筑波山と淡路島のイザナギ
(履中天皇・允恭天皇)
筑波山神社のイザナギ・イザナミ
2023年秋。
天気が良かったので、仕事は途中でうっちゃって、茨城県方面に出かけてきた。
上の写真は車の窓越しに撮った「筑波山」の勇姿で、向かって左の峰が男体山で、右が女体山。
つくば市の名神大社で「筑波山神社」。
こちらは山腹の立派な拝殿だが、神は山頂の本殿に鎮座している。
男体山の祭神が「伊弉諾尊(イザナギ)」で、女体山が「伊弉冉尊(いざなみ)」を祀る。
筑波山神社は、古墳時代にこの地を治めた「筑波国造」が奉斎した神社だと考えられているそうだ。
筑波国造の八幡塚古墳
山麓にはその筑波国造のお墓があると聞いて、立ち寄る気マンマンのぼくらだったが、茶屋で食した蕎麦の話に夢中になって、完全に忘れて帰ってきてしまった(笑)。
仕方ないので、茨城県の公式サイトから写真をお借りして「八幡塚古墳」。
墳丘長91mの前方後円墳だ。
いかんせん、6世紀前半の築造ということで、第13代成務天皇が任命したという「初代」の筑波国造とは200年ほど年代がズレてしまう。
初代の筑波国造のルーツについて『日本の神々11関東』では、氏族制度の研究で知られる太田亮氏の考察を引いて、「釆女臣の族で物部の一族」か、「天津日子根命の裔で凡河内氏の族」か、の二説を挙げている。
『国造本紀』によればお隣の「茨城国造」もアマツヒコネ系とのことなので、筑波国造も後者がルーツというのが妥当なんだろうか。
ただ残念ながら、古墳のサイズでは「筑波国」は「茨城国」に負けている。
茨城国、最大の前方後円墳「舟塚山古墳」は「八幡塚」の約2倍、墳丘長186mというビッグサイズで、東国では上毛野の「太田天神山古墳」の210mに次ぐ第2位だ。
(石岡市公式サイト)
なぜ筑波山でイザナギ・イザナミか
それにしても何故、筑波山でイザナギとイザナミを祀っているんだろうか・・・なーんてことは、考える必要が全くないことらしい。
というのも、平安時代の記録では筑波山神社の祭神は「筑波男神」と「筑波女神」の二座で、江戸時代には何とヤマトタケルとオトタチバナだった時期もあるのだとか。
それが現在の祭神におさまったのは、紆余曲折の末の大正11年になってから。
元々はイザナギもイザナミも祀っていなかったんだから、理由を考えても答えは出ない。
秋九月の乙酉の朔壬寅(十八日)に、天皇は、淡路嶋で狩猟をなさった。この日、河内の飼部らが、天皇に従って、手綱を執った。
これより前、飼部の眼のふちの入れ墨のきずが、完全になおっていなかった。
そのとき、淡路嶋におられた伊弉諾神が、祝(祭祀に奉仕する神官)に神がかって「血の臭気にたえられない」と仰せられた。
そこで、卜(うらな)った。卜いのお告げに、「飼部らの入れ墨のきずの臭気が不愉快なのだ」ということが出た。
そのため、これより以後、飼部に入れ墨を行なうことをまったく止めてしまった。
(『日本書紀・上』中公文庫)
実はこのときの「伊弉諾神」は、履中天皇に「含み」を持っていたようだ。
父の仁徳天皇がかくれた後、息子たちの間でひとりの女性をめぐるお家騒動が勃発した。
この事件の解決後、履中天皇は騒動の相手「仲皇子」に味方した海人の頭領「阿曇連浜子」に刑罰として、目の縁への入れ墨を施した。
実はこのときの「阿曇連浜子」の部下が「淡路の野嶋の海人たち」だった。
イザナギとしては、自分を祀ってくれる淡路の海人族がうけた刑罰への軽い意趣返しのつもりで、天皇に嫌味を言ってきたんじゃないだろうか。
(筑波名物・山いもそば)
允恭天皇とイザナギ
淡路島のイザナギは、履中天皇の弟の第19代允恭天皇の御世にも登場し、やはり天皇にからんできている。
允恭天皇14年というから、長浜浩明さんの計算で440年頃。
履中天皇とのカラミからは、10年ほど後のことだ。
十四年の秋九月の癸丑の朔甲子(十二日)に、天皇は、淡路嶋に猟をされた。そのとき、大鹿・猿・猪が多く棲息し、入り乱れて山谷に満ちていた。炎のように起こり、蠅のように散った。
しかし、終日猟をされたのに、 一頭の獣も獲ることがおできにならなかった。そこで、猟をやめてあらためて卜(うらな)った。
嶋の神が祟って、「獣が得られないのは、私の指図なのだ。赤石(播磨国明石郡)の海の底に、真珠がある。その珠を私に祠れば、ことごとく獣を獲れるようにしてやろう」と仰せられた。
そこであらためて方々の白水郎(海人)を集めて、赤石の海の底を探させた。
(以下略)
(伊弉諾神宮・大鳥居)
倭の五王の時代のイザナギ
4世紀半ばの「天照大神」が、子孫のはずの仲哀天皇に祟ったり、神功皇后に「広田国(西宮市)」での祭祀を望んだりしたのは、まだこの神が「皇祖神」としては確立されていない時代だったことが、理由として考えられると思う。
それと同じように倭の五王の時代の「イザナギ」も、まだ淡路島ローカルの「嶋の神」に過ぎず、あの「国生み神話」の偉大なる「伊弉諾尊」とは別の神だったんだろう。
日本書紀によれば持統天皇5年(691年)に、18の氏族に「その祖らの墓記」の提出が命じられていて、その18番目に「阿曇(あずみ)氏」の名前が見える。
淡路の「嶋の神」イザナギの伝承は、このとき安曇氏の手で朝廷に持ちこまれ、やがて大幅に加工されて皇統に組み入れられた・・・とか、あるんだろうか。
※ちなみに18氏族の内訳は「大三輪・雀部・石上・藤原・石川・巨勢・膳部・春日・上毛野・大伴・紀伊・平群・羽田・阿倍・佐伯・釆女・穂積・阿曇」。
上の写真は、2020年8月に参詣した淡路国一の宮、「伊弉諾神宮」の拝殿。
「延喜式神名帳」では、最高ランクの「名神大社」とされる伊弉諾神宮だが、意外にも「神階」を得たのは遅く、清和天皇の貞観元年(859年)のことだという。
昇叙が遅い理由や背景は不明のようだが、この頃になってようやく「神代」の伊弉諾尊と淡路の「嶋の神」イザナギが、完全にひとつに統合されたのかも知れない。
なお、927年成立の「延喜式神名帳」では伊弉諾神宮は「一座」で、伴侶とされるイザナミとはまだ一緒に祀られてはいないようだ。
まぁ日本書紀には、イザナギの墓所は「淡路洲」の「幽宮」(第6段正伝)、イザナミの墓所は「紀伊国の熊野の有馬村」(第5段の一書)と書いてあるので、祭祀が別々でも不思議はないということか。