神武天皇の部将④天日別命

桑名宗社の天日別命(アメノヒワケ)

桑名宗社

神武軍の部将として伊勢を平定した「アメノヒワケ(天日別命)」を祀る「桑名宗社」。

名古屋からクルマで木曽川、長良川、揖斐川を一気に渡ると現れる、三重県桑名市に鎮座する古社だ。


天日別命の名前は、正史「日本書紀」には出てこない。

彼の功績が記されるのは、713年に元明天皇の命令で編纂が始まったと言われる「風土記」の中でだ。

桑名宗社

「伊勢国風土記」逸文によれば、大和の宇陀に到着した神武天皇は、「日臣命(道臣命)」にナガスネヒコの征伐を命じる一方で、アメノヒワケに「天津之方(遠く離れたところ)」の国の平定を指示したという。


それで東に向かったアメノヒワケは「イセツヒコ(伊勢津彦)」と遭遇し、無条件での「国譲り」を迫った。

はじめは抵抗していたイセツヒコだったが、アメノヒワケが軍事制圧の動きを見せるとビビりだし、あわてて東国へ退散していった。

一説には、神武天皇はイセツヒコを信濃に住まわせたという。また、天皇はイセツヒコの旧領を「伊勢」と命名し、アメノヒワケに与えたという。


神武東征時のエピソードはもう1本。

 

アメノヒワケが「度会(わたらい)」に煙が立っているのを見つけて使者を送ると、土地の「大国玉の神」が恭順を示して、お姫様を「補佐役」として寄越してきた。詳しいことは書いてないが、まぁ想像通りの話だろう。

「大国玉の神」はのちの伊勢神宮外宮の禰冝を世襲する、あの「度会氏」の祖だと思うが、これも詳しい説明はない。

風土記

だいぶ時間が飛んで、第11代 垂仁天皇の時代にもアメノヒワケの名前が出てくる。 


アマテラスの遷宮地を伊勢の「五十鈴川の宮」に決めた倭姫命(やまとひめ)が美濃から伊勢にやってきたが、そこには通行人100人のうち50人を殺し、40人なら20人を殺したという「荒ぶる神」がいて、怖くて先に進めない。


倭姫が苦境を垂仁天皇に訴えると、その「荒ぶる神」がいる山は昔、アメノヒワケが平定した場所だから、その子孫の「伊勢の大若子命」が祭り鎮めよとの勅命が下された。

大若子命は「安佐賀」にその神の鎮座する社を立てて鎮めて、倭姫はようやく神宮に到着したという。


「逸文」なので鵜呑みにはできないにしても、8世紀の伊勢の人びとが神武天皇の東征を語り、垂仁天皇の伊勢遷祀を語り、両者のあいだに流れた時間を語っているところが、ぼくには非常に興味深い。 


あくまで感覚的な印象にすぎないが、ぼくが「欠史八代」といわれる第2〜9代の天皇の実在を信じるのは、こういう小さな話題の積み重ねによる。


紀元前70年、神武天皇の即位 (古事記と日本書紀のニギハヤヒ)につづく