紀元前32年頃、第2代綏靖天皇、磯城の姫様と結婚

(唐古・鍵遺跡)

綏靖天皇と唐古・鍵

唐古・鍵遺跡

日本書紀によれば綏靖天皇の2年(長浜浩明さんの計算では紀元前32年頃)、第2代綏靖天皇は「磯城県主の女、川派媛(かわまたひめ)」を皇后に立てたという。


「磯城(しき)」は今の磯城郡を中心に、天理市と桜井市を一部含む地域らしいが、その頃の「磯城」にあったのが、上の復元「楼閣」で知られる「唐古・鍵遺跡」といわれる弥生ムラだ。

  最盛期の総面積は30ヘクタール、うち居住区は18ヘクタール、人口は約900人という試算がある。


神武天皇の橿原宮からは、北に10キロほど。

奈良盆地にもっとも早く現れ、この辺では最大の規模を誇った「弥生のムラ」の姫さまと、綏靖天皇は結婚したというわけだ。

もちろん、政略結婚というやつだろう。

唐古・鍵というムラ

各地から唐古・鍵遺跡へ運ばれてきた土器

唐古・鍵ムラの広い交流を示すのが、「図31 各地から唐古・鍵遺跡へ運ばれてきた土器」。

(出典は『ヤマト王権誕生の礎となったムラ 唐古・鍵遺跡』(藤田三郎/2019年)


藤田さんによれば(畿内を除けば)、紀元前4〜前2世紀までは三河や尾張の土器が多かったが、紀元前1〜紀元後1世紀には吉備や播磨が上回っているそうだ。

東より西が文化的に優位になっていった、ってことだろうか。

銅鐸鋳型の出土した遺跡の分布

また、弥生時代を代表する祭器「銅鐸」は、近畿中央部が主導的に生産を行っていたというが、唐古・鍵ムラもその一つだったようだ。

「図39」は銅鐸の「鋳型」の出土した遺跡の分布だが、唐古・鍵の名前も見える。

(出典『古代出雲の原像を探る 加茂岩倉遺跡』(田中義昭/2008年)


一度に39個もの銅鐸が見つかって騒ぎになった、出雲の加茂岩倉遺跡出土品も、大半が畿内中央部からの搬入品だそうだ。

唐古・鍵と中国大陸

地形と地理で読み解く古代史

唐古・鍵からは他にも重要な事実が分かっていて、例えばここで発見された稲の遺伝子は、朝鮮半島には存在しない「中国大陸固有の品種」らしいこと。

(『地形と地理で読み解く古代史』洋泉社)


あるいは、近畿地方では数少ない前漢(紀元前206〜紀元後8年)の遺物「前漢鏡」が、このエリアの方形周溝墓から出土していること。


あるいは、中国の神仙思想・仙薬の知識(つまり道教)を取り入れて実践していたと考えられる、褐鉄鉱(かってっこう)容器が見つかっていること、などなど。


藤田さんはこれらを元に、紀元前後の唐古・鍵では「大陸からの文物のみならず精神的な部分も受け入れていた」と考察されている。

唐古・鍵の成立

というか、そもそもこの近畿最大級の弥生ムラには縄文時代からの継続性はほとんど確認できず、弥生時代前期に大和川をさかのぼってきた移民が定着したことから、ムラが始まったんだそうだ。

しかもその移民は 「渡来系」だと考えるしかない物証もあるらしい。

唐古・鍵の地にムラがつくられた当初は、弥生時代前期初頭(紀元前5世紀)の土器にまじってごく少量の縄文晩期土器が出土するような情況である。

この地では縄文時代晩期単独の遺構がみられないことから、人がほとんど住んでいない未開拓の、しかしながら農耕に適した肥沃で広大な大地がひろがっていた。

そこに稲作農耕の技術と文化をたずさえた人たちが、大和川をさかのぼってやってきたと私は考えている。

それは、唐古池東側堤防の護岸工事で検出され弥生時代前期末の木棺墓の人骨が馬場悠男により渡来系と同定されたことや、弥生時代前期初頭の土器やその他の遺物群が弥生文化として完成されているからである。

この地の縄文時代の人たちが稲作を採用したとするより、唐古・鍵の地に新しくムラを成立させた人たちは「ヤマト」在住の人たちではなかったとみてよいであろう。

『ヤマト王権誕生の礎となったムラ 唐古・鍵遺跡』(藤田三郎/2019年)

さて、こんなにも興味深い唐古・鍵だが、2世紀後半から環濠が放棄されたり、集落内部に墓域が形成されたりと、人々の「ムラ」に対する考え方がだんだんと変化していったそうだ。

そして西暦200年前後に、南東4kmのあたりに「纒向(まきむく)遺跡」が出現すると、唐古・鍵はしだいに解体されていったんだそうだ。


西暦32年頃、第5代孝昭天皇、尾張の姫と結婚(朝日遺跡)につづく

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