら伊和大神だけでいいものを、なぜアシハラシコオと分離させたのかは、今後の課題ということにしておこう。



その⑧古事記と風土記と日本書紀のスクナヒコナ」につづく