武蔵国造の乱とさきたま古墳群
〜无邪志国造・知知夫国造・胸刺国造〜
七輿山古墳の被葬者
写真は2024年初夏に見物した、群馬県藤岡市の前方後円墳で「七輿山(ななこしやま)古墳」。
6世紀前半の築造とされ、墳丘長は同時代としては継体天皇陵「今城塚古墳」(190m)、尾張氏の「断夫山古墳」(151m)に次ぐ第3位の145mで、あの筑紫国造・磐井の「岩戸山古墳」(138m)を上回る。
地元の専門家・若狭徹さんによれば、七輿山の墳形は今城塚・断夫山とは相似形で、被葬者には「継体大王を支えた東国の有力ブレーンであり、この時期の上毛野首長連合の首班であった可能性」が考えられるのだそうだ。
6世紀前半の上毛野の人物といえば、継体天皇の長子・安閑天皇の元年(534年)に起きた「武蔵国造の乱」に登場する「上毛野君小熊」がいる。
日本書紀によると、武蔵国造の「笠原直・使主(おみ)」と「小杵(おき)」は国造の地位をめぐって長らく争っていたが、「小杵」が救援を求めたのが「上毛野小熊」だった。
その動きを察した「使主」はヤマトに裁断を求め、国造は「使主」に決定、「小杵」は誅されたという。
安閑二年五月条には、そのころ全国に設置された「屯倉」のリストが載るが、上毛野の「緑野屯倉」はまさに七輿山古墳が造営された藤岡市にあるので、「小杵」に味方してしまった「小熊」が(強制的に?)献上した可能性はありそうだ。
ということで、七輿山古墳の被葬者には「上毛野君小熊」が第一候補になるんだろう。
(出典『埼玉古墳群ガイドブック』さきたま史跡の博物館)
一方、国造争いに勝利した「使主」のお墓には、6世紀前半に築造された、武蔵国最大の前方後円墳「二子山古墳」(132m)か、同じ古墳群に造営された「将軍山」(90m)「鉄砲山」(107m)などが候補にあがりそうだが、面白いことに、この大古墳群の主たちは、地元・行田市の人間ではなかったという話がある。
というか、歴史を遡ればそもそも、北埼玉から群馬にかけての地域を開拓したのは、東海地方から移住してきた人たちなんだそうだ。
東海から武蔵への移住
地元埼玉の研究者・高橋一夫さんによると、埼玉県行田市周辺では、古墳時代に入ると突然に遺跡が現れて、畿内や東海地方西部の土器が出土するのだという。
特に、いわゆる「S字甕」は尾張の低地部で出現した土器で、行田周辺に低地の開発を得意とする人たちが移住してきたことが見てとれるんだそうだ。
(『鉄剣銘115文字の謎に迫る 埼玉古墳群』高橋一夫/2005年)
同じ話は群馬にもあって、S字甕を携えた東海西部の人たちが低湿地を開拓し、お墓も在来の円形墓から方形周溝墓へとシフトしたという。
(『東国から読み解く古墳時代』若狭徹/2015年)
(朝日遺跡)
んじゃ、どうして東海西部の人たちが東を目指したのかというと、弥生時代後期に列島を襲った気候変動が原因だったらしい。
考古学者の赤塚次郎氏によると、2世紀前半の濃尾平野には、大規模な地震や災害の痕跡が確認されるのだという。
気候は寒冷化し、大地は湿地化し、全盛期には推定面積80haを誇った東海最大の弥生ムラ「朝日遺跡」(清須市)は、「邪馬台国時代」には「すでに消滅」していたんだそうだ。
(『邪馬台国時代の関東』2015年)
(神崎遺跡)
ただ、東国の全てが尾張からの移住者に占められたというわけじゃないようで、例えば上の写真、神奈川県綾瀬市の「神崎遺跡」からは、「東三河」の土器が出土している。
有名な静岡市「登呂遺跡」でも、水田は放棄されては再開墾を繰り返したと聞くし、東海地方には苦難の時代だったんだろう。
※なお、ネットなどでは、弥生後期の尾張からの関東移住を、のちの古代豪族「尾張氏」との関連で考察する文を見かけることがあるが、たぶん間違いだと思う。
伊勢湾の「海人族」である尾張氏(の前身)が関東平野の内陸地で田んぼを作るとは思えないし、尾張氏の祖神「火明命」を祀る古社は関東には見あたらないからだ。
尾張氏の本貫といわれる「熱田台地」には、前方後「方」墳の文化がなかったというFACTもある。
知知夫国造と武蔵国造
緑のマークが前方後「方」墳で、赤が前方後「円」墳。
なお、300〜400年頃の行田市には、まだ古墳らしい古墳はなかった模様だ。
んで、一目でわかるように、この時代の北武蔵には「方」が多く、多摩川沿いの南武蔵には「円」が多い。
今の都心部は空白になっているが、当時は海中か、もしくは湿地だったので、お墓どころではなかったようだ。
『先代旧事本紀』によれば、古墳時代の武蔵国には「无邪志(むざし)」の他に「知知夫(ちちぶ)」と「胸刺(むさし)」という二国があったというが、古代史家の原島礼二さんは、「方」が造営された埼玉北部を「知知夫国造」の支配領域、「円」が造営された多摩川下流域を「胸刺国造」の支配領域だとお考えのようだ。
(『古代東国の風景』原島礼二/1993年)
(高城神社 熊谷市観光協会)
『髙橋氏文』なる古文書によると、早世したヤマトタケルを偲んでの景行天皇東国巡幸のとき、料理係として馳せ参じた人に「无邪志国造」の祖と「知々夫国造」の祖がいるので、この時代の武蔵国に「知知夫国」が存在したのはホントっぽい。
それで原島さんが注目されるのが、武蔵国大里郡の式内社「高城(たかぎ)神社」(熊谷市)。
その名から知れるように「高木神(高皇産霊尊)」を祀る古社だが、「知知夫国造」はその高木神の子「オモイカネ(八意思兼神)」を祖神としていて、要はこの熊谷市の高城神社こそが「知知夫国造」の元々の奉斎社だったんじゃないか——と原島さんはお考えなわけだ。
地図を見れば、熊谷は秩父盆地から平野に出たあたりにあるわけで、のちに上毛野国造と武蔵国造の勢力に押されて「知知夫国造」が秩父盆地に引っ込んだとしても、熊谷が平野部の最後の砦になった可能性は十分にありそうだ。
(秩父神社)
ちなみに『先代旧事本紀』によれば、「无邪志国造」は第13代成務天皇(長浜浩明さんの計算で在位320〜350年)の御世に任命されたとあるが、「知知夫国造」はそれより100年前の第10代崇神天皇(同207〜241年)による任命だという。
「无邪志国造」が赴任してきたときには、北武蔵はとっくに「知知夫国造」の支配域になってただろうし、「知知夫国造」が崇神期に赴任というのも、この地に東海からの移住者が押し寄せた時代とは、タイミング的に合致していて面白い。
なお、武蔵国一の宮といえば大宮の「氷川神社」だが、この神社が武蔵・相模諸社のトップにたったのは貞観11年(869年)のことで、それ以前は知知夫国造がオモイカネを祀る「秩父神社」が最上位だったそうだ。
胸刺国造と武蔵国造
(「野毛大塚古墳・復元図」世田谷区教育委員会のPDFより抜粋)
それにしても、原島さんの説をとれば、武蔵国北部は「知知夫国造」、武蔵国南部は「胸刺国造」の版図となって、肝心の「无邪志国造」の居場所が見あたらない。
だが考古学が興味深い発見をしていて、埼玉古墳群の特徴のひとつである「造り出し」を備える古墳が、埼玉古墳群以外にも、武蔵国に一基だけあるのだという。
それが上の図、世田谷区野毛に5世紀前半に築造された82mの「野毛大塚古墳」だ(前方部の下の出っ張りが造出部)。
(野毛大塚古墳 写真AC)
武蔵国で「造り出し」を備える古墳は、5C前半の野毛大塚のあとは、5C後半の稲荷山まで飛んでいて、それ以降も埼玉古墳群にしか造られなかった。
となると、野毛大塚と稲荷山には一つの継続する流れがあるのでは———と考えたくなるのが、人の常(?)。
それであらためて『先代旧事本紀』を見てみると、初代の「无邪志国造」の「子」こそが、初代の「胸刺国造」だと書いてある。要は、のれん分けだ。
だがこの両国造の支配領域がどこにあったかは全く分からないわけで、だったら多摩川をはさんで、片方が横浜市日吉・川崎市加瀬を拠点とし、もう片方が世田谷区・大田区の多摩川沿いを拠点とした・・・という可能性だってゼロではないだろう。
そして5世紀前半に野毛大塚古墳を築造したあと、両国造はもう一度統合され、北上して行田市を目指したのかも知れない。
———「武蔵国造」家の誕生だ。
行田軍団 vs 比企軍団
上のGoogleマップは、西暦400〜600年ぐらいに北埼玉に造営された、主な古墳の分布。
いうまでもなく赤のマークの集合体が埼玉古墳群で、緑のマークはそれ以外。
緑のマークの内訳は、古い順に「野本将軍塚」(東松山115m)「雷電山」(東松山85m)「おくま山」(東松山62m)「甲山」(熊谷90m)「とうかん山」(熊谷75m)。
それと、埼玉古墳群ではない行田市内の前方後円墳「小見真観寺」(102m)と「真名板高山」(104m)も緑にマークしておいた。
それらを年表にしてみると、こんなかんじ。
(出典『埼玉古墳群ガイドブック』2022年より抜粋)
「埼玉県立さきたま史跡の博物館」が作った年表なので、ぼくが挙げた「おくま山」がバッサリ切られているが、そのおかげで見えてくるのが、500年代前半には緑のグループの首長墓が存在していないという世界観。
だが、なぜそこに空白があるのか。
その理由として考えられるのが、その空白に入るはずだった緑グループの首長が、「武蔵国造の乱」で敗れた「小杵(おき)」だった可能性だ。
乱を裁定したのはヤマトなんだから、「小杵」のお墓を築造することは憚られたことだろう。
で、そういった考察を経て、上掲の原島さんの本では、「武蔵国造の乱」とは「行田」の勢力と、東松山から大里村にかけての「比企」の勢力による、権力争いだったのではないか———という結論が導かれているわけだ。
・・・だがそうなると、そもそも緑のグループとは「知知夫国造」の末裔だったのではないか??という気もしてくるが、残念ながら、それを検討できるだけの材料は、何もないというのが実状のようだ
稲荷山鉄剣のヲワケは何者か
(二子山古墳)
ところで埼玉古墳群とくれば、稲荷山鉄剣の「ヲワケ(乎獲居臣)」の話題は欠かせない。
『埼玉古墳群ガイドブック』によると、ヲワケの正体については三つの説があるようだ。
①ヲワケ(コ)は武蔵の豪族で、中央に出仕して自ら鉄剣を作り、帰郷して稲荷山古墳に埋葬された。
②ヲワケ(コ)は中央の豪族で、武蔵に派遣されてきて、その地で没し稲荷山古墳に鉄剣とともに埋葬された。
③中央に出仕した武蔵の豪族が、中央の豪族であるヲワケ(コ)に功績を認められて鉄剣を授かった。
んでぼくの手元の本だと、このうち①は篠川賢氏、②は和田萃氏、③は高橋一夫(+白石太一郎)氏がその論者だ。
みなさんプロの研究者なので、それぞれに説得力のある説明をされているが、問題になるのはヲワケの鉄剣が出土した「槨」は、墳頂部中心軸からはビミョーに外れた位置にあって、本当の被葬者が別にいる可能性があることだ。
じゃーぼくの感想はというと、ここまでの話の流れからいって稲荷山の被葬者は、南武蔵から行田に拠点を移して勢力を広げた人物で、ヲワケの父「カサヒヨ」さんじゃないかと思う。
その息子ヲワケは、(磐井やムリテのように)ヤマトに出仕して、退役に際して「オオヒコ」につながる系譜を下賜されて、それを鉄剣に刻んで帰国したんじゃないか。
稲荷山に始まる埼玉古墳群が、東国にはめずらしい「周濠」を持つのもヤマトからの計らいで、ヲワケの一族は北で勢力を拡げる上毛野氏を牽制する任務を負って、行田に移住したのかも知れない。
(前玉神社)