道教の「天」と「神仙」と前方後円墳

秩父神社と道教

秩父神社

このエリアの神社には珍しく、ヤマトタケル伝説とも山犬伝説とも無縁な「秩父神社」。 こちらは貞観11年(869年)に氷川神社に抜かれるまでは、武蔵国では一番「神階」の高い神社だったそうだ。

秩父神社

神仏が習合していた時代の秩父神社では、「大宮妙見宮」と称して「妙見菩薩」を祀っていた。

妙見信仰ってのは、要は北極星や北斗七星への信仰らしいんだが、元を辿れば中国三大宗教のひとつ「道教」に由来するんだそうだ。

五千頭の龍が昇る聖天宮

五千頭の龍が昇る聖天宮

それで、道教に興味が湧いたぼくらが立ち寄ったのが、埼玉県坂戸市の「五千頭の龍が昇る聖天宮(せいてんきゅう)」。

台湾の富豪が個人で建立した、日本最大の道教施設だそうだ。これは凄かった。


聖天宮のパンフレットによると、道教とは「神仙思想」と「老荘思想」が二枚看板とされるものの、仏教・儒教との最大の違いは、道教が民間信仰の集合体として始まったことにあるらしい。

五千頭の龍が昇る聖天宮

日本においても、道教は「陰陽道」や「修験道」として体系化された一方で、雑多な民間信仰として根付いたものも、数多い。


一例をあげれば、日柄・方角・家相・相性・年回り・干支・霊符や御守り・正月の屠蘇や七草・端午の節句・茅の輪くぐり・お中元・七夕・てるてる坊主、なんてのが道教由来なんだそうだ(『道教の本』学研)。

道教思想10講

『道教思想10講』(神塚淑子/2020年)という本によると、道教は古代日本人の世界観にも多大な影響を及ぼしているそうだ。例えば、「高天原」を思わせる「天」の観念。

 道教においては、天は神々の住む場所であり、また、人がその得道の程度に応じて到達することのできる理想の境地でもあるとされた。

「高天原」という概念が成立したのは、7C後半の持統〜文武朝とのことだが、その原像はかなり古くから共有されたのだろう。


また、「神仙」の方は、日本古来の「常世(とこよ)」の観念と結びつき、海の彼方の「異世界」から、不老不死の仙人がすむ「理想郷」へと展開していった。浦島太郎が訪れた「竜宮城」なんかが、その代表らしい。


時代が進むと神仙の範疇は拡大され、聖徳太子や空海、役行者などが神仙の仲間入りを果たす。その中の一人に、白鳥伝説の我らがヒーロー、ヤマトタケルも含まれたそうだ。

「天」と「神仙」と前方後円墳

方格規矩鏡

(出典『古墳に秘められた古代史の謎』2014年)

ところで、かなり早い段階から日本に「天」の観念が入っていた物証には、中国製の「銅鏡」の存在がある。


上は、後漢時代(25〜220年)の漢鏡で、「方格規矩鏡」というもの。 

真ん中の方形は人が住む「大地」を、外側の円形が神々の住む「天」を、それぞれ表しているんだそうだ。これを、「天円・地方」の観念という。 


そして何と!古墳時代の日本人は、こいつをデッカいお墓の上に再現してしまった。

内方外円区画

出典『前方後円墳の世界』広瀬和雄

上の「図2-5」は「前方後円墳」の墳丘上に再現された「天円・地方」で、「内方外円区画」と呼ばれるもの。

20センチの鏡に込められた宇宙が、70メートルの後円部に展開された状態が、伊賀市の「石山古墳」などに確認できるという(最古級は、3世紀末の桜井茶臼山古墳)。


考古学者の広瀬和雄さんによると、3世紀半ばごろ、西日本各地の弥生墳墓の要素を統合する形で畿内に誕生した前方後円墳には、「亡き首長がカミと化して共同体を守護する」という働きが期待されたのだそうだ。


それは人々が、弥生時代の不安定な「去来するカミ」を捨てて、共同体に「常住するカミ」を求めた結果だということだが、そこに「天円地方」という中国製の高尚な宇宙理論を乗っけることで、前方後円墳は「在地性を払拭した高次元の祭祀に昇華した」と、広瀬さんはおっしゃっている。

西王母・東王父

出典『前方後円墳国家』

また、前方後円墳には「神仙」の観念も導入されていた。

大量に副葬された「三角縁神獣鏡」の表面に刻まれた「西王母」や「東王父」などは、古代中国を代表する神仙だった。カミと化した亡き首長の、永久不滅を願ったのだろうか。

新しい祭祀へ

銅鐸

弥生時代から古墳時代にかけての、カミの入れ替えの件には、別の説もある。


ある気象データによると、3世紀の日本列島では天候不順が続いて、不作や飢饉が頻発したという。そこで、人々は弥生のカミを象徴する「銅鐸」や「銅矛」を否定して、うち捨てて、新しいカミに乗り換えようとした。


それが、「魏志倭人伝」にでてくる卑弥呼の「鬼道」だろうと、考古学者の石野博信さんはお考えだ(『弥生興亡 女王卑弥呼の登場』2010年)。


・・・ただ、鬼道って要はシャーマンが執り行う「巫術(ふじゅつ)」なわけで、卑弥呼やトヨみたいな異能者が降ろしてきた「カミ」を、日本中の人が崇める・・・って、なんかイメージが違う気がする。

"カミ降ろし"は日本書紀じゃ神武天皇がやってたわけで、新しいという感じは全くない。

その点、前方後円墳の「亡き首長がカミと化して共同体を守護する」って観念は分かりやすいし、誰でも何処でもマツリが可能だし、視覚を圧倒して永久不滅を思わせる巨大な造型物だし、しかもわが国の完全オリジナルだし!


広瀬さんは、この前方後円墳で結ばれた、ヤマトを中心にした利益共同体を「前方後円墳国家」と呼ばれる。

それは日本の津々浦々にざっと5000基、3世紀半ばから6世紀までの350年間、延々と作り続けられていったわけで、少なくともその期間「前方後円墳国家」は機能したと見ていいんだろう。

5世紀のヤマト

アマテラスの誕生

でも、あれれ?

そういえば、こんな説を読んだことがある。


5世紀初頭に高句麗との戦争に敗れたヤマトでは、揺らいでいく権威と権力を取り戻すために、当の高句麗から「天」と「天の至高神」と「その実子の地上への降臨」をセットにし た"支配者起源神話"を輸入した。

それが皇祖神タカミムスビと、「天孫降臨」の神話であると。


そしてこの時はじめて日本に「天」の観念が導入され、その結果、日本神話には、海を基軸にした水平の世界観と、天を基軸にした垂直の世界観が同居するようになり、前者がアマテラス系、後者がタカミムスビ系であると、その本には書いてあった。


・・・いや、でも5C初頭より遙かに古い前方後円墳に、すでにタテ軸の「天」とヨコ軸の「神仙」が採り入れられてるのは今回見たとおりだし、404年に高句麗に負けたからといって「前方後円墳国家」が揺らいだという話も聞いてない。

渡来人と帰化人

それとその本には、中国の「天」と高句麗の「天」ではルーツが違うのだ、と書いてあるんだが、別の本には反対のことが書いてあった。

中国で「晋」王朝が衰退を始めた313年、孤立した楽浪郡を滅ぼしたのが高句麗だったが、そこには中国人の姿もあったという・・・。

そして郡の経営を担ってきた漢人や、華北の争乱を逃れた中国系の支配層・知識人を取り込み、彼らを積極的に登用した。

(中略)彼らは、その先進的な知識で高句麗の支配体制の整備・強化を大いに助けた。

(『渡来人と帰化人』田中史生/2019年)

これ、4世紀の高句麗はモロに中国人の影響を受けたと言ってるわけで、5世紀のヤマトがそこから高句麗オリジナルの部分だけ汲み取るなんて細かい芸当、できるようには思えない。

中国の影響ごと、採り入れるしかなかったはずだ。

日本の道教遺跡を歩く

それと、道教研究の第一人者の福永光司さんは、わが国への古代朝鮮からの渡来人が及ぼした影響について聞かれたとき、こう断言している。

 確かに朝鮮には北方系のシャーマン的なものは残っていますが、それは古代日本の宗教文化に対して、それほど大きな影響は及ばさなかったように思います。

(『日本の道教遺跡を歩く』朝日新聞社/1987年)

福永先生が言われるには、確かに朝鮮人は「神輿」を担いでやってきたが、神輿の中味はご神体をふくめて中国製であった、だそうだ。

允恭天皇の盟神探湯

五千頭の龍が昇る聖天宮

最後にもう一つ。


日本書紀の允恭(いんぎょう)天皇の記事に、まさに5世紀前半の事件として、ときの豪族たちが「帝の後裔」だとか「天孫降臨に供奉して天降った」とかテキトーな系図を捏造するので、「盟神探湯(くがたち)」でもって真偽を証明させたというものがある(或帝皇之裔・或異之天降)。


すでに「天降」は、豪族たちが自家を大きく見せる宣伝文句に使われていたということだ。


そんなタイミングで、高句麗から「天」だとか「天の至高神」だとかを輸入したとして、ヤマトの豪族支配に何の影響があるというんだろうか。

支配の根拠は至高の血統による!とか、もう説得力ゼロ、まるで無意味な段階のようにも思える。