西暦212年頃、四道将軍・吉備津彦、西道へ

(楯築遺跡)

吉備の王墓、楯築遺跡

楯築遺跡

日本書紀によれば崇神天皇10年、長浜浩明さんの計算だと西暦212年ごろ、四方の教化のために4人の将軍(四道将軍)が派遣されたという。


西道(山陽道)に向かったのは、孝霊天皇皇子の吉備津彦。彼の前に立ちはだかったのが、吉備の巨大王墓「楯築(たてつき)遺跡」だ。

楯築遺跡

こちらは2世紀末ごろの吉備の王さまの墳墓だそうで、墳丘の全長72mは当時の日本最大級だ。

しかも楯築墳丘墓はただデカいだけじゃなかった。それ以前にはなかった新機軸が一気に投入された、画期的な墳墓だったという。

それらをカタログ的に列挙すればこうなる。

吉備の弥生大首長墓 楯築弥生墳丘墓

全長が80メートルを超えるような巨大な墳丘や二方面につけられた整然とした突出部、さらに墳頂部の立石群と斜面の列石木棺木槨構造の主体部と棺底の大量の朱、そして弧帯文石特殊器台・特殊壺の存在など、これらの複雑で入念な構成要素はそれ以前の墳墓からは到底たどることができない現象であった。

(『吉備の弥生大首長墓 楯築弥生墳丘墓』福本明/2007年)

吉備と出雲

特殊器台

吉備オリジナルの弥生土器と言えば、「特殊器台」と「特殊壺」。

これらは生活エリアからはほとんど出土しないので、祭祀専用の道具だと考えられている。

ところがこれ、面白いことに同時代の出雲の墳墓(西谷墳墓群)からも、同じ吉備製ものが見つかっているんだそうだ。しかも10セットとかの量で。


吉備と出雲の接点はそれだけじゃない。

ご遺体を入れる「木棺」をカバーする「木槨」も、吉備と出雲の両方で採用されていたそうだ。


ただその時代を記録した「魏志倭人伝」には、倭人には「棺あれども槨なし」と書いてあるので、当時の中国人が見た「倭人」とは、吉備・出雲の住民とは別の人たちだったのかもしれない。


※九州北部の主流は「槨」のない「箱式石棺」

吉備の「弧帯文石」

弧帯文石

楯築遺跡からは、他にも面白いものが見つかっている。

発掘前の墳丘上には、明治末までは「楯築神社」だった祠が鎮座していたが、そこで御神体として祀られていたのが、上の写真の「弧帯文石」だ。

直径が約90cm、厚さは30〜35cmの巨石で、表面には「帯を返し潜らせ巻き付けたような」奇妙な文様が描かれている。


発掘の結果、墳丘内部から破壊された状態の類似品が検出されたことから、これが楯築墳丘墓に関わるものであることが確定した。

が、不思議なことには、遠く離れた奈良盆地の墳丘墓からも、似たようなデザインが施された「弧文円板」が見つかっているのだ。


それが見つかったのは「纒向石塚古墳」。

全長96m、最古の前方後円墳タイプの弥生墳丘墓だという。

考古学者の石野博信氏によれば3世紀初頭(210年頃)の築造とのことで、ちょうど吉備津彦が四道将軍として山陽方面に派遣されたころの話だ。

弧帯文石

「弧帯文石」をよく見ると、一部に円盤状の突起部があって、そこには人の顔と思われるレリーフが刻んであることが分かる。

まるで人間を、ミイラのように包帯でグルグル巻きにした状態のようだ。

プロの目でも同じようで、考古学者の清水眞一氏は弧帯文を「魂を閉じこめる表現」だとおっしゃっている。


んじゃ閉じこめられた魂とは、いったい誰の魂なんだろうか。

楯築墳丘墓では、破壊された弧帯文石が王の遺体といっしょに埋葬されたんだから、そりゃ亡き王さまの魂なんだろう。

王の魂が外部に出てこないように、グルグルに「緊縛」したうえで破壊したんじゃないか。

楯築遺跡から前方後円墳へ

前方後円墳国家

考古学者の広瀬和雄さんによれば、ヤマトで誕生した前方後円墳とは「亡き首長がカミと化して共同体の再生産を保障する」というイデオロギーが具現化されたものだという。


銅鐸をガラガラ鳴らして「去来するカミ」にすがりつくカミ祀りは終わり、これからは偉大な首長自身が「常住するカミ」となって、死後も共同体を守護するのだ!と。

箸墓古墳 Googleマップ)

だが、弥生時代末期になっても、奈良盆地には前方後円墳への道を予感させる墓制は見あたらなかったという。

その一方で、西暦250〜270年頃に全長280mという威容で誕生した「箸墓古墳」には、出雲から北陸、四国や東海といった各地の弥生墳丘墓の要素が取り入れられているともいう。


素直に考えれば、前方後円墳を構成した各地方の要素は、ヤマトから来た誰かが持ち帰ったものだろう。

日本書紀を読む限りでは、それは四道将軍、山陽なら吉備津彦が候補に挙がるとぼくは思う。


もちろん吉備津彦は吉備の葬送イデオロギーを持ち帰っただけじゃない。日本書紀がいうところの「教化」「王化」も果たしてきている。

吉備オリジナルの祭祀の終焉

鯉喰神社墳丘墓

倉敷市の「鯉喰神社墳丘墓」。

神社の下は楯築遺跡に似た感じの「双方・中方」の墳丘墓で、楯築に続いての築造だという。

しかし吉備では、これを最後に「双方・中方」の墓制は終わり、次の王墓は平凡な100mクラスの前方後円墳に落ち着いたんだそうだ。


また、吉備オリジナルの土器「特殊器台」も、大和では「宮山型」なる最終型を生み出したうえで「埴輪」に発展したというのに、吉備では小さい古墳にちょこっと使われただけ。


吉備が独自に築きあげた葬送文化は、ヤマトの手で他地域のそれと融合し、取捨選択され、やがて定型化された前方後円墳として再誕したということだろうか。


西暦212年頃、四道将軍・大彦、北陸へ(ヤマトと越)につづく