富士吉田と新宮の徐福

富士吉田の徐福

明見湖公園「徐福の像」

「日本書紀には真実が書かれていた」と本の帯にある『日本の誕生』で長浜浩明さんは、神武天皇は紀元前33年に63.5歳で崩御したと計算されている。

そこから逆算すれば、神武天皇はBC96.5年生まれということになる(以後0.5は略す)。


そこを起点にして、日本書紀の「神代」に登場する神武天皇の系譜を一代あたり20才でムリヤリ遡っていくと、父「ウガヤフキアエズ」はBC116年生まれになる。

祖父の「山幸彦」はBC136年生まれ。

曾祖父「ニニギ」はBC156年生まれ。

「天忍穂耳」はBC176 年生まれ。

「天照大神」はBC196年生まれ。

「イザナギ」はBC216年生まれという計算になる。


アホで単純な計算だが、イザナギが生まれたBC216年?に近い年代に、中国大陸から当時の最新技術を携えて、日本に渡ってきたとされる集団が文献記録にあるとしたらどうだろう。


それは、BC210年に不老不死の薬を求めて祖国を旅立った、秦の方士「徐福」の一団だ。 


彼らの行き先は『史記』にこそ記載がないが『三国志(呉書)』や『後漢書』を素直に読めば、徐福が向かった先には日本列島があった。


そんな徐福の伝説が今に残る、山梨県の富士吉田市に出かけたのは2020年初夏のことだった。

波多志神社

まずは河口湖に近い、「河口浅間神社」から。

大鳥居をくぐって杉並木の参道を進むと、道の真ん中に小さな祠がある。

いただいたパンフレットによると、創祀者の霊を祀った「波多志神社」だとあるが、それがなぜ徐福?


ネットで検索したところ、「波多志」は「秦氏」の言い換えで、江戸時代にここらの神職 が"秦の徐福"の子孫を称していた記録があるらしい(『甲斐国志』)。


でも、有名な古代豪族の秦氏は、たしか始皇帝の末裔を自称してた気がするし、徐福は秦じゃなくて「斉」の出身だと思ったが、・・・ま、この程度の混乱はよくある話か。

鶴塚

続いては、地元では徐福の墓と言われている、 福源寺の「鶴塚」を見物した。 

富士吉田市の公式観光ガイドによれば、徐福はこの地で死んで鶴になり、1000年(!!)生きたあと、ここの境内で息絶えたそうだ。


しかし、伝説は伝説で何らかの意味があるにしても、石を積んだものを徐福の墓だと言うのは正しいもんなんだろうか。

たしか始皇帝の陵墓は富士山っぽい形のピラミッドだったし、徐福の墓があるとしたら古墳のような形に見えるんじゃなかろうか・・・。

などと話しながらクルマを「明見湖(あすみこ)公園」に停めて、いちおう「徐福の像」に手を合わせた(一番上の写真)。 

それから歩いて「徐福大明神」の祠のある「太神社」に向かったわけだが・・・。


むむむ、Googleマップで見れば、平地の真ん中にポツンとたたずむこの小山は、まるで古墳のように見えるじゃないか。直径40m、高さ10mは、このあたりの円墳としては結構デカい方なのでは!?

徐福大明神

ま、それは考えすぎだったようで、ネットで検索しても明見湖の周辺に古墳はないようだ。

ただ「明見(あすみ)」という地名は、亀山勝さんの主張する「アヅミ地」の一つだということは記しておきたい。


それは、紀元前473年に「越(えつ)」に滅ぼされた「呉(ご)」から日本列島に渡ってきて、中国大陸の先進文化を縄文人にもたらした「安曇(あずみ)族」が入植したと考えられる地域のことで、「明見」の他にも「渥美郡」「安曇野」「安角」「安津見」なんて地名が該当しているんだそうだ。

(『安曇族と徐福』亀山勝/2009年)

南紀・新宮市の徐福

徐福公園

和歌山県新宮市の「徐福」を巡ったのは、その一年後、2021年初夏のこと。

朝の6時33分に新横浜から「のぞみ3号」に乗って、名古屋で特急「ワイドビュー南紀1号」に乗り換え、新宮駅に着いたのが昼前の11時34分だった。

徐福像
徐福の墓

そうして5時間かけて辿り着いた新宮市だったが、最初の目的地「徐福公園」は駅から1分の立地にあった。

改札を抜けたら、もう見えているという近さだ。

ここでは 1997年製の「徐福像」と、江戸時代に建てられた「徐福の墓」を見物。

阿須賀神社

レンタカーを借りて、東に1分走ると熊野川沿いに鎮座する「阿須賀神社」に到着。 

社殿の背後にそびえる標高48mの神奈備を、地元では徐福が目指した「 蓬莱山」だと呼んでいるんだそうだ。

この地域からは弥生時代の住居跡が発掘されていて、境内に設置された資料館で出土品を見学できた。

徐福の宮
秦徐福上陸の地

阿須賀神社では「徐福の宮」にも参拝。 

境内を出て40秒ほど歩いて熊野川に出ると、フツーの民家の前に「秦徐福上陸の地」の碑があった。とりあえず手を合わせておいた。


・・・という案配で、新宮市での徐福聖地巡りは完了。所要時間はトータル30分といったところか。

もちろん、この後ぼくらが「熊野三山」を巡詣してきたことは言うまでもない。

なお、全国の「徐福伝説地」では、弥生時代に大陸から伝わった「金属生産に関する鉱山・冶金・鍛冶など一連の技術、機織、陶工、造船の諸技術と、鉄製工耕具、穀物の種子、漢方薬採集」などを「地場産業」にしているケースが多いという。


富士吉田だと「機織(はたおり)」。

新宮のある南紀だと「造船資材」が有名だということだ。


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