出雲神話⑬ミホススミとタケミナカタの日本海文化圏
美保神社のミホススミ
島根半島の東端、松江市美保関に鎮座する「美保神社」(2019秋参詣)。
現在の祭神は二柱で、まずは日本書紀の「国譲り」で、三穂で釣りをしていたところを父の大己貴神にその可否を問われた、事代主神(コトシロヌシ)。
もう一柱は日本書紀の一書で、国譲りに続くフツヌシの地上平定戦で帰順してきた大物主神(オオモノヌシ)に娶された、皇祖・高皇産霊尊の娘、三穂津姫(ミホツヒメ)。
だだ、927年の「延喜式神名帳」には美保神社は「一座」だとあり、733年の「出雲国風土記」には"美保の神"として別の名が挙げられている。
それが「御穂須々美命(ミホススミ)」だ。
美保の郷。
天の下をお造りになった大神の命が、高志の国にいらっしゃる神、意支都久辰為の命の子、俾都久辰為の命の子、奴奈宜波比売(ぬながはひめ)の命と結婚して生ませた神、御穂須々美(みほすすみ)の命、この神がご鎮座している。
だから、美保といった。
(『風土記・上』角川ソフィア文庫)
美保神社の祭神がいつから現在の二柱になったかは不明だが、上下関係でいえば幕末まではミホツヒメのほうが上だったらしい。
(『日本の神々 7』)
それが、コトシロヌシが「えびす」と習合して民間の信仰を集めるにつれ、明治以降に逆転し、今では祭事もコトシロヌシを中心に回っているのだとか。
出雲のタケミナカタ
さて、そんな経緯を聞くかぎり、出雲の美保にもともとコトシロヌシの信仰があったとは考えにくい。
大穴持(オオクニヌシ)が高志(越)のヌナカワヒメとの間にもうけた御子神はミホススミ、というのが古来、美保土着の信仰だったのだろう。
それが10世紀の「先代旧事本紀」になると、ミホススミはヌナカワヒメの子という地位さえ失ってしまう。
その座に就いたのは、諏訪大社の主祭神「建御名方神(タケミナカタ)」だ。
(諏訪大社・上社本宮)
タケミナカタは「古事記」の国譲りでは、オオクニヌシの次男(コトシロヌシの弟)として登場したものの、ヤマトの使者との力比べに敗れて信濃まで逃走し、諏訪から一歩も出ないことを誓って許された・・・とされるが、出雲の神ではない。
出雲国184の式内社に、タケミナカタを祀る神社はゼロだ。
一方「諏訪神社」は、現在の新潟県には1522社、長野県には1112社と、タケミナカタが北陸から信州にかけての信仰圏をもつ神だったことは明らかだ。
それを「古事記」が出雲まで引っ張り出し、ヤマトと関わらせた上で、また信濃に戻す、というややこしい作業で「国譲り」に関わらせた・・・。
というのも、「皇室の記録」である日本書紀に、タケミナカタは全く出てこないのだ。
日本書紀の「国譲り」は、オオクニヌシの"息子"、コトシロヌシの一存で決められたことになっている。
タケミナカタと日本海文化圏
こうした記紀のちがいを、古代文学・伝承文学を専門とされる三浦佑之さんは、日本書紀が、律令国家からみて「無意味なもの」である出雲から北陸にかけての「日本海文化圏」を、ザクッと排除した結果だと書かれている。
同様のありかたが国譲り神話にも見出せるのは、すぐ前に論じた通りです。
タケミナカタの出雲から州羽への逃走は、日本海を経て奴奈川(現在の姫川)をさかのぼって科野に至るという、縄文時代以来のルートが存在したことを証明しています。
おそらく古事記では、日本書紀が排除した出雲と高志とをつなぐ日本海文化圏の存在を裏付ける古層のタケミナカタ神話が、シーラカンスのように生き延びたのに違いありません。
(『古事記を読みなおす』三浦佑之/2010年)
ぼくも三浦先生のおっしゃる「日本海文化圏」はあったと思うが、同時に古事記には何らかの「作為」も感じるのは、その文化圏の主役は本来ミホススミであって、タケミナカタではなかった点からだ。
日本書紀にはヌナカワヒメも出てこないので、ミホススミと合わせてセットで丸っと削除したという理屈は分かる。
でも古事記はヌナカワヒメを、高志(越)における大国主神の「現地妻」だと明記してるんだから、出雲国風土記の伝承を共有していたことは間違いない。
なら「古層」を残したいならミホススミをそのまま登場させれば良いはずで、出雲と何の接点もないタケミナカタへの差し替えは、古事記だけがもつ何らかの意図を、勘ぐられても仕方のないことだと、ぼくには思える。
(出典『出雲を原郷とする人たち』岡本雅享/2016年)
いまも残るミホススミの信仰圏が、上の地図の鳥居のマーク。
著者の岡本さんはこれら全てを自分の目で確認してるんだから、プロの学者のあくなき探究心には頭が下がる。
地図からは(出雲の美保関から)、能登、富山、新潟、そこから南下して長野、群馬、ついには埼玉まで、ミホススミの信仰がうっすらと拡がっていることが見て取れる。
そしてそのルート上には、また別の「出雲イワイ(祝)系」と岡本さんが呼ぶ神社の広がりも重なっているわけで、これぞ出雲から発した「日本海文化圏」の痕跡だと言えるんだろう。
諏訪の神はミシャグジ(とソソウ)
ところで諏訪に残る伝承には、実はタケミナカタの方が「侵略者」「征服者」で、防戦むなしく敗れた諏訪土着の神(モレヤ神)の子孫が、代々タケミナカタを祭ってきたというものがある。
一冊丸ごと諏訪信仰に費やした『諏訪神社7つの謎』という本には、諏訪信仰の中心「諏訪明神」はタケミナカタではない、という地元の声が載せられている。
問題なのは前宮の祭神ばかりではない。諏訪信仰の中核にあったのは建御名方神ではなく、ミシャグジという謎の神であったのだ。
諏訪社の祭祀のどこにも建御名方神は登場していない。中世の祝詞や祭事に登場するのはミシャグジとソソウ神であったのだ。
だから諏訪の郷土史家たちは、諏訪の神様は諏訪明神であって、建御名方神ではないという。建御名方神は「外向けの、仮の名前なんだ」と択えているのだ。
(『諏訪神社七つの謎』皆神山すさ/2015年)
「ミシャグジ」という謎の神について、専門書の説明はこうだ。
<ミシャグジ>の祀られている所には必ず古樹が茂り、その木の根元には祠があり、御神体として石棒が納められているというのが最も典型的な<ミシャグジ>のあり方であるという。
(中略)湛木は神の降りる勧請木、石棒は神の宿る降臨石であったのではないかと想像できる。
(『古代諏訪とミシャグジ祭政体の研究』古部族研究会/1975年)
(諏訪大社・上社前宮)
まとめると、諏訪では、表向きは(官祭用に)タケミナカタを祀ってるとしながら、実際には縄文以来という土着の「ミシャグジ」の祭りを続けていた。
そんなタケミナカタを、オオクニヌシの息子に引っ張り出してきたのが、古事記・・・。
日本書紀が「排除」したというより、むしろ古事記が何らかの理由で必要としたのがタケミナカタ・・・そんな逆説も頭をよぎるが、もちろん答えは分からない。
せめて思いつきを記しておくなら、古事記にとって諏訪を「敗者」に置いておきたい理由が、その執筆当時にあったのでは?とか(天武天皇の信濃遷都とか???)。
北陸の前方後円墳
さて繰り返しになるが、三浦先生のいわれる「日本海文化圏」は存在したと、ぼくも思う。
ただそれは、出雲で「四隅突出型墳丘墓」の造営が終焉した3世紀前半と同じか、やや遅れて、北陸でも終わりを迎えていたようだ。
北陸でもつくられていた四隅突出型がそのころ終わり、ヤマト式の前方後方墳/前方後円墳への移行が始まったからだ。
(出典『邪馬台国時代のクニグニ』2015年)
「図8」は、北陸の弥生墳墓と古墳の編年をあらわしたもので、「越中」の四隅突出型の最終形がつくられた「Ⅵ期後半5群」てのが、畿内でいう「庄内型」の終わり頃なので、西暦で250〜270年ごろ。
「加賀」に北陸では最も早い、そして小っさい前方後円墳がつくられたのが「古墳1期」で、畿内だと「布留0式」の西暦270〜290年ごろ。
単純に考えれば、この頃には北陸にかなりのヤマトの手が及んでいることになるんだろう。
んで墳丘が100mを超えて大型化していったのが、西暦300年を越えてからのようで、まぁもう完全にヤマトの勢力下に置かれてたんだろうなと。
ヤマトの万行遺跡
(出典 七尾市教育委員会のPDF)
上のイラストは、西暦300年ごろの能登半島に存在していた「万行(まんぎょう)遺跡」といわれる倉庫群。
それまでの北陸には見られなかった規模が突然あらわれたもので、考古学者の高橋浩二さんは「倭政権」による運営だろうとお考えだ。
(略)これらの倉庫群は地域政権またはより小さな地域集団による管理が考えられるのに対し、万行遺跡のそれは計画性や建物の規模、構造等からみて、倭政権による経営が推測されます。
図14(※上のイラストのこと)のように、日本海を中継して船で運ばれてくる物資の集積・移出のための重要拠点だったと想像されます。
(「3世紀のコシ」髙橋浩二)
そういえば日本書紀で、ヤマトタケルが東征にでたのは景行天皇40年というから、長浜浩明さんの計算だと西暦310年ごろ。
めでたく日高見国を平定した帰り道、甲斐の酒折宮に滞在していたヤマトタケルは「信濃と越だけはまだ教化に従っていない」といい、部将の吉備武彦を越に派遣しているが、上の「図8」を見ると、なるほど確かにその頃から北陸の古墳の大型化が始まっているようだ。
これは吉備武彦が、「教化」に成功したということなんだろうか。
「出雲神話⑭美保神社のコトシロヌシは出雲の神か」につづく