古事記には偽書説があるらしい

(蘇我と藤原)

古事記には「偽書」説があるらしい

多賀大社拝殿

滋賀県犬上郡多賀町で、イザナギ・イザナミを祀る式内社の「多賀大社」。


『古事記』の上巻に、イザナギは「坐淡海之多賀也」(淡海の多賀に坐すなり)とあることから、当地をイザナギの墓所とみなしての信仰だそうだ。


妻のイザナミの方は、出雲と伯耆の境の「比婆之山」に葬ったというので、えらく遠く離れたところにお墓を作ったもんだ。


ところが『日本書紀』には全く違うことが書いてあって、イザナギは「淡路」に、イザナミは「熊野」に墓所があるという。

この点に限らず、一口に「記紀」とは言うものの、記と紀を同じ物のバリエーションだと考えると泥沼にはまる。

多賀大社社号標

ただ、イザナギ・イザナミの「国生み神話」については、文化人類学や神話学のフィールドワークの成果で、古代から広くアジアの漁労民に共有されてきた「洪水型兄妹始祖神話」とやらにルーツがあることが判明しているという。

つまりイザナミ・イザナギは「海人(あま)族」の神だろうということだ。


ならばその墓所は、海人族の拠点である「淡路島」や「熊野灘」がふさわしく、近江盆地や中国山地には縁もゆかりもない気がするが、さてさて、どちらの主張が正しいのか。


気になるのは、古事記には昔から「偽書説」があるということだ。

と言ってもウソ800が書いてあるということじゃなくて、古事記が「序文」でいうような、天武天皇の勅命で稗田阿礼が「誦習」した記録を、712年に太安万侶が文章化したという、成立の経緯が疑われているらしい。

問題は「序文」にある

古事記成立考

古事記偽書説に興味が湧いて読んだのは、古事記研究をライフワークにされた大和(おおわ)岩雄さんの『古事記成立考』(1997年)。

大和岩雄さんについては、『でる単』や『Big Tomorrow』が懐かしい青春出版社の創業者だと聞けば親しみが湧いてくると思うが、在野の古代史研究家としても超有名だ。


まずは大和さんの結論から。

このことからみて、古くからあった旧記(ふることぶみ)としての『古事記』(原古事記)に、序文を付し、系譜を書き直し、仮名遣いを統一して、誕生したのが、現存『古事記』であろう。

  (「現存『古事記』を宣伝した『弘仁私記』序」)

問題は「序文」だということだ。

序文に712年と書いてなければ、古事記は平安初期に(忌部氏の『古語拾遺』や物部氏の『先代旧事本紀』と同じように)成立した、民間の私的史書の一つに過ぎなかったのかも知れなかったという。

聞いて驚いたが、古事記の序文以外に、古事記が712年に成立したことを裏付けるものは何もないらしい。

この点、国史(正史)の『続日本紀』に編纂の経緯が明記される日本書紀との出自の差は、大きいといわざるを得ない。


●序文の怪しさ1

稗田阿礼の実在を証明するものが、何もない。それどころか、勅命を受けた舎人だという割りには「姓(かばね)」さえない。


●序文の怪しさ2 

太安万侶は、『続日本紀』に5回も名前がでてくる実在の高級官僚だが、和銅5年 (712年)の条に、太安万侶が勅撰の古事記を選録したという記録はない(720年の日本書紀完成の記事は存在する)。


●序文の怪しさ3 

古事記は序文と本文で内容が違う。本文で大々的に取り上げたヤマトタケルや出雲神話について、序文では全く言及がない。また、専門家が見ると、序文は「唐様」、本文は「倭様」 で、文体からして異なるという。

神馬

古事記を作ったのは誰なのか

じゃあ結局のところ、大和さんが言われる「現存古事記」を作ったのは誰なのか。


それは、平安初期の日本書紀研究の第一人者で、朝廷で「日本紀講筵(こうえん)」を行った「多人長(おおのひとなが)」なる人物だと、大和さんは言われる。

何でも「古事記」の名が歴史上はじめて確認できるのが、この人の日本書紀講義の記録なんだそうだ。


多人長が、自分の講義に副読本として手持ちの「古事記」を持ちこんだ。そこには、太安万侶の偉業を称える序文が書き加えてあった。

その名から分かる通りで、多人長さんは太安万侶の子孫にあたる・・・。

とびお

古事記は普通名詞?

ところで大和さんによれば、固有名詞である日本書紀と違って、古事記は風土記と同じ「普通名詞」で、ぼくらが目にする現存古事記の他にも、いくつかその存在が確認されているという。


もちろん、一般人のぼくにはどれも初めて聞く名前だが、いちおう挙げとくと、まず『仙覚抄』に引用された『土佐国風土記』逸文に残る「多氏古事記」。

それと平安前期の『琴歌譜』に記載された「一古事記(あるふることふみ)」。

さらには、万葉集の「注」に出てくる「古事記」は、現存古事記とは違う歌が出てくるので別の本だという・・・。


なるほど、いろんな古事記があるのは分かった。 でも、ぼくらが知ってる現存古事記の元になったという「原古事記」、これはどこから来たものなんだろう。

古事記はもとは蘇我氏の帝紀か?

六国史以前

それを考察しているのが『六国史以前』(関根淳/2020年)。


この本によると、古事記が「継体天皇の母系」や「聖徳太子の偉業」「崇峻天皇の暗殺」などをスルーしている点から、「原古事記」は蘇我氏、それも中大兄皇子に味方した 蘇我倉山田石川麻呂」の手元にあったものではないかということだ。


んで、さらに元を正せば、それは蘇我氏に伝わる「天皇記(帝紀)」だったんじゃないかと。


そういえば古事記では、日本書紀に書かれているニギハヤヒの「国譲り」や、物部十千根による出雲の神宝検校など、物部氏の活躍が大半カットされている。

なるほど蘇我氏なら、自家製の「帝紀」からライバル物部氏を削除する、十分な動機があったということか。

古事記と藤原不比等

古事記外伝

しかし一方で、古事記の成立に関与した大人物に、「藤原不比等」を挙げる説もある。

宗教研究家の藤巻一保さんは『古事記外伝』(2011年)のなかで、古事記には、藤原氏(中臣氏)による政治的プロパガンダの可能性があると、主張されている。


ザックリまとめれば、「生」をつかさどる「伊勢」と「死」をつかさどる「出雲」を高く持ち上げることで、その両者を統べる天皇の価値が高まっていき、ひいてはナンバーツーの藤原氏(中臣氏)の価値も高めることができる・・・というような話で、とても説得力のある説明だと思う。


蘇我と藤原、一体どっちが仕掛け人なのか。

日本書紀(上)

実は、関根さんの話には続きがある。

乙巳の変で蘇我本家の「古事記(天皇記/帝紀)」は燃えてしまったが、分家で中大兄皇子に味方した蘇我倉山田石川麻呂の「古事記」は残った(と関根さんはお考えだ)。


時は流れて大化5年3月。

謀叛の疑いをかけられて皇軍に追われた石川麻呂は自害し、その財産は朝廷に没収されたが、その時の様子を日本書紀はこう記録している。

資財之中、於好書上題皇太子書、於重宝上題皇太子物。

(資財のうち、好き書の上には「皇太子の書」と題され、重き宝の上には「皇太子の物」と題される)

もしも、蘇我氏の「古事記」が石川麻呂の「好き(よき)書」に含まれていたなら、それは遺言にもとづき皇太子「中大兄皇子」の手に渡っただろう。

それが中大兄皇子の寵臣「中臣鎌足」の手に渡り、さらにはその子「藤原不比等」の手に渡る・・・そういう可能性は十分にあったというわけか。


となるとつまり、蘇我氏の帝紀を、藤原氏がさらに改変したと・・・?


古事記はどう読まれたのか」につづく