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上の写真は、2024年夏に参詣した福島県いわき市の式内社で「住吉神社」。
「延喜式神名帳」にのる由緒正しい7社の住吉神社のうちでは、もちろん最北に位置している。
社伝によれば、景行天皇の命令で東国を視察してまわった武内宿禰が「東北の関門」として創建した神社だという。
(住吉神社の回廊)
武内宿禰については特に説明はいらない気もするが、第12代景行天皇から第16代仁徳天皇までの5代に仕えたという大忠臣で、血統的には第8代孝元天皇の「ひ孫」にあたる皇族だ。
日本書紀によれば、景行天皇はその3年に「紀伊」への行幸を計画したところ、占いに吉兆ではないと出たので、代わりに孝元天皇の孫「屋主忍男武雄心命」を派遣したという。
その屋主忍男武雄心命は紀伊に9年滞在して、紀伊国造(紀伊直)の娘を娶り、生まれた子どもが武内宿禰だと日本書紀はいうわけだが・・・。
(住吉神社の拝殿)
(住吉神社の磐座=蓬莱山/磯山)
考えられる可能性としては、実は武内宿禰は景行天皇の隠し子だった場合があるか。
武内宿禰といえば、臣下として初めて「大臣」の高位に昇った人物で、それは「大夫」である中臣、大三輪、物部、大伴より上位の存在になる。
いくら孝元天皇の三世孫とはいえ、いきなり譜代の重臣をごぼう抜きにしても不満が漏れてこないのは、重臣たちが武内宿禰の出生の秘密を知っていたから———なんて考えてみたが、景行天皇といえば80人もの子どもがいたというし(古事記)、武内宿禰だけを隠す理由なんてどこにもないか。
ちなみに母方を紀伊国造家とする皇族には、崇神天皇の皇子「豊城入彦命」がいる。
また念のため書いておくと、のちの中央豪族「紀臣(きのおみ)」は武内宿禰の後裔氏族で、紀伊国造家とは別の家らしいので要注意のようだ。
(出典『宗像教授伝奇考』小学館)
そんな武内宿禰の初仕事が、景行天皇25年(長浜さんの計算で302年頃)の7月に始まった「北陸および東方の諸国の地形や百姓の消息を視察」する旅に出たこと。ただし長浜さんの計算だと、この時の武内宿禰は5歳(笑)になるので、本当は誰が出かけたのかは分からない。
ま、それはさておき、27年2月に帰還した武内宿禰は、東国には「日高見国」があり、身体に入墨をした「蝦夷」が住んでいると報告。その土地は「肥沃で広大」なので、攻撃して奪い取るべきと進言している。
(出典『邪馬台国時代のクニグニ・南九州』2014年)
体に入れ墨(文身)といわれて思い出すのが、魏志倭人伝に出てくる「倭人」の風俗だろう(男子、無大小皆黥面文身)。
武内宿禰にとって「黥面文身」は珍しかったから、わざわざ報告に上げたと思われるが、その裏付けになりそうなのが上の「図4」。弥生時代の「人面文」が刻まれた土器の分布になるが、近畿からは今のところ、一点も出土していないそうだ。
古事記によれば、神武天皇の使者として後の初代皇后の元を訪問した「大久米命」は、姫から目尻に入れ墨をしている理由を問われている。奈良盆地の女性には、九州地方の「黥面文身」の文化が珍しかったのだろう。
(「万行遺跡」出典:七尾市教育委員会のPDF)
ところで、長浜さんの計算だと302〜303年頃になる武内宿禰の東国視察が、前人未到の未開地への侵入———というわけではなかったことが、考古学の成果から分かっているようだ。
まず北陸だと、その当時の「能登」には「万行遺跡」なる倉庫群があったという。
考古学者の髙橋浩二さんによると「南北約74m、東西約39mの範囲に二列の区画溝を巡らせた内部から、区画溝に沿って整然と並んだ大型掘立建物が、3棟ずつ新旧2期にわたって確認されている」という。
万行遺跡は、その他の北陸地方の倉庫群に比べるとサイズが一回り大きく、「計画性や建物の規模、構造等からみて、倭政権による経営が推測」される、と髙橋さんはお考えのようだ。
(出典『東北古墳研究の原点・会津大塚山古墳』辻秀人)
万行遺跡のある能登から、人間が移動していったと考えられているのが、福島県の「会津」だ。
考古学者の辻秀人さんによると、弥生時代末に縄文土器を使っていた会津地方に、古墳時代に入るやいなや見慣れない弥生土器が現れたのだという。しかもその集落は、住居やお墓までが会津土着のものではなく、調べていくと、それらの出身地が遠い能登地方にあると判明したそうだ。
辻さんによると100人を超える人間が、集団として移住してきたことが考えられるとのこと。
(会津坂下町の「杵ガ森古墳」2024年夏見学)
そんな能登人が会津に築いたのが、東北では最古と言われる前方後円墳「杵ガ森古墳」だ。墳丘長は約45mで、西暦300年前後の築造だという。
驚いたことに、杵ガ森古墳はあの「箸墓古墳」と同じ「前方部バチ形」の墳形で、6分の1の相似形なんだそうだ。箸墓古墳についての完全な知識がなければ、そのミニチュアを作ることはできないだろう。
———といった感じで、武内宿禰が北陸から東北をまわった頃、そこにはすでにヤマトの文化を持った人たちが暮らしていたという話。
(いわき市の「小名浜港」2026年春訪問)
日本書紀によると、武内宿禰が日高見国の攻略を進言してから13年後、ヤマトタケルによる東征が開始されている。
このときヤマトタケルは、日高見国を平定したのち「西南方の常陸をへて、甲斐の国に至り」とあるので、常陸からみれば日高見国は北東方向。
仙台だとほぼ北になってしまうので、ぼくはその中間でギリギリ北東にあたる福島県いわき市に、ヤマトタケルの時代の日高見国があったんじゃないかと思っている。
いわき住吉神社の縁起が本当なら、武内宿禰は今の「磐越道」を通って日高見国まで到達したんだろう。
(常陸国信太郡の式内社「楯縫神社」)
ヤマトタケルの時代———と言ったのには理由があって、「常陸国風土記」によると「黒坂命」なる将軍が常陸国の最北部にある「多珂郡」の蝦夷を撃破した頃、日高見国はまだ常陸国の「信太郡(しだぐん)」にあったという。
信太郡ってのは今の霞ヶ浦の南岸一帯で、JRAの美浦トレセンなどがあるエリア。黒坂命は信太郡=日高見国を拠点にして、常陸から蝦夷を追っ払っていたようだ。
崇神天皇に派遣された「建借間命」の後釜のようなので、黒坂命は3世紀後半の人物かと思われる。
(「鹿島神宮」2023年秋参詣)
ところで日高見国とは「日高」を「見」る国を意味するそうで、古代史家の大和(おおわ)岩雄さんは、見られる側の「日高」について、常陸国一の宮「鹿島神宮」のことだろうと書かれている。
(『日本の神々 神社と聖地11関東』1984年)
まず、常陸国風土記の「信太郡」の記事がこう。
榎の浦の津には駅家を置いた。東海道の幹線路であり、国府へ至る常陸路の人り口である。
だから伝馬の使者たちが、初めてこの国に入ろうとするとき、まず口と手を洗い、東に向って鹿島の大神を拝む。その後に入国が許される。
(『風土記・上』角川ソフィア文庫)
鹿島神宮とペアで祀られるのが、利根川の対岸にある下総国一の宮「香取神宮」。
日本書紀は神代(第9段第2の一書)で、「檝取」に鎮座する神を「齋主(いわいぬし)」の神だと書いていて、この香取の神が斎く相手が「香島の大神」だろうと、大和さんは書かれている。
大和さんによれば、元々の香取神宮は信太郡にあって、真東の「日高(日立)」に鎮座する「香島の大神(鹿島神宮)」を祀る神社だった。それが649年に両神社に「神郡」が設置される際に、中臣氏が陰陽五行説の方位観にもとづいて、鹿島が北東(丑寅)にあたるように香取を現在地に移したのではないか———とのことだ。
(「香取神宮」2023年秋参詣)
つまりは、斎主(香取)が日高見国にあって、そこから日高/日立(鹿島)を祀る———という構図になるわけだが、この構図はヤマトが蝦夷を追って北上するときも、同じようにペアで北上したのだという。
陸奥国に点在する、鹿島系神社と香取系神社がそれだ。
この「ヒタチ」が「皇威」に服すると、日高見国(信太)は移動し、陸奥の信太郡付近が日高見国になる。
そして蝦夷地が「ヒタチ」、つまり日高、日の本の国となる。その移動に伴って鹿島・香取神も移動する。
というのは、両神が日高(日立)と日高見の神である以上、このペアは、日高と日高見国の地にとって、どうしても必要だからである。
(『日本の神々 神社と聖地11関東』)
この「移動する」日高見国については、民俗学者の谷川健一さんも『白鳥伝説』(1986年)のなかで論じられている。
927年成立の延喜式「大祓詞」のなかで、天孫降臨からの大和平定について「大倭日高見国を安国と定めまつりて」とあるのは、降臨した日向からみて国の中央である「大倭」を褒め称えたもので、このときの日高見国は大倭(大和)と「同義語」だと、谷川さんは書かれている。
日高見はヒノカミ(日ノ上)に由来するという松村武雄の説がもっとも納得がいく。すなわち日高見(日の上)は太陽の出る方向で、東方の地を指す。
天孫の降臨した日向からみて東方にあたる大和の国をほめたたえて、大倭日高見国と称したのである。
日高見はいつしか大和よりさらに東方に移動し、常陸信太郡の別称となり、さいごには陸奥国の北上川の流域の呼称となったのである。
(『白鳥伝説』谷川健一/1986年)
東へ、東へと版図を拡げていくヤマトの視線の先には、いつでも武内宿禰が進言した豊かな大地、「肥沃で広大な」日高見国があった———という話だろうか。
景行天皇(10)につづく
ここからは雑談。
Amazonで「日高見国」を検索すると、真っ先にヒットしてくるのが東北大学名誉教授・田中英道先生の『日本の起源は日高見国にあった』(2018年)だ。
田中先生によると、大祓詞の「大倭日高見国」とは、日本という国が「倭=大和」と「日高見国」という「二つの国を合体」させたものだという、当時の人々の認識を示しているのだという。
要は、民俗学者の谷川健一さんとは真っ向から対立する説を唱えているというわけだが・・・ぼくとしては、谷川さんの「大倭=日高見国」説の方に一票だ。
上の漢文は、Amazonで¥330でダウンロードした延喜式「大祓詞」で、真ん中辺に問題の「大倭日高見国」の文字がみえる。天孫ニニギの降臨に際して、「大倭日高見国」を「安国」として定めた———というようなことが書かれている。
ところがちょっと前の9行目をみると、ここにも同じ「安国」の文字がみえる。それは天つ神がニニギに対して、「豊葦原水穂之国」を「安国」として治めなさいと命じている場面だ。
でも「豊葦原水穂之国」を、「豊葦原」と「水穂之国」に分けて考える人はいないだろう。どっちも単に、日本という国への美称だからだ。
ならば「安国」という単語で等式にされている「大倭日高見国」も、勝手に分離させちゃいけないんじゃないだろうか。どっちも同じく、日本という国を称える強調表現で、別々のものを合体させたという意味ではないと、ぼくには思える。
んで田中先生の本はというと、この先で「高天原は関東」「天孫降臨は関東から西国に向けて行われた遠征事業」と、なぜか関東=日高見国がわざわざ九州まで海路で移動して、そこから神武東征が開始されるという、摩訶不思議な歴史観が展開されていくわけだが・・・、それ自体は田中先生個人のお考えなので、尊重されなければならないと、ぼくは思う。
問題は、田中先生の本には、別の本からの「いただき」が多いように感じられることだ。
別の本というのは、鹿島神宮の社家にして、宮司もつとめられた東実(とうみのる)さんが、1968年に著した『鹿島神宮』(学生社)。
当時は悪名高い「騎馬民族征服王朝説」が日本中を覆っていた暗黒の時代で、東さんはそれに対抗すべく、やや無理矢理、かなり強引に、日本文化の原点は東国にあって、西からの渡来系文化などクソ喰らえだ!!みたいな論陣を張られていたようだ。
そんな宮司の魂の叫びが込められた本と、似たような文章が田中先生の本には散見される・・・。
付箋は20枚ほど貼ってあるんだが、そのうち前後の脈絡がなくても比較しやすいものを4点、列挙してみる。いただきかどうかの判断は、それぞれにお任せします。
大国主命が山陰地方のみならず、山陽近畿の地方まで治めていたことは、大和の大神神社の縁起によって知られる通りで、大国主命が自分の幸魂奇魂をまつり、国を治めたという有名な神話である。
(『鹿島神宮』東実/1968年)
オオクニヌシとの交渉が成功すれば列島は統一します。つまりオオクニヌシが山陰地方をだけではなく、山陽、近畿の地方まで治めていたことは、大神神社(奈良県桜井市)の縁起によって知られています。かくてオオクニヌシが治めていた地方は皇孫が治めることになりました。
(『日本の起源は日高見国にあった』田中英道/2018年)
その2。
これは、葦原中国が概念的には、日本民族が理想を抱いてすすもうとする地方を、葦原中国とたたえたことに理由がありそうである。イザナギ・イザナミ時代がほぼ全国をさしているのは、全国が統一されたころに、この創世期の神話が成立したことを示すのだろう。
(『鹿島神宮』東実/1968年)
概念としては、日本民族が、ある理想のもとに統一しようとする地方、平定しようとする地方を「葦原中津国」という名で呼んでいます。葦原中津国と言えば日本列島全域をそう呼ぶイメージがあるのは、全国が統一された頃、日本神話が成立したことに原因があると考えられます。
(『日本の起源は日高見国にあった』田中英道/2018年)
その3。
高天原は、最初は現実の地上におけるある地点であったが、その後追憶の場所となった。そして神話として完成される前に理想化され、天御中主神誕生の段にみられるように、場所を設定しない神道上の聖地として崇められるようになったのだと―。
(『鹿島神宮』東実/1968年)
高天原は、最初は天高く、抽象的で、幻想的な場所でした。記紀の中での高天原の扱いの変化は、アメノミナカヌシが誕生し、おびただしい数の神々が住むようになってから、段々と現実の、地上における世界と立場の変わらないものとなっていき、最終的には追憶の場所となった過程を示していると考えられます。
(『日本の起源は日高見国にあった』田中英道/2018年)
その4。
『日本書紀』巻の第三の冒頭に、
ここに火の瓊瓊杵尊、天の関を闢き、雲路を披き、仙蹕を駈せて戻止りたまひき
というところがある。この天の関(と)を、多くの書は関(いはくら)と読んでいるようであるが、朝日新聞より出た日本古典全書は天の関と読んでいる。
(中略)
さて、 この天の関はというと、 これはいうまでもなく鹿島・香取間の水道以外にはない。
香取神官の末社に天降神社という神社があって、祭神を伊伎志爾保命鑰守神とする。正に関守の神ではないか。
(『鹿島神宮』東実/1968年)
「天の戸」は、「天關」と表記されています。この「天の戸」とは、鹿島と香取の間にある水道の「関」を指していると考えられます。それが開かれて、船出したわけです。
香取神宮には、「天降神社」という末社があります。祭神は伊伎志爾保神で、「鑰守神」つまり「関の鍵を守る神」です。
(『日本の起源は日高見国にあった』田中英道/2018年)
(「天降神社」2023年秋参詣)
※田中先生については他の本の感想文も書いているので、興味のある方はどうぞ。
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東実さんの『鹿島神宮』そのものへの読書感想文はこちら。
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景行天皇(10)につづく